聖書:イザヤ書50章4~7節・マルコによる福音書10章35~45節

説教:佐藤 誠司 牧師

「二人は言った。『先生、栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることが出来るか。』彼らが、『出来ます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。』ほかに十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』」(マルコによる福音書10章35~45節)

 

 

今日読んだ新約聖書の箇所は、二人の弟子たちの不名誉なエピソードを伝えています。二人の弟子たちとはゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟です。この二人の名前は、ご存じの方が多いと思います。12人の弟子たちの中でも、ペトロと並んで特に重んじられた人たちです。実際、10章の2節以下に記された「山上の変貌」の物語で、主イエスが山に登られたとき、主イエスが特に選んで連れて行かれたのは、ペトロとヤコブ、ヨハネの3人だけでした。この3人は、主イエスの生前、主イエスに重んじられただけではありません。主イエスの死と復活の後に、地上に教会が誕生した。そのときに、教会の指導的な立場に立てられたのが、この人たちでした。

そのヤコブとヨハネが、他の弟子たちの知らないところで、他の弟子仲間を出し抜く形で、主イエスのもとに来て、とんでもない願い事をした、というのが事の発端です。彼らはこう願い出たのです。

「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

いかがでしょうか。弟子たちの口から出たとんでもない願い事というのは、枚挙に暇がありませんが、これはまた格別と言いますか、じつに厚かましい願い事ですね。彼らの願いは、こうです。主よ、あなたが栄光を受けるときが必ず来る。あなたが勝利する日は必ず来る。そのときに、私たち兄弟を、一人はあなたの右に、一人は左に座らせてください。彼らはそう願い出たのです。この「右と左に座る」というのは、たまたまそこに座るということではありません。そこを自分のための特別の場所とする、ということです。つまり、これは場所のことではなくて、地位のことなのです。昔の日本に、左大臣、右大臣という官職がありましたが、あれと似ているかもしれません。真ん中に支配者がいて、その右と左に備えられた特別の地位に、私たちを就かせてくださいと、彼らは願い出たのです。

こういう厚かましい願い事というのは、大手を振って出来るものではありません。ですから彼らは他の弟子たちを出し抜いて、ひそかに願い出たのです。ひょっとして彼らも、自分たちの願い事の虫の良さに気づいていたのかもしれません。

さあ、この願いに、主イエスは何とお答えになったでしょうか。

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」

じつに厳しい答えであると思います。しかし、その厳しさは、いったい誰に向けられた厳しさなのでしょうか。この厳しさは、一通り聞いただけでは、二人の弟子たちに向けられているかに見えます。しかし、主の言葉が進むにつれて、この厳しさが向けられた矛先が明らかになっていきます。主の言葉は続きます。

「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることが出来るか。」

「わたしが飲む杯」と「わたしが受けるバプテスマ」という二つのことが語られています。「杯」というのは、上に立つ人物から「飲め」と言われたら、断ることが出来ないものでした。そういうところから、この「杯」という言葉は避けることの出来ない定め、運命という意味を持つようになった。そういう言葉です。そういえば、十字架につけられる前の晩、主イエスがゲッセマネの園で祈られた。あの祈りにも「杯」という言葉が出て来ます。主イエスはこう祈っておられるのです。

「父よ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心に適うことが行われますように。」

このゲッセマネの祈りの言葉と併せ読むと、今日のところで主イエスが「わたしが飲む杯」と言われたことの意味が分かってきます。「杯」とは、主イエスが受けることになる十字架の苦しみのことだったのです。

そしてもう一つ、「わたしが受けるバプテスマ」と言っておられる。バプテスマというと、今では「洗礼」を意味するキリスト教の用語となっていますが、じつは当時はそうではありませんでした。どういう意味を持っていたかと言いますと、何かの中に全身を浸すこと、何かの中に足の先から頭の先までを入れてしまうことなのです。主イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになりました。あれは悔い改めのバプテスマでした。悔い改める必要のない主イエスが人々に混じって悔い改めのバプテスマを受けてくださったのです。しかし、主イエスは、あと一度、足の先から頭の先まで全身を入れてしまわれたことがあります。さあ、それはどこだったでしょうか。そう、墓の中なのです。墓の中に、三日の間、全身を横たえられた。

このように、主イエスは、とんでもない願い事をした二人の弟子に厳しい言葉をかけておられるかに見えて、じつはその厳しさは主イエスご自身に向けられていたことが分かります。そんな主イエスの心を知るよしもない二人は、「出来ます」と答えています。じつに愚かで、浅薄な答えであると思います。これは譬えて言えば、親におねだりをしている子供が、親に向かって「約束するから早く頂戴」と言っているようなものです。

主イエスは、彼らの心を見抜いて、こうお答えになりました。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。」

この「何々することになる」という表現は、主イエスが弟子たちの将来の歩みを言われるときにしばしばなさる言い方です。あなたがたは今は何も分かっていない。しかし、やがて、あなたがたは私と同じ道を行く。私と同じ杯を飲み、私と同じバプテスマを受ける。主イエスはそう言われたのです。ヤコブとヨハネはきょとんとしていたかもしれません。すると、主イエスは、さらに不思議なことをおっしゃった。

「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

おそらく、これは来るべき神の国における祝宴のことを言っておられるのでしょう。主イエスは、神の国のことは神がお決めになる。だから私にも決められることではないと言われたのです。要するに、私も父なる神にお任せしているのだから、あなたがたは自分の席次のことであれこれと要望を出すべきではないと言われたのです。

