聖書:イザヤ書40章27~31節・マルコによる福音書16章1~8節

説教:佐藤 誠司 牧師

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコによる福音書16章8節)

 

キリスト教信仰というのは、復活が肝心要です。復活されたイエス・キリストが、いつも私たちを守り、支え、導いてくださる。そういう信仰に立っているのが私たちです。それは、普通の人の感覚からすれば、あり得ないことです。「そんなこと、あるはずがない」と、多くの人は言うでしょう。とても理性では考えられない。しかし、そのあり得ないこと、考えられないことが、イエス・キリストにおいて起こったのだというのが、じつはキリスト教の一番肝心なところです。ですから、マルコ福音書は、そこのところを強調して、こういう形で復活の物語を締めくくっています。8節です。

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。いかがでしょうか。これがマルコ福音書の幕切れです。このあと、少し続きがあるように見えますが、それらは、じつを言いますと、後世の付けたし部分でありまして、マルコ福音書は「恐ろしかったからである」という、まことに味気ない言葉で終わっている。もう少し感動的な言葉で終わっていれば良さそうなものをと思われたかも知れません。しかし、これがマルコ福音書の主張なのです。この婦人たちは、主イエスの十字架の死の有様を見ても、恐ろしいとは思わなかった人たちです。それが、天使から主イエスの復活の知らせを聞くと、恐ろしいと感じたのです。ここに謎を解く鍵があります。

さあ、マルコの言う、この「恐ろしい」というのは、どういうことなのか。私たち人間の心というのは、想定内のことには、さほど、恐ろしさは感じません。ところが、全くの想定外の出来事に遭遇するや、途端に恐ろしさを感じてしまう。マルコ福音書が言いたいのは、じつは、そこなのです。キリストの復活は、主イエスを信じる人々にとっても、想定外の恐ろしい出来事だったのです。

で、その想定外の恐ろしい出来事とあなたの人生は、いったい、どういう関係にあるのか、というのが聖書の問いかけです。さあ、イエス・キリストの復活と私たちの救いは、いったい、どういう関係にあるのでしょうか。

私たちは聖書を読んでいて、その御言葉に慰めを得たり、励まされたり、力を与えられたりします。特に、イエス様が十字架の上でなさった執り成しの祈りなどを読みますと、イエス様が私たちのために贖いの犠牲となって死んでくださった、有り難いことだと思います。しかし、イエス様がそう言われ、そう思ってなさったことであっても、本当にそうなのか、イエス様がそう思い込んでおられただけではないかという疑問は、心のどこかに、それこそ、沸々とあるわけです。イエス様が十字架につけられた時、周りで見ていた人たちは「もし、お前が神の子キリストなら、今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやる」と言いました。

私たちは、ここを読みますと、なんてひどいことを言うのだと思って憤慨してしまいますが、しかし、改めて考えてみますと、これは、私たち人間が心の奥底に秘めている一つの問いかけではないかと思います。本当にイエスというお方は救い主なのか。本当にイエス様は私のために十字架についてくださったのか。聖書はそう言っていると牧師は言うけれど、本当にそうなのか。本当に主イエスの十字架は神様の御心であり、神のご計画なのかと。こういう「本当なのか」という疑念、問いかけが、私たちの心には確かにあると思います。

じつは、ここのところが解決しない限り、私たちは本当に心からキリストを信じるということにはならない。洗礼を受けてキリスト者になった人でも、一応「信じます」とは言ってるけれど、実際に生活の中で、本当にキリストは私の救い主なのか、本当にキリストは私のために十字架にかかってくださったのかという問題に、明確な確信が持てないために、信仰生活がどこかぼやけたままの人が、案外多いのではないかと思うのです。

こういう疑念、迷いに対して、いや、本当にこれは神様の救いのご計画であって、私もこのご計画の中に引っ張り込まれて、救われているのだと、明確に保障するのが、キリストの復活です。そして、それが全くの想定外のことであったというのが、マルコ福音書の大きな主張です。神様は人間が想定できるようなことは、なさらない。まさに想定外の御業によって、神様はキリストの福音が紛れもない神様の救いのご計画であることを、ハッキリと保障なさったのです。これが一つのことです。

そして、主イエスの復活の二つ目の意味は、どういうことかと言いますと、イエス・キリストが復活なさったということは、キリストが今も生きておられるということです。これも皆さん、当たり前ではないかと、そう思われるかも知れません。確かに、理屈で考えたら、当たり前のことなのです。イエス様は復活なさったのだから、生きておられる。当たり前です。しかし、その当たり前のことが、私たちの生活の中でどのような意味を持っているか。主イエスは生きておられるということを、私たちが信仰生活の中で具体的にどう受け止めているかということ。やっぱりここをハッキリさせておかないと、私たちの信仰というものが、どこかあやふやなものになってしまうのではないかと思うのです。

