聖書:ルカによる福音書17章11~19節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰って来る。」(詩編126編3~6節)

「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」 (ルカによる福音書17章14~16節)

 

今日は久しぶりに旧約聖書を読みました、やはり礼拝では旧約と新約が共に読まれるというのが、キリスト教会の伝統ですから、私たちはやっと本分に帰って来たわけです。今日読んだ旧約聖書は詩編の126編。これは悲痛な祈りの言葉です。この悲痛さは、イスラエル民族が経験した国家的悲劇が背景になっています。国が滅ぼされて、多くの人々が奴隷としてバビロンに連行された。いわゆるバビロン捕囚です。心ある人々の間に徹底的な悔い改めが起こりました。その中で彼らは、こう考えたのです。国が滅び首都エルサレムが陥落したのは、自分たちが上辺だけの礼拝を捧げて、神に背き続けたからではないか? しかし、神は生きておられる。もし、自分たちが心から神に立ち返るならば、神は自分たちを赦してくださるだろうか? もう一度、神の御前に帰って来ることが許されるだろうか?

このような悲劇を背景に持つ詩編126編は、確かに悲痛な詩編ではありますが、それは単なる悲痛さに終始せず、生ける神への希望が光となって闇を照らす。だからこの詩編は、こう歌うのです。

「主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰って来る。」

本当の希望を痛切に歌った、美しい詩編です。この詩編の最後の言葉に注目してください。「帰って来る」という言葉がありますでしょう?

帰って来る―。何気ない言葉のようですが、じつはこれ、聖書全巻の大きな主題の一つなのです。バビロン捕囚が背景にある詩編126編はもちろんのこと、ほかにも「帰って来る」ことが主題になった物語や御言葉がたくさん出て来ます。創世記3章の楽園追放の物語は、どうでしょうか? ヘビの誘惑に負けて禁断の木の実を食べて罪に落ちたアダムとエバを神はエデンの園から追放されるという、あの物語です。

でも、あのお話の、いったいどこに「帰って来る」モチーフがあるのかと不審に思われるかも知れません。けれども、よく読んでご覧になると分かります。神は彼らを楽園から追放なさる時に、彼ら自身が身にまとったイチジクの葉の衣ではなく、ご自身が造られた革の衣を二人に着せて、その上で彼らを追放なさった。あれはいったい、どういう意味なのか?

じつはあの革の衣は、彼ら人間の男女が、もう一度帰って来るようにという願いが込められた、いわば「はなむけの衣」なのです。とはいえ、罪に落ちた人間は再び楽園の住人となることは許されません。楽園に帰って来るのではない。そうではなくて、神の御前に二人揃って帰って来れるようにという願いを込めて、神様はあの革の衣を二人に装ってくださったのです。人間の男と女が神の御前に帰って来る。革の衣ではなく、キリストを身にまとって、罪赦されて帰って来る。そう、教会の結婚式で見る男女の装いは、ここに端を発していたのです。

さて、ここから聖書は「帰って来る」ことを主題にしてメッセージを語り始めます。罪に落ちた人間は、いかにして神の御前に帰って来ることが出来るか? このモチーフから様々な物語が語られていきます。出エジプトの物語も、そうです。あれはエジプト脱出の物語であると同時に、神の民とされた人々が約束の地に帰って来る物語でもあります。また主イエスも「帰って来る」ことを主題にした譬話を語っておられます。ルカ福音書15章の有名な「放蕩息子」の譬話です。あの放蕩に身を持ち崩した息子は父のもとに帰って来ることを決意しますが、あれは彼が一人で決意したことなのでしょうか? 違うのです。もちろん、彼は決意したには違いない。しかし、彼の決意以前に、あの父親の悲痛なまでの願いがあったのです。だからこそ、あの父親は、息子がまだ遠く離れているのに、いち早く、わが子を見つけて、走り寄ったのでしょう。

このように見てまいりますと、聖書が語る「帰って来る」物語には大きな特徴と共通点があることに気づきます。それは、人が神のもとに帰って来る、そのことの背後には神の悲痛なまでの願いと招きがある、ということです。人はただ自分の決意で帰って来るのではない。神の招きに応えて、帰って来る。導きに応えて帰って来るのです。だからこそ、罪人が悔い改めて帰って来る時に、天には大きな喜びがあるのです。

ルカによる福音書の17章にも「帰って来る」物語があります。帰って来たのは、一人のサマリア人、つまりユダヤの人々からみれば外国人だったのです。

ユダヤの人々とサマリア人は、もとは同じ神を信じる人々で、ちょうど兄弟の関係にあった人々です。ところが、不幸ないきさつによって、互いに反目しあうようになった。互いに反目する兄弟というのは、他人同士よりもこじれやすいものです。主イエスの時代には、ユダヤ人とサマリア人は絶交状態にあった。同じ神を礼拝するのに、別の神殿を立て、別の祭司を立てていたのです。

