聖書:詩編2編1~12節・マルコによる福音書9章2~13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロはどう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マルコによる福音書9章5~8節)

 

今日読みましたマルコ福音書第9章の物語は、ふるくから「山上の変貌」と呼ばれて、福音書の数ある物語の中でも特異な位置を占める物語です。今日、多くの聖書学者がこの物語は福音書の頂点であると指摘します。なぜなのでしょうか? 山の頂点に立ちますと、登って来た道が見えるだけではなく、これから降って行く道も見える。来た道と行き先。その両方が見渡せる。この山上の変貌の物語も、そういうところがありまして、それ故に、この物語は福音書の頂点と呼ばれるのでしょう。

ということは、この物語の中には、主イエスがどこから来られたかと、どこへ行かれるのかが両方、語られているということになります。さあ、主イエスはどこから来られて、どこへと行かれるのか? 今日はその一点を心に留めていただいて、山上の変貌の物語をご一緒に読んでいきたいと思うのです。

マルコ福音書はこの物語を「六日の後」という言葉で語り始めています。

さあ、「六日前」に、いったい何があったのでしょうか? それは8章31節に記されている受難予告なのです。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」

まことにあからさまな受難予告です。主イエスご自身がご自分の行き先を予告しておられるのです。しかし、これは受難予告とは言いますが、よく読みますと、受難だけでなく、復活をも予告しておられることに気付きます。つまり、ご自分の身に起こる十字架と復活を予告なさった、それを受けて今日の物語は始まるのです。

主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られたと書いてあります。主イエスはこれまでも、たびたび父なる神に祈るために、一人、山に登られました。ところが、ここでは主イエスは一人ではなく、三人の弟子たちを連れておられる。どうしてなのでしょうか? じつは、これは近年になって指摘されることなのですが、山上の変貌の物語は、十字架の出来事の直前にあるゲッセマネの祈りの物語に対応しているのです。

あのときも、主イエスは祈るためにオリーブ山という山へ、登られました。しかも弟子たちを連れて行かれた。そして主イエスはご自分の身に起こることをすべて御心のままに受け入れてしまわれます。今日の物語は、明らかにゲツセマネの物語を先取りした、予告のような意味を持つ物語ではないかと思うのです。ということは、今日の物語の中には、ゲツセマネの祈りに通じる主題がひそかに語られているということでもあります。さあ、それはいったい、どこに語られているのでしょうか?

さて、主イエスが祈っておられると、不思議なことが起こります。主イエスの「姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人も腕も及ばぬほど白くなった」と書いてあります。この「真っ白に輝いた」というのは、地上の存在ではなく、天に属する者という意味です。このことによって、この物語は「山上の変貌」と呼ばれるのですが、ここで大切なことは、この変貌によって主イエスがこれまでとは違う、別の存在になられたということではない、ということです。l-これまでは普通の人として弟子たちと共に歩んでおられたのが、急に輝かしい神の子となられた、というのではない。主イエスというお方は、もともとそうだったのです。主イエスは天に属するお方であり、そのお方が汗と埃にまみれて、人として地上に生きてくださったのです。この神と等しいお方が人となって地上に生き、十字架についてくださったというのが大事なのです。

そうしますと、二人の人が主イエスと語り合っていた。二人の人とは誰であったでしょうか? モーセとエリヤなのです。モーセといえば、神に選ばれて、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々をそこから脱出させ、約束の地に導いた指導者です。有名な「十戒」はモーセを通してイスラエルの人々に与えられました。

対するエリヤは「大預言者」と呼ばれたことからも分るとおり、預言者を代表する人物です。数ある預言者の中でも、その力ある業の数々によって知られます。主イエスの時代のユダヤの人々はローマの支配下にありましたが、人々はモーセとエリヤの御業を想起することによって大きな勇気と慰めを得ていたと言われます。主なる神はローマの支配に苦しむ自分たちをいつまでも放置されるはずはない。やがて必ず恵みの御業をもって我々を救ってくださるに違いない。そのときには、モーセとエリヤが再び登場する。人々が心に描いていた希望は、そういうものだったのです。おそらく、ペトロたちも、この人々と同じ希望を抱いていたと思われます。

