聖書:使徒言行録9章19b~31節

説教:佐藤  誠司 牧師

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか。」 (イザヤ書43章18~19節)

「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐにあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。『あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。』しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。」(使徒言行録9章19b~22節)

 

ルカによる福音書を書いたルカが、福音書だけではどうしても終わることが出来ずに、あたかも押し出されるようにして使徒言行録を書いた。私は、このこと自体が、大変福音的なことだと思います。どういうことかと言いますと、ひょっとしてルカも始めは、福音書だけで終わるつもりだったのかも知れません。けれども、書いているうちに、福音に突き動かされて、まるで背中を押されるようにして、使徒言行録の筆を執った。いや、執らざるを得なかったというのが実情ではなかったかと思うのです。

福音書という書物は、ある意味で完結した物語です。2千年前に、一度限りで起こった出来事を記している。それが福音書です。ところが、使徒言行録というのは、違う。完結していないのです。どのエピソードも続編を求めていると言って良い。いや、続編と言うより、後継者と言ったほうが良いかも知れません。ペトロが、パウロが、フィリポが、後継者を求めている。だから、使徒言行録は完結していない。今もって連続している。その意味で、使徒言行録は、現代と直につながっている書物だと言っても過言ではないと思います。私たちが使徒言行録を読むときに、最も大切な視点が、ここにあると思います。この書物は今の私たちと直につながっている。そのことを心に刻みながら読むのです。

そのようなことを心に留めながら使徒言行録を読み進めますと、あちこちに、現代の教会に共通する課題が語られていることに気付きます。しかもそれらの課題は、どれを取っても大変に深刻なものでありまして、人間の知恵や努力で解決できるとは到底思えないものばかりです。

ユダヤ教との対立が日々深まっていきます。それに伴い、教会内部でも対立が生じてきます。ギリシア語を話すユダヤ人のグループとヘブライ語を話すユダヤ人グループの対立です。おそらくこの対立は律法をめぐるものだったのでしょう。当時のユダヤ教は律法遵守を重んじる愛国主義的な色彩が濃厚でしたから、教会は白眼視されて、その中でも律法に熱心ではないギリシア語グループの人々が槍玉に挙げられます。ギリシア語グループのリーダー格であったステファノが殺され、さらに教会への大迫害が起こります。その結果、ギリシア語グループの人々はエルサレムを追放され、教会は早くも分裂の危機を迎えます。内部の対立。外からの迫害。そして分裂。いずれも大変に深刻な、人知では解決しがたいものばかりです。これで教会はつぶれてしまうだろうなと誰もが思ったことでしょう。

ところが、つぶれなかったのです。確かに教会は迫害されましたし、分裂もしました。ギリシア語グループの人々はエルサレムを追放され、各地に散らされて行きました。しかし、それが却って福音の前進につながったのです。ステファノの後継者としてフィリポが立てられて、彼を通してサマリアに福音が伝えられました。さらにエチオピアの宦官が救われて、ついに外国人に福音が届けられた。今までは、福音はユダヤ人だけのものであったのが、今や、そうではなくて、外国人までもが福音に捕らえられる。そういう新しい時代の到来が告げられようとする、まさにそのときに、復活の主イエスはサウロという若者を捕らえに掛かります。

このように見ていきますと、教会の歩み、福音の前進というのは、常に復活の主の導きの下にあったことが分かります。主イエスご自身が人の思いや計画を超えて働かれる。福音そのもののダイナミズムが人を動かしていく。それが教会の歩みであり、福音の前進であった。人が福音を前進させたのではありません。全く逆に福音が人を突き動かしていったのです。まさに、福音は人の思いを超えて、生きて働くのです。

その典型がサウロの回心の出来事であろうと思います。のちにパウロと呼ばれて、福音の世界伝道に大きな足跡を残すことになるサウロは、なんとキリスト者を迫害するファリサイ派の律法学者だったのです。サウロが復活の主イエスと出合ったのも、キリスト者を逮捕・連行するためにダマスコに向かう、まさにその途上のことでした。殺害の息を弾ませながら、ダマスコに向かって道を急いでいる。その道の途中で、彼は捕らえられるのです。

しかも、サウロの場合、主イエスに捕らえられて主イエスを信じる者になったというだけではなくて、すぐさま彼は伝道者として立てられたのです。今で言いますなら、洗礼を受けてキリスト者になるのと同時に牧師になったようなものです。しかも、洗礼を受ける直前まで、彼は迫害者であったわけですから、これはまさに180度の転換です。生き方の向きが180度転換させられた。だいたい「180度の転換」という表現は、文学的と言いますか、いささかの誇張が含まれるものですが、サウロの場合だけは、掛け値なしの180度の転換であったと思います。

こういうことが起こったとき、周りの人たちは、大抵、うろたえるものです。今日の個所には、サウロの豹変と周囲の人々の困惑が鮮やかな対比で描かれています。まずサウロの豹変ですが、あちこちの会堂で「この人こそ神の子である」と、主イエスのことを宣べ伝えたと書いてあります。ユダヤ教の会堂で主イエスを宣べ伝えたのです。今までサウロにとって、会堂といえば、キリスト者を逮捕する場でした。9章の初めにもダマスコの諸会堂あての手紙を大祭司のところへ行って求めたと書いてありました。あれは会堂に押し入ってキリスト者を逮捕するための逮捕状のことだったのです。

ところが、今、サウロは会堂で何をしているかといえば、「主イエスこそ、神の子、救い主である」と自らキリストを信じる信仰を告白し、さらに伝道までしているではないか。周りの人たちは、さぞ驚いたことでしょう。一番驚いたのはサウロの弟子たちであったと思います。彼らはキリスト者を捕まえるための弟子だった人たちです。ところが、今、自分たちの先生は会堂の講壇に立って「イエス様こそ救い主」と言っている。最初は「うちの先生もなかなかやるもんだなあ、これはキリスト者を安心させて捕まえるために先生が考え出した新手の罠なんだよね」などと、たかをくくっていたでしょう。ところが、サウロ先生は真顔で伝道している。これはいったい、どういうことか。

また26節を見ますと、ダマスコからエルサレムに帰ったサウロが、キリスト者の仲間に加わろうとしたが、なかなか信じてもらえなかった次第が記されています。キリスト者でさえ、キリストを宣べ伝えるサウロのことが信じられなかった。迫害者であるはず(!)のサウロがキリストを宣べ伝えている。それが信じられないのです。どうしてなのでしょう? 私は、ここに今日の物語の急所があるように思うのです。

私たちは、人や物事を判断する際、いつも過去へ過去へと帰って行って、そこから判断を下そうとします。過去に縛られて将来を判断しているのです。その典型的な例がヨハネ福音書の第9章に出て来る盲人の物語です。生まれつき目の見えない男を見て弟子たちが「この人の目が見えないのは、誰が罪を犯したせいですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねます。本人を前にして、ずいぶんと心無いことを言うものだと思いますが、こういう思いは案外、誰の心にもあるのかも知れません。過去に原因を探っているわけです。それに対して主イエスはハッキリとこうおっしゃいました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の御業がこの人に現れるためである。」

神の御業がこの人に現れるためだ。これは過去に原因を探っているのではないですね。むしろ逆に、神の御業がこの人の将来に備えられている。その御業を受けるために、今この人は盲人として生きているのだと主イエスはおっしゃったのです。

過去に原因を探る考え方は、言ってみれば「因果応報」の考え方です。主イエスはその考え方を否定しておられるのです。私たちはすべからく将来へ向かって進んでいるはずなのに、いつも後ろ向きに過去を見ながら将来へ向かおうとしています。これは、まあ言ってみれば、背中を将来に向けている状態です。だから、将来に神様が備えてくださっている御業が見えてこないのです。私たちの人生が人と人との交渉だけで成り立っているなら、それでも良いでしょう。しかし、本当にそうなのだろうか?

