聖書:詩編16編7~11節・コリントの信徒への手紙一15章1~17節

説教:佐藤 誠司 牧師

「きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。」 (コリントの信徒への手紙一15章1~2節)

「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現われ、それから十二人に現れたことです。」(コリントの信徒への手紙一15章3~5節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。

「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、」

イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだられた。いわば人間が到達する底のまた底、あまり美しい言葉ではありませんが、どん底にまでくだって行かれた。そのことを語った後で、使徒信条は次のように語ります。

「三日目に死人のうちよりよみがへり、」

ここに至って、使徒信条はキリストの復活を語る。復活は福音の要であり、中心です。それは疑いの余地のないことです。ただ、私たちは、「復活、復活」と言いますが、キリストの復活はキリストの十字架と決して切り離すことの出来ないことです。復活されたのは十字架で殺され、葬られて陰府まで下って行かれたお方です。そのお方が死人の中からよみがえられたことを信じるのが、使徒信条が言う「信仰」です。

昔からキリスト教の二つの大きな流れを言うのに「東は復活、西は十字架」ということが言われます。多くの日本人は、キリスト教の二つの流れというと、カトリックとプロテスタントのことだと思っておられます。しかし、さらに大きな視点に立って正確に言いますと、キリスト教の二つの流れというのは、東の東方教会と西の西方教会のことです。東方教会はギリシア正教会と呼ばれ、西方教会はカトリック教会と呼ばれた。私たちプロテスタント教会は西方のカトリック教会から枝分かれした教会なので、カトリック教会と同じ西方教会に分類されるわけです。

それがどうして「東は復活、西は十字架」と言われたのかといいますと、東方教会は伝統的に復活に救いの重点を置き、西方教会は十字架に重点を置いて来た。そういうことを語っているのです。確かに、そういう面はあったと思います。しかし、本当を言えば、十字架と復活はそう簡単に二分できるものではない。

それを端的に表しているのが、カトリックとプロテスタントの十字架の掲げ方の違いです。ご存じのように、カトリック教会の十字架には釘で打たれ、槍で刺されたキリストが磔にされています。十字架の犠牲を強調しているのです。それに対して、宗教改革者たちは十字架からキリストのお体を外した。なぜか。「あの方は、もうここにはおられない」という復活のメッセージを、十字架からも読み取ろうとしたからなのです。ですから、復活と切り離された十字架はあり得ないし、逆もまた然り、十字架と切り離された復活もまた、あり得ないわけです。そのことを語る御言葉があります。ローマの信徒への手紙4章24節と25節です。24節の途中から読んでみます。

「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、義と認められるのです。イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」

いかがでしょうか。前半の文章でパウロは復活を信じることの大切さを説いています。それが後半になると、どうでしょう。主イエスが私たちの罪の赦しのために十字架につけられことと、私たちが義とされるために主イエスが復活させられたことが、直につながっていて、切れ目が無いことが分かります。つまり、パウロは十字架と不可分の関係にある復活を信じることの大切さを語っているのです。

今日はパウロがコリント教会の人々に宛てて書いた手紙を読みました。ここでパウロも、信仰の原点を語っています。パウロはそれを「最も大切なこと」という言い方で表しています。これも、ほかにいろいろ大切なものがある中で、これが一番大切だと言っているのではない。比較を絶するたただ一つの大切なことがあるのだとパウロは述べているのです。

「きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。」

「もう一度知らせます」と言ってますでしょう? 皆さんは、どんな時に「もう一度言います」という言い方をなさるでしょうか? きっとそれは、相手が大事なことを忘れかけている時だと思うのです。パウロの場合もそうです。コリント教会の人々が、大事なことを忘れかけていたのです。それをパウロは思い起こしてほしいのです。主イエスを信じて信仰の道に入りながら、福音に留まり得ないで脱落する人たちが少なからずいたのです。パウロはきっと心を痛めていたに違いありません。だからパウロは、そういう人たちがもう一度礼拝に立ち帰ることを願って、信仰の原点を語り直すのです。

今、私は「信仰の原点」と言いましたが、キリストを信じる信仰というのは、明確な原点を持つ信仰です。しかし、その場合、注意しなければならないことがあります。原点という言葉を、私たちもしばしば使いますが、それは多くの場合、自分の中にある原点のことだと思うのです。あの時の試練が私の信仰の原点だとか、よく聞きます。

ところが、パウロが言う原点は違う。パウロの言う信仰の原点は私たちの中には無いのです。私たちの側ではなくて、あくまでキリストの側にある。だから、パウロはローマ書の中で、こう述べている。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた。」

私がキリストと出会ったのが原点ではない。私がキリストの敵であった時に、すでにこのお方は私を選び、愛しておられた。だから、私の原点は私の中には無い。キリストの御業の中にこそ、キリストを信じる信仰の原点はあるのだとパウロは言うのです。

