聖書:出エジプト記20章1~6節・ガラテヤの信徒への手紙4章17~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」(出エジプト記20章4~6節)

「私の子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今、あなたがたのもとにいて、語調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」 (ガラテヤの信徒への手紙4章19~20節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は先週に引き続いて第二の戒めについてお話をしますが、お話に入る前に、今一度、第二の戒めを読んでみたいと思います。

「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」

十戒はユダヤ教の律法です。その十戒をキリスト教は、どう受け継いだのか。キリスト教はもちろん、キリストの福音を語ったのですが、福音を語ることと十戒を語ることに、どう折り合いをつけたのか。今日はそこのところを切り口にして、お話を進めていきたいと思います。

キリスト教会は聖霊降臨の出来事によってエルサレムに誕生しましたが、当初はキリスト教というより、ユダヤ教の一派のように思われていました。それを一変させたのが、ステファノの事件でした。エルサレム教会には、律法に忠実なユダヤ出身のキリスト者と、律法に囚われない考えを持つ地中海世界出身のキリスト者が混在していました。後者の代表がステファノだったのですが、そのステファノが石打の刑に処せられて殺される事件が起こったのです。これによって、律法に熱心とは言えない人々がエルサレムを追われて、地中海世界に離散するという悲劇が起こりました。ところが、悲劇と思われたこの出来事が、やがて福音の世界宣教に道を開くことになります。

シリアのアンティオキアに教会が誕生して、異邦人伝道の拠点になったのです。ここから送り出されて、広く地中海世界で異邦人伝道に力を尽くしたのがパウロです。パウロという人は異邦人伝道に生涯を賭けた人でしたから、偶像の問題をよく知っていました。行く先々で偶像の問題が起こります。わけても有名なのが、使徒言行録17章が伝えるアテネ伝道です。

パウロがアテネの町を見て回ると、至るところに偶像があった。当時のアテネには、三千を超える神々が祭られていたとも言われます。パウロは、それら夥しい偶像を見て、憤りを覚えます。偶像礼拝を固く禁じるユダヤ教で育ったパウロにとって、当然のことでした。パウロがアテネの人々に語った言葉が使徒言行録の17章に記されています。パウロはこう語りかけたのです。

「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」

夥しい偶像を見て憤りを覚えたパウロですが、アテネの人々を責めるのではなく、むしろ、信仰のあつい人々であることをパウロは褒めている。そういうところから、パウロは説教を語り始めています。「知られざる神に」と刻まれた祭壇があったとパウロは語ります。アテネの人々が知らないで拝んでいる神。それこそが、まことの神であり、天地の造り主である神様なのだとパウロは、まず創造主である神様を紹介しています。なぜでしょうか? パウロは続けて、こう語っています。

「この神は天地の主ですから、人の手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。」

神様は人が手で造った神殿にはお住みにならない。これはユダヤ人なら誰でも知っている、あのソロモン王が神殿奉献の際にささげた祈りによるものです。ソロモン王は神殿すらも神様を納めることは出来ないと言うのです。ならば、神殿とは何なのでしょう。神殿とは、神様が、人への憐れみの故に、そこに眼差しを注いでくださるところです。だから、神殿は祈りの家と呼ばれるのです。そして、ここから更に発展したところに「あなたがたが神殿なのだ」というパウロの言葉があるわけです。私たちの中に神様が住んでおられるのではないのです。神様は天におられる。その神様が私たち一人一人を憐れみ、慈しんで、心を向けてくださる。つまり、聖霊を宿してくださって、神様が聖霊として私たちの中に留まってくださる。だから、パウロは「あなたがたは神の神殿なのだ」と言うわけです。

そして、パウロは、アテネの人々をも神様が造ってくださったのだと言います。詩編の100編に「主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」という御言葉があります。「主が私たちを造られた」。これこそが、人類が見いだした最大の絆です。絆という言葉は昨今多くの人が使いますが、人と人とをまことの意味で結び合わせているのは、主が私たちを造ってくださったという創造の御業です。ただ違うのは、パウロはそれに気づいており、アテネの人々は創造主を知らないということだけです。だから、パウロはその方をお知らせしましょうと言うわけです。パウロは言います。

「私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

いかがでしょうか。天地の造り主である神から一気に、イエス・キリストの十字架と復活の贖いまでを語っています。これは、人と人とを結び合わせるのは造り主である神のなさることであり、その人々を神様に結び合わせるのはキリストの十字架と復活なのだという主張が、ここにあります。だから、キリストにあっては、どんな人でも神様に立ち帰ることが出来る。これがパウロの説教の中心メッセージです。

この説教は、結局、嘲笑され、パウロはそこを去って行ったと書いてあります。パウロのアテネ伝道は失敗であったとするのが定説です。しかし、果たしてそうなのでしょうか。何人かの人がパウロについて行って信仰に入ったと書いてあります。パウロはアレオパゴスの広場の真ん中で福音を語りました。誰もが見ている所で語ったのです。これまで、パウロはユダヤ教の会堂で福音を語ってきました。つまりパウロは教師として講壇に立ったのです。会堂に集う人は誰でも、パウロを教師として敬い、その語る御言葉に耳を傾けました。