ですから、ペトロは、モーセとエリヤが主イエスと話し合っているのを見て、喜びます。そして喜びに押し出されるようにして、こう言います。

「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

いかがでしょうか。いかにもペトロらしい、正直な思いが現れた言葉だと思います。そして、いかにもペトロらしい、そそっかしい言葉でもあると思います。仮小屋を建てようと言い出したのは、おそらく、主イエスとモーセとエリヤの三人に、留まってほしいと願ったからでしょう。いつまでもここに、私たちと共にいてくださいと、ペトロなりの言い方で正直に言ったのでしょう。ペトロは自分が何を言っているのか分らなかったのです。ということは、どうでしょう。主イエスとモーセ、エリヤのために仮小屋を三つ建てましょうというペトロの言葉は、的外れの言葉だったということでしょう。では、その場合の「的」とは、何なのか。ペトロたちは、当時のユダヤの人々と同じように、モーセとエリヤの再来に望みをつないでいたのです。しかし、モーセとエリヤというのは、それ以上の重みを持つ人物です。モーセは律法を代表する人物であり、エリヤは預言者を代表する人物です。ですから、ここは、単にモーセとエリヤという有名人が主イエスと話し合っていたということではなく、むしろ「律法」と「預言者」が話し合っていたと理解するほうが理に叶っていると見るべきでしょう。「律法と預言者」といえば、旧約聖書そのものということです。

もう一度、ペトロの言葉を振り返ってみたいと思います。彼はこう言ったのです。

「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

小屋を建てようと言い出したのは、主イエスとモーセとエリヤに、留まってほしいと願ったからでしょう。いつまでもここに、私たちと共にいてくださいと、正直に言ったのです。しかし、ペトロは自分が何を言っているのか分らなかったのです。これは、主イエスだけでなく、律法も預言者も一緒にいてほしいということだからです。

ペトロがそう言っていると、雲が現れて彼らを覆ったと書いてあります。雲というのは聖書では、神の臨在を表すものです。ですから、彼らが雲に覆われ、包まれたというのは、彼らも神の臨在の中に引き込まれていったということです。すると、雲の中から、声が聞こえます。

「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」

文字通りの天からの声が響いたのです。これは今日読んだ詩編の第2編の言葉です。しかし、詩編には「これに聞け」という言葉はありません。どうして、神様はペトロたちに「これに聞け」とおっしゃったのでしょうか? それは先ほどのペトロが言った言葉を見れば分ります。

ペトロは「小屋を三つ建てましょう」と口走りました。一つは主イエスのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためでした。小屋とは「共にいるためのもの」でしょう。つまり、ペトロは、主イエスだけでなく、モーセともエリヤとも一緒にいたかったのです。モーセとは誰ですか? 律法のことでしょう。エリヤとは誰でしょうか? 預言者のことでした。つまり、ペトロは、主イエスだけではなくて、律法にも預言者にも一緒にいてほしいのだ、と、そう願ったことになります。

天から響いた神の声は、その願いをぴしゃりとはねつけた。そして、「これは私の愛する子、選ばれた者、あなたがたは、これに聞け」とおっしゃったのです。ここに今日の物語の主題があります。8節にこう書いてあります。

「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」

じつに意味深い言葉だと思います。主イエスだけが、彼らと共におられたのです。これは大変に示唆に富むことではないでしょうか? 初代のキリスト者は、福音のみによって救われるのか、それとも福音だけではなくて律法をも守らねばならないのかで大変な論議と葛藤がありました。福音のみで救われると主張したのがパウロだったのです。そのパウロがローマの信徒への手紙3章の21節に、次の言葉を残しています。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」

 律法と預言者が意味の無いものとなったというのではありません。律法と預言者はキリストを指し示す存在としてのみ、意味を持つものとなりました。

そして「あなたがたは、これに聞け」という天の声は、今も主イエス・キリストに従う私たちに向けられています。私たちは、ほかの声に耳を向ける必要はないのです。主イエスが懇ろに語り聞かせてくださる御言葉だけを聞き続ける。そのことによって、モーセやエリヤのための小屋ではない。主イエスの御言葉を聞く家、すなわち主の教会を建て上げていくことになるのだと思います。

「あなたがたはこれに聞け。」

私たちはこの御言葉を心に刻み付けて歩みたいと思います。

栄冠幼稚園卒園式

 

 

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以下は本日のサンプル

3月19日(日)のみことば(ローズンゲン)

「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(旧約聖書:列王記上19章18節)

「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。」(新約聖書:ローマ書11章5~6節)

パウロはローマ書の11章で「神の民であるユダヤ人は捨てられたのか」という大きな主題を展開しています。パウロはこの問いに「断じてそうではない」と言い切ります。確かにキリストを拒絶したユダヤ人は捨てられたかに見えるのです。しかし、まことの神の民はユダヤ人全体ではなく、その中の残された者なのだとパウロは言います。そのためにパウロが引用するのが、今日の旧約の御言葉です。

預言者エリヤの物語です。王を始めとして、イスラエルのすべての人々がバアルという偶像の神にひざをかがめたかに見えたとき、エリヤは一人バアルの祭司・預言者たちと戦い、勝利します。しかし、エリヤは命を狙われて、主なる神に弱音を吐きます。そのとき示されたのが、今日の旧約の御言葉です。まことの神の民は民族や血肉によらず、恵みによって残された者という主題が、パウロと一致します。