では、それはキリストのどのような御業であるのか? パウロはその一点を語っていきます。

「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。」

ここにキリスト教信仰の急所が語られています。パウロは、自分は受けたことを伝えたに過ぎないと述べているのです。ここが大事なところです。伝道者というのは、自分が考え出したことを伝えるのではない。彼らは受けたことを、そのまま伝えてきたのです。受けたことを、そのまま伝える。何も足さず、何も引かず、歪めず、誇張しない。だからこれは原点なのです。原点とは、いつでも誰でも帰って来れる所です。パウロはその原点を「最も大切なこと」と呼んで、今、コリント教会の人々に伝える。もう一度、伝えるのです。

「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現われ、それから十二人に現れたことです。」

パウロが言う信仰の原点。キリストの御業の中にある原点。それは十字架と密接に結びついた復活だったのです。「現れる」という言葉を何度も何度も繰り返し使っています。

「その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました」「ヤコブに現われ、それからすべての使徒に現われ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。」

さあ、パウロはなぜ「現れる」という言葉を繰り返し語ったのか? そもそも「現れる」とは、どういうことなのか? 皆さんは「現れる」という言葉を、どのような意味でお使いになりますか? まず一番ポピュラーなのは「姿が現れる」という意味合いでしょう。ですから、私たちはパウロのここの言葉を読みながら、ああ復活の主イエスが弟子たちの前に姿を現してくださったのだなあと理解をします。これはこれで正しい理解です。

ところが、パウロが使った「現れる」という言葉には、もう一つ、大事な意味が込められている。それは「姿」として現れるだけではなくて、「力」として現れるという意味です。つまり、復活のキリストは弟子たちの目の前に「姿」として現れただけではなく、彼らの人生の歩みの真っ只中に「力」として現れてくださった。そして、彼らの生き方を根底から変えてくださった。彼らだけではない。敵であった私の人生にも力をもって現れてくださった。そして私の生き方を根こそぎ、ご自分のものとしてゆかれた、と、パウロは告白しているのです。

パウロはそんな自分のことを「月足らずで生まれた未熟児」に譬えています。医学が未発達な時代です。月足らずで生まれた子供は、そのほとんどが死んでいたでしょう。少なくとも、生まれた瞬間、周りの人たちは皆「ああ、この子は死ぬ」と思ったに違いない。

しかし、人間とは、まさに死ぬ存在ではないでしょうか? その死ぬべき存在が生かされていく。それが本当の人間ではないか? ならば、人はすべて月足らずの赤子ではないか? 死ぬしかない命が選ばれて、救われ、愛されて、生かされる。だから、生かしてくださったお方に感謝して、二度目の人生を生きる。息を吹き返した未熟児のように、命をもう一度受け取りなおして、生きる。それがキリスト者の生き方の真相ではないかとパウロは言うのです。

だから、パウロはここから急に生きなおして生きてきた自分の歩みについて語り始めます。敵であった頃の自分を語り始めるのです。

「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちの無い者です。神の恵みによって、今の私があるのです。」

値打ちの無い者が、価のある者とされて、もう一度、生かされて生きる。恵みによって生きる。それがキリスト者の生き方ではないかとパウロは言うのです。だから、主の恵みがその人を生かす。生かして生かして、生かし抜くのです。そのことをパウロは次のように言います。

「そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の使徒たちの誰よりも多く働きました。しかし、働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」

これを読みますと、キリストの福音を語ることは、決して客観的な他人事でないことが解ります。パウロは信仰の原点である福音を語り始めたのでした。ところが、どうでしょう。パウロは福音を語るうちに、いつしか、自分に現れた主の恵みについて証しを語り初めています。私が今日あるのは、神の恵みによるのだと語っている。福音を語る者が、いつしか福音に引き込まれて、証しを語っている。

これが福音の力です。福音を聞いてきた私たちも、すでにこの福音の中に引き込まれて、証し人として生かされています。なんという大きな恵みでしょう。私たちはこの大きな恵みの中に生かされている。そのことを光栄に思い、感謝をもって歩みたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月18日(日)のみことば

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。」(旧約聖書:イザヤ書35章5節)

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(新約聖書:エフェソ書2章8~9節)

今日のエフェソ書の御言葉には信仰義認の急所とも言える大切なことが言われています。信仰によって救われるというのは、神様がキリストによってすべてを成し遂げてくださったという事実を告げる福音を聞いて、それを受け入れることです。私たちが自分の信仰を問題にし始めますと、ここのところがぼやけてくるのです。私たちが自分の信仰を評価しますと、信仰が弱いと思う人は意気消沈しますし、私の信仰はなかなかのものだと思う人は、難しいことも信仰で乗り切れると思ってしまう。

そういうふうに、自分の持っているもの、たといそれが信仰であっても、それを神の前で誰も誇ることの無いように、というのが、ここで言われていることです。だから、パウロは「恵みにより、信仰によって」と語っている。要するに、信仰も恵みなのです。「恵み」というのは上より与えられたものということです。ですから、信仰は自分の持ち物ではない。上より与えられた恵みなのです。