ところが、アレオパゴスは違います。パウロは、ただの人として、身一つで、誰もが見ているところに立ちました。そのパウロの姿を人々は見たのです。そして、少数ではありますが、福音を受け入れ、信じる人たちが起こされた。これは失敗どころか、凄いことです。人々はパウロの言葉を信じたのでしょうか。そうではありません。身一つになって、命をかけて福音を語っている。そのパウロを生かしておられるお方がおられる。パウロという男はそのお方を信じて生きている。人々の目はそこに開かれたのでしょう。人は福音を信じる前に、福音によって生きている人を見ます。喜んで生きている人を見る。これは、いつの世にも変わらない事実ではないでしょうか。

アテネで福音を信じる信仰に入ったというのは、偶像を捨てたということです。福音と偶像の二刀流というのはあり得ないことです。とまあ、ここで終わっていたら、めでたしめでたしなのですが、当然、キリストを信じる信仰に入った人々にも生活があるわけです。しかもそれは、これまでどおりの生活ではなく、偶像との関係を断ち切ってキリストと共に歩む生活です。そこには戦いがあり、誘惑があります。なにせ周囲は偶像を拝む人たちばかりです。家族の中にも、偶像礼拝をする人がいたでしょう。

この人たちは、どうすれば信仰を貫くことが出来るのか。そこが新たな課題になってきます。これはある意味、洗礼を受ける前の戦いよりも、大きな困難と葛藤を伴うことです。そこで、多くの信仰者に起こるのは「逆戻り」の現象です。キリストに出会う前の生活に逆戻りしてしまうのです。今日読んだガラテヤ書の4章の9節に、こんな言葉があります。8節から読んでみます。

「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷となることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。」

ガラテヤの人々は、パウロの伝道によってキリストと出会い、救われて洗礼を受けてキリスト者になりました。素晴らしいことです。しかし、逆戻りしてしまった。パウロの悲しみは、いかばかりであったろうと思います。パウロは11節で「あなたがたのことが心配です」と述べています。また、20節では「あなたがたのことで途方に暮れている」とも述べています。いずれも、いつものパウロには見られない、切迫した表現です。ガラテヤの人々の逆戻りは、パウロにとっても、大きなショックだったことが伺えます。しかし、パウロは望みを捨ててはいません。パウロはガラテヤの人たちを「私の子どもたち」と呼んで、こう語りかけています。19節です。

「私の子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」

パウロはしばしば「産みの苦しみ」ということを語っています。これは苦しみではありますが、目的のない無駄な苦しみではありません。新しい命を生み出すための苦しみです。しかし、パウロはガラテヤの人々がもう一度健全な信仰に立ち帰るために、歯を食いしばって、何から何まで自分がやって、もう一度産みの苦しみをしようなどと言っているのではありません。パウロの言葉遣いに注目してください。「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」という言い方をしています。これはキリストが主体になっている言い方です。パウロは自分が主体ではないことを知っているのです。そして、もう一つ、パウロが知っていることがあります。そのことが、同じガラテヤの信徒への手紙に出て来ます。それは2章20節の次の言葉です。

「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」

キリストがキリスト者の中に生きておられて、その人の人生をご自分のものとして、一緒に歩んでくださる。ですから、キリスト者の人生というのは、試練に遭った時、失敗した時が、成長のチャンスです。キリストが私たちキリスト者の中に生きて働いておられるからです。そして、私たちの失敗を通して、私たちの中で、キリストが形づくられていきます。今はキリストから離れて、逆戻りしてしまったかに見えるガラテヤの人々の中でも、キリストが形づくられていく。私たちも、同じです。失敗を恐れず、むしろ失敗を悔い改めの機会と捉えて、与えられた人生を主と共に歩む。ペトロの人生が、まさにそうでした。失敗が悔い改め成長を呼び起こして行く。主が共におられるから可能になることです。私はここにキリスト者の人生の醍醐味があると思うのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

9月21日(日)のみことば

「まことにあなただけが、すべての人の心をご存じです。」(旧約聖書:列王記上8章39節)

「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」(新約聖書:ルカ福音書9章48節)

ルカ福音書によれば、弟子たちの間でしばしば起こったのは、自分たちの中で誰がいちばん偉いかという議論でした。主イエスはその心を見抜いて、一人の子供の手を取って言われたのが今日の御言葉です。なぜ、子供を受け入れる者は私を受け入れるのだと言われたのか? この「子供」と訳された言葉は、じつは「幼児」のことです。とてもじゃないけれど、自分の力では立ち上がることが出来ない。つかまり立ちをするのが、やっとのこと。そういう小さい子供です。今もしイエス様が手を離したなら、もう立っていることが出来ずに、しゃがみ込んでしまう。そういう幼子を主イエスは弟子たちに見せて、この子を受け入れてご覧と言われたのです。そうすれば、私を受け入れることになる。また私をお遣わしになった父なる神をも受け入れることになる。そして、あなたがた自身をも受け入れることになる。なぜなら、この幼子こそ、あなたがたの本当の姿なのだ、だから、この幼子の姿を心にとどめておきなさい、と、そこまで主イエスは言っておられるのではないでしょうか。