イザヤ書の第43章に、こんな御言葉があります。

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか。」

この「昔のこと」というのは何かと言いますと、出エジプトの救いの出来事のことなんです。ユダヤの人たちにとって出エジプトというのは決定的な救いの出来事です。そこで、彼らは何か困難や試練に遭遇しますと、出エジプトの事を思い出しまして「ああ、神様はあのエジプトからも我々を救ってくださったのだ」と思って、それを力にして立ち上がったのです。信仰生活には、そういう面がありますね。かつて神様から受けた恵みを思い起こして、今、立ち上がるのです。聖書の中には、そういうことを勧めているところも確かにあるのです。

ところが、ここでは神様はそういうことを否定しておられる。「あなたがたは初めからのこと、昔のことを思いめぐらすな」と言っておられる。それが悪いことだからではないのです。じゃあ、なぜ神様は昔のことを思い出すなと言われたかと言いますと、もっと大きなこと、新しいことを私が行うからだと言っておられる。

イスラエルの人々が紅海の崖っぷちに追い詰められて「もうダメだ」と思ったときに、神様が海を真っ二つに分けて人々を救い出してくださった。確かにこれは、思い出すたびに勇気が出る。望みが沸く。しかし、神様がこれからなさろうとしていることは、それよりも遥かに大きなことなのだと。私たちは、ついすると、昔の出来事で枠を作ってしまって、神様の恵みは分かっていると思いながら、いつも過去へ過去へと帰って行く。過去を振り返りながら、歩んでいる。先にも言いましたように、私たちは誰もが将来へ向かって進んでいるはずなのに、いつも後ろ向きに過去を見ながら将来へ向かおうとしています。これは、まあ言ってみれば、背中を将来に向けている状態です。だから、将来に神様が備えてくださっている御業が見えてこないのです。このように、人間というのは、いつも過去に縛られて将来を考えています。だから、年をとってくると、もう自分の将来なんて分かってると思ってしまう。体がこんなに衰えてきたのだから、こんなふうにしかならないだろうと決めてかかる。もう自分にはろくなことは何も無いと、いつの間にか、過去の枠に縛られています。

しかし、キリストによって救われるとは、そういうことではないでしょう。主イエスはおっしゃいました。

「目を上げて、畑を見よ。はや色づいて刈り入れを待っている。」

この「畑」とは私たちの人生のことではないですか? 後ろを見ていてはダメなのです。過去を振り返っていてはダメなのです。後にパウロは言いました。

「なすべきことは、ただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を傾けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

またパウロはこうも言いました。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を奉げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。」

人がキリストによって救われるとは、こういうことです。過去の自分から解放されて、自分自身からも自由にされて、新しく生まれ変わるのです。イザヤ書はこう語りました。

「恐れるな。わたしはあなたを贖う。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

サウロは名を呼ばれたのです。私はあなたを贖うと語りかけられたのです。そしてその声の主を「我が主よ」と呼んだとき、彼の生き方は180度転換されました。今日の説教題を「ダマスコからエルサレムへ」と付けました。これは場所の移動のことではありません。殺害の息を弾ませながら、サウロはエルサレムからダマスコに向かいました。その道を180度転換させられて、彼は人生を歩み始めたのです。過去に捕らわれないで歩み始めた。だからパウロは、迫害者であった自分を恥じてはいないでしょう? 過去の自分を振り返るのではなく、今の自分があることに驚きと感謝をもって、喜んで生きた。イザヤは言いました。

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか。」

サウロの人生に起きたのは、このことでした。そして同じことが、私たちの人生にも起こります。今や、それは芽生えている。御言葉の種が大きく実を結ぼうと、芽生えているのです。この御業に身を委ねて、御一緒に人生を歩みましょう。