このように、ヤコブとヨハネは、とんでもない願い事をしてしまったわけですが、こういうことは空気の振動のように何となく伝わってしまうものです。他の弟子たちが聞きつけたのです。聞きつけて、どうしたか。「ヤコブとヨハネのことで、腹を立て始めた」書いてあります。まさに、さもありなん、という感じです。「自分たちだけで美味い汁をすすろうなんて、とんでもない野郎だ」というわけです。

ところが、こういうときに出て来る他者への批判というのは、案外、自分の中にある願望を正直に映し出したものです。ヤコブとヨハネのことで憤慨した弟子たちも、じつは、二人と同じ願望を心の中に隠し持っていたということです。要するに、うらやましかったのです。

主イエスは彼らの思いを見抜いて、一同を呼び寄せて、こう言われました。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

口が酸っぱくなるほど、という言い方がありますが、これは主イエスが、まさに口が酸っぱくなるほど繰り返し弟子たちに語られた言葉です。逆に言えば、弟子たちは、主イエスがこのことを繰り返し諭さなければならないほど、上昇志向だったということです。偉くなりたいし、人から偉く見られたい。あの人は、なかなか頑張っている。見上げたもんだと言ってもらいたいのです。主イエスは、そんな弟子たちの身勝手な願いも、愚かな上昇志向の心根も、すべて承知して、こう言われました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

物語はここで終わっています。考えてみれば、唐突な終わり方だと思います。私たちは教会生活を続ける内に、福音書の語り口調に慣れてしまっていますから、あまり違和感を感じないかもしれませんが、初めて福音書を読む人は、なんでここで終わるのだと、不思議に思うのではないでしょうか。私自身、福音書を読み始めた頃は、なんとなく違和感を覚えたものです。福音書の物語は、主イエスが言われた決定的な言葉で終わっていることが多いのです。これが普通の文学作品なら、決定的な言葉を聞いた相手の人物の反応や心の思いを描くことが多いと思います。今日の物語で言えば、イエス様の決定的な言葉を聞いて、弟子たちが恥じ入ったとか、ヤコブとヨハネが反省したとか、言いそうなものですが、福音書はそうはしない。主の言葉でプツンと終わる。なぜなのでしょうか。さあ、皆さんはなぜだと思われますか?

私はここに福音書の秘密があると思います。福音書は、一朝一夕で出来上がったのではありません。長い年月をかけて主イエスの言葉と御業が集められ、主イエスに救われた人々、癒された人々の証言が集められました。ザアカイの証言があったかもしれない。主イエスの足に香油を塗った罪の女の証言も集められたでしょう。マルタとマリアも喜んで主イエスの恵みを証ししたことでしょう。その中に、弟子たちが語った証しがあったのです。ペトロが、ヤコブが、ヨハネが証しを語りました。その中に、今日のヤコブとヨハネのお話もあったのです。

今日の説教の初めのところで、私はこう申し上げました。ヤコブとヨハネはペトロと並ぶ教会の指導的な立場に立った人たちだとお話をしました。教会の指導者であれば、今日の物語のような、自分たちにとって都合の悪いお話は手を回してカットさせてもよさそうです。「すまんけど、あれは載せんといてくれるか」とか言いそうなものなのに、そうはしなかった。なぜなのでしょうか。あれこそが、彼らが語った証しだったからです。

彼らが語った証しのほとんどは、いわゆる失敗談でした。滑稽な、ほほえましい失敗談ではありません。彼らが語った証し。それは愚かしい失敗であり、時に醜い争い事もあったでしょう。主イエスを見捨てて逃げたことも、彼らは包み隠さず語りました。

しかも弟子たちは、愚かな自分を語るのに、自分を責めませんでした。自分を責めるのではなく、そんな愚かな自分たちを立ち直らせてくださった主イエスの御業を感謝をもって証しした。そして、自分たちを立ち直らせ、ここまで導いた主の言葉を結びにして、一つ一つの物語を紡いで行ったのです。キリストの言葉で唐突に終わる福音書のスタイルが、こうして生まれました。このスタイルには私たち読者への願いが込められています。ペトロやヤコブ、ヨハネたちの願いが込められている。あなたも、私たちと同じ道を歩んでほしいという願いです。

振り返ってみれば、私たちも、ペトロやヤコブ、ヨハネに引けを取らないほどの愚か者です。愚かというのは、弱さのことです。この弱さにキリストの力が働き、愚かさにキリストの愛が沁みとおる。キリストの愛と力に、私たちも立ち直らせていただきましょう。これが弟子たちが歩んだ道であり、私たちにも備えらえた信仰の筋道だと思うのです。

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月7日(日)のみことば(ローズンゲン)

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(旧約聖書:箴言25章21~22節)

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」(新約聖書:ルカ福音書6章32節)

今日の新約の御言葉は、私たちの愛の急所を突く言葉ではないでしょうか? 結局、私たちは自分を愛してくれる人しか愛せないのではないか? 私たちは、さすがに、憎む者を憎み返したり、ののしる者をののしり返すようなことはしないかも知れません。しかし、愛することに於いては、どうだろうか? 自分を愛してくれる人を愛し返しているに過ぎないのではないだろうか? 憎む者を憎み返したり、ののしる者をののしり返したりするのと同じレベルのことが、愛に於いては起こっているのではないでしょうか?

愛してくれる人なら愛することが出来る。そうでない人は、どうも愛することが出来そうもない。正直言って、これが案外、私たちの愛の正体ではないかと思うのです。これはどういうことかと言いますと、愛というものを好き嫌いの感情のレベルに押し込めているということです。自分によくしてくれた人には自然と愛想がよくなる。しかし、それが愛だと言ってよいのか? 主イエスが問うておられるのは、そこなのです。