具体的なことを、一つ言いますと、福音書の中にはイエス様が語られた言葉がたくさん収められていますね。皆さんは日頃、聖書をお読みになっていて、このイエス様のお言葉を、どのような気持ちで読んでおられるでしょうか。かつてイエス様はこうおっしゃったのだと、そのような気持ちで読まれることが多いのではないでしょうか。時折聞くことですが、自分は最近どうも信仰がハッキリしないんだけれど、私もイエス様の時代に生きておれば、イエス様から直接お言葉をかけていただけて、そうしたら自分の信仰も少しはハッキリするだろうと。イエス様から直接声をかけていただいた人、直接手を置いて祈っていただいた人は、なんて幸せなんだろうと、そういうことを言う人がいます。これは決して悪いことではありません。そういう想像の翼を張り巡らして聖書を読むことは、なんだか楽しいことも事実です。

けれども、どうでしょう、イエス様は過去の人なのだろうか。私たちが聖書を読む時、自分の今の生活とは関係の無い過去の出来事を読んで、その中から、今の自分の生き方に参考になりそうな部分を切り貼りしながら読む。当てはめながら読む、もし、そういう読み方をしているならば、私たちは、とんでもない間違いを犯しているのではないかと私は思う。聖書の世界と今の自分との間に隔ての壁があって、聖書の登場人物はイエス様から直接お言葉をかけていただける。自分はそうではないと。しかし、イエス様が復活なさって、今も生きておられるのであれば、そういう考えは間違いではないでしょうか。福音書の中に収められた主イエスのお言葉。姦淫の女に言われたお言葉がある、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。もう二度と罪を犯さないように」と言われました。また孤独なザアカイに向かって「降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まるから」と言われたお言葉がある。12年もの間、病にさいなまれて、顔を隠したまま後ろからイエス様に触れた女に言われた言葉があります。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

このイエス様が、そのまま、今もここに生きておられる、働いておられる。お言葉をかけておられる。聖書の世界は別世界ではない。それはずっと続いてきて、今、私たちの生きている世界、私の人生と結び付いています。だいたい、イエス様から大事な言葉をかけていただいた人物というのは、一つの共通点がありまして、生き方のどこか大事なところに弱さを抱えている。しかも、その弱さは、克服しなければならないのだけれど、この人独りでは、どうしようもない。そういう人の心の中心に向かって投げかけられるようにして語られるのがイエス様のお言葉なのです。癲癇に苦しむ息子を抱えた父親が、イエス様に助けを求めたですね。その時、彼は「出来れば、助けていただきたいのです」と言った。すると、その父親の弱さを秘めた心に向かって、イエス様はおっしゃったですね。

「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る。」

すると、あの父親は、まるで雷に打たれたように反射的に言った。

「主よ、信じます。信仰の無いわたしをお助けください。」

弱さに向かって語られるとは、こういうことです。弱さをえぐるのではない。弱さを隠すのでもない。弱さの中に、力を与える言葉があるのです。だからパウロは「弱い時にこそ強い」と言った。

聖書の世界の人たちはイエス様のお言葉が聞けるからいいなあ、自分は聞けないからダメだなあと、そういうぼやきは、主イエスの復活の本当の意味を知らないから出る、ため息のように無力な思いです。そういうぼやきは、本当にイエス様が生きておられるということを、ちゃんと受け止め切れていないということではないでしょうか。その線でやって行きますと、聖書の言葉だけではダメだ、聖書の言葉、イエス様の言葉を自分で何とか料理して、工夫して、それを糧にして、頑張って信仰生活をしていかなければいけないと。しかし、それは間違いなのだと。私の弱さ、私が抱えている問題。そこの中心に向かって、語りかけてくださる。私たちは福音書と同じ世界に生きている。これがイエス様の復活を信じるということの中身です。だから、イエス様の復活を信じる人は、弱さを恥じるな、弱さを隠すなということです。パウロのように「私は弱い時にこそ強いのだ」と、イエス様を喜んでいたら良いのです。それを邪魔するものは、何でしょうか。

私たちは、いつも表向きの建前で生きていく癖がついています。他人に対してもそうですけれど、どうかしますと、自分に対しても建前ばかり言って、本当の自分を無意識のうちに隠してしまっています。これは、小さい頃から、本音を出してはいかん、本当の自分を出してはいかんと、躾けられてきたからかも知れません。表向きの建前で、その場その場をきれいにまとめて、そつなく生きていく。普通のこと、世間一般のことなら、それで良いかも知れません。しかし、本当に自分の救い、自分の本当の生き方ということ真面目にを考える時には、そんなきれいごとではダメなのです。自分の心の奥底にある弱さ、それは触れられたくないものかも知れません。しかし、それがどんなに醜いものであっても、どんなに情けない、親にも言えないような、みっともないものであったとしても、本当のものを一遍、出してみるのです。そしてそれが、キリストの復活とどう関わっているか、イエス様が今も生きて働いておられるということと、どんな関係にあるか。キリストの十字架と復活というものが、この嫌な醜い自分の問題を本当に解決する力があるかどうかということを、ごまかさないで考えてみる。自分と神様との間で、自分だけに向けられている答えを、聞き取るのです。自分の心で聞き取る。弱さで聞き取る、それが大事です。ごまかさないで生きることです。本当の自分を出して、本当の答えを聞くことが大事なのです。

ペトロの場合が、そうでした。ペトロは、主の復活を知らされて、それでたちどころに立ち直ったかと言うと、そうではなかったですね。むしろ、彼は、もう主イエスの弟子であることを捨てて、失意のうちに、故郷のガリラヤに再び漁師になるために帰って行ったのです。ご存知のように、ペトロは主イエスが捕らえられた時、三度にわたって主イエスを否認しております。イエス様のとを「あんな人、知らない」と言ったのです。そのことが、どうしても赦せずに、彼は弟子であることを捨てました。主イエスを三度、否認したことを忘れるために、弟子であることを捨てたと言っても良いと思います。

ところが、このガリラヤで復活のキリストが彼と出会ってくださる。そしてペトロに向かって、三度「あなたは私を愛するか」と問われたのです。三度問われた。これはペトロに、主イエスを三度否認したあの出来事を思い起こさせたに違いありません。「イエス様なんか知らない」と三度も否認した。あの出来事を思い起こさせたでしょう。

主イエスは、いったい、何のために、そんなことをなさったのでしょうか? 私たち人間は、自分のとんでもない失敗や醜い失態を、忘れてしまおうとする性質があります。自分でも触れたくない。忘れてしまうと、確かに楽なのです。しかし、その問題が本当に解決されないと、本当の生き方が出来なくなる。主イエスはペトロに、本当の生き方を取り戻させるために、あの出来事に触れられたのです。そして、ペトロの、そうした罪が、すべて赦され、完全に贖われていることを、お示しになりました。そしてペトロに向かって「私の羊を養いなさい」と言って、新たな使命をお与えになった。ここなんです。大事なのは。自分でも触れたくない本当の自分、忘れてしまいたい自分の問題が、キリストの十字架と復活と、どういう関係にあり、どういう解決が成し遂げられているのか。そこをきちんと白日のもとにさらけ出し、始末をつけていただくことが大事なのです。ですから、皆さんお一人お一人が、自分の本当の問題は何か、その問題のために、キリストは十字架にかかり、死者の中から復活をなさったということを、真面目に考えて、心に刻んでいただきたいと思います。そして、皆さんお一人お一人が、キリストの復活を他人事のように思うのではなく、キリストの復活によって与えられている自分の救いというものを、しっかりと確認していく。その確認をした時に、私たちの前に、まさに想定外の生き方が開けてきます。これがキリストの復活が切り開く道です。あなたの信仰があなたを救った。安心して生きなさい。この生きた御言葉を信じる幸いが、ここから始まります。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月10日(日)のみことば

「わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。」(エレミヤ32章41節)

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(第一コリント書15章42~43節)

蒔かれるときは朽ちるものであっても、朽ちないものに復活すると言われています。さあ、この「朽ちないもの」って、何なのでしょうか。同じ言い方が続きます。蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活すると言われています。さあ、この「輝かしいもの」って誰のことですか。蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活すると言われています。さあ、この「力強いもの」って、誰のことでしょうか。キリストのことなのです。

それに対して「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」というのが、私たちのことです。では「蒔かれるとき」とは、何のことなのか。種が蒔かれると、種としての命は、そこで終わってしまいます。そして、蒔かれるというのは、言い換えますと、地に落ちることです。主イエスの言葉が思い起こされます。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

蒔かれるというのは、このことだったのです。私たちの地上の人生は、やがて、その命を終えてしまいます。それは誰にも否定し得ないことです。しかし、私たちの命は、死んでおしまいではない。必ず、朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する。すなわち、キリストと同じ「霊の体」に復活させられる。キリストと同じになるのです。