聖書:列王記上17章17~24節・ルカによる福音書7章11~17節
説教:佐藤 誠司 牧師
「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところであった。母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。そして、近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章12~14節)
今日読みましたルカ福音書第の物語は、新約聖書に収められた四つの福音書の中で、ルカ福音書だけが伝えている物語です。昔から「ナインのやもめ」の物語と呼ばれて、多くの人に愛されてきた物語です。主イエスが弟子たちを引き連れて、ナインという町に出掛けられたときのこと。葬儀の一行と出会われるのです。この町に住む一人の若者が死んだのです。母親はやもめであったと書かれています。つまり、彼女はすでに夫に先立たれて、母一人、子一人であったのです。一人息子だけが頼りであったことは、想像に難くない。その母親が、愛する一人息子を亡くしたのです。それだけに、これは、ひときわ痛ましい葬送の列であったと思います。
どこまで葬りに行くのでしょうか? 町の外なのです。当時、亡き人を埋葬する墓は、必ず町の外に置かれました。町の中に墓を設けてはならなかった。必ず町の外なのです。なぜか? 当時の町は、お城のように城壁で取り囲まれていましたから、町の中と外というのは、壁で隔てられた、全くの別世界だったのです。町の外、城壁の外は、いうなれば死の世界だった。そういう所へ遺体を運び出す。そして遺体を置いて帰って来る。文字通りの今生の別れです。それが当時の葬りだったのです。
とても遺族だけで為しうることではありません。まして、一人息子を失って悲嘆の中にある母親一人で為しうることではない。町の人々が付き添っていたのです。しかしながら、人々には、この母親を慰める言葉も無かったと思います。ただ一緒にいてあげること。それだけが、この人々に出来ることだったに違いありません。
それは、私たちにも分かることです。私たちも弔問に行って、遺族近親の方々にあまり多くの言葉をかけられるものではありません。むしろ、ご遺族の前に言葉を控えて、ただ一緒にいてあげる。悲しみのときを一緒に過ごしてあげる。それが私たちに出来る唯一のことだとも思うのです。ところが、この母親に、主イエスは言葉をおかけになるのです。13節です。
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。」
「この母親を見て」と書いてありますが、この「見る」というのは、ただ単に漠然と相手を見るというのではない。相手に眼差しを注ぎだす、そのような深いニュアンスのある言葉なのです。それは何もここだけではありません。主イエスが悲しむ人、苦しむ人をご覧になるときの眼差しは、いつも、いつも、そうです。心をそのまま眼差しにして、それを注ぎ出してくださる。深い憐れみのこもった眼差しをこの母親に注ぎ出して、こうおっしゃった。
「もう泣かなくともよい。」
これは「泣くな」と言っておられるのではないのです。「泣くな」とか「泣いてはならない」あるいは「泣いてはダメ」というのは、泣いている人を否定する言葉です。流している涙を拒否する言葉です。主イエスというお方は、そのような言葉をおかけになるような方ではない。主がおっしゃったのは「もう泣かなくともよい」。この一言だったのです。
この言い方は、この母親がこれまで流してきた涙を丸ごと肯定して、すべて受け容れている、引き受けている言い方です。否定しない言い方です。言葉を補って言えば、次のような感じです。
「あなたはこれまでずっと泣いてきたね。さぞ辛かったことだろう。でも、もう泣く必要はない。だから、泣くのはおよしなさい。」
これは泣いている彼女の涙を否定しておられるのではない。むしろ、その涙を、悲しむ心を丸ごと受け容れた上で、もうあなたは泣かなくてもよいのだと言っておられる。そして、近づいて棺に手を伸ばして触れられた。すると、「担いでいる人たちは立ち止まった」と書いてあります。
ここらあたりは、大変にルカらしい、文学というより、むしろ映画のような巧みな表現だと思います。主イエスの手が棺に触れる映像と、墓に向かって進んでいた死の行進がピタリと止まる映像を切り返して、まるで映画のカットバックのように瞬時にして見せるのです。すると、主イエスは棺に向かって言われる。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
すると、どうでしょうか? 「死人は起き上がって、ものを言い始めた」と書いてあります。主イエスはこの息子を棺から引き上げて、その母にお返しになった。すると、人々は皆、恐れを抱き、神を賛美して「偉大な預言者が我々の間に現れた」と言い、また「神はその民を心にかけてくださった」と言ったと書いてあります。
人々はこぞって主イエスを「偉大