主イエスがガリラヤとサマリアの間を通られた時のこと。ある村に重い皮膚病を患っている10人の人が主イエスを出迎えたと書いてあります。これは正確に言うなら、村はずれです。なぜなら、この病を患った人は、町や村の中には住むことが許されなかったからです。これは、この病が重い病だというだけではなく、汚れた病、神に呪われた病とされたからです。ですから、ひとたびこの病にかかれば、家族からも会堂の礼拝共同体からも引き離されて、村はずれへと追いやられた。そこで同病相憐れむようにして、同じ病の人々が明日をも知れぬ命をつないでいたのです。彼らは、道を通るとき、大声でこう叫ばなければなりませんでした。

「わたしは汚れた者です。どうぞわたしから離れてください。」

彼らはいつも、そう叫んでいた。しかし、この時だけは違った。主イエスがこの村に来られる。その噂を彼らは聞きつけて、決心して出て来た。主イエスと出会うために、出て来たのです。そして、主イエスを見つけるや、遠い距離を保ったまま、大声で叫んだ。今まで叫んだこともない、心からの願いを、彼らは声をかぎりに叫んだのです。

「イエスさま、先生、どうかわたしたちを憐れんでください。」

すると、主イエスは彼らに近づき、彼らの病気の有様を見て、こう言われたのです。

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」

どうして祭司なのか? それは先にも言いましたように、この病は神に呪われた病、汚れた病とされていましたから、病気が治るだけでは不十分で、社会復帰のためには祭司に見てもらって清くされたことを宣言してもらわねばならなかったのです。

さあ、彼らはどうしたことでしょうか? なんと彼らは、主イエスの癒しの力と言葉とを信じて、村に入るのです。入ることを禁じられた村に入った。まだこの時は癒されていないにもかかわらず、癒しを信じて、主イエスの力を信じて村に入った。すると、どうでしょうか? 彼らが歩んで行くその道の途上で、彼らは癒される、清くされるのです。彼らの喜びは、いかばかりであったことでしょう。

ところが、ここに彼らの生き方を大きく二つに分ける出来事が起こります。道の途中で、彼らが癒されたその直後のことです。こう書いてあります。

「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」

この10人は皆、自分が癒されたのを道の途中で知ったのです。嬉しかったでしょう。喜んだことでしょう。互いに肩を抱き合ったかも知れません。そこまでは全く同じだった。

しかし、その先が違った。一人だけが、癒してくださったお方のもとに帰って行ったのです。大声で神を賛美しながら帰って来た。ただ帰って来ただけではありません。ルカはそこのところを極めて正確に描いています。彼は、帰って来るなり、主の足もとにひれ伏し、感謝したと書いている。主イエスは、そんな彼をご覧になって、こう言われる。

「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

ここには主イエスの喜びと悲しみがハッキリと語られていると私は思う。喜びと悲しみ、そのどちらをも私たちは見逃してはならないと思います。主イエスはご自分の御業を受けた人が帰って来たことを心から喜んでくださる。それは私たちにも分かることでしょう。しかし、主イエスの悲しみに、私たちは思いを馳せることがあるでしょうか? 帰って来なかった人々がいる。そのことを主イエスは悲しまれる。「ほかの9人はどこにいるのか」と言って、悲しんでおられるのです。

でも、どうしてここまで彼らの反応は違ってしまったのか? サマリア人も、9人のユダヤ人も、同じ御業を受けたのです。受けた恵みは等しかったはずです。癒され、清くされた。その恵みに不足は無かったはずです。しかし、恵みは同じでも、恵みの受け止め方が全然違った。

9人の人々が帰って来なかったのには、様々な理由があったでしょう。主イエスのもとに帰るよりは、祭司に清くなったことを宣言してもらうほうが先だという認識は、おそらく、彼らにはあったと思う。清くなったことを祭司に宣言してもらってから、主イエスのもとに帰れば良い。そう彼らが考えたとしても不思議ではありません。しかし、一旦、祭司に宣言してもらうと、もう彼らには次に行きたい所が出来てしまう。家族のもとかも知れません。親しかった友人の所かもしれない。場所は様々なのです。しかし、彼らは主イエスのもとよりも、そちらを優先した。主イエスのもとに帰るより、好きな人の所に行くことを優先したのです。

このように、主イエスのもとに帰って来ない理由は様々なのです。しかし、主イエスのもとに帰って来る理由は、ただ一つです。神を賛美し、主イエスに感謝をささげること。それだけです。

しかし、主イエスはご自分のもとに帰って来た人を喜んでくださるのは、ただ帰って来たからなのでしょうか? そうではない。帰って来た人を、もう一度遣わしてくださるのです。主イエスは、ご自分のもとに帰って来た人に、こう声をかけてくださいます。

「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

これは主イエスのもとに帰って来た人が必ず聞く御声です。主イエスのもとに帰って来た人は、必ずこの声を聞きます。そして、ここから遣わされる。主イエスのもとに帰る幸いとは、主イエスのもとから遣わされる幸いのことだったのです。そして再び主のもとに帰って来る道が開かれていく。

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰って来る。」

これが私たちの姿です。喜びの歌が与えられて主のもとに帰り、主のもとから遣わされる。これは原点が与えられるということです。私たちは、いつもこの原点に帰って来て良いのです。

 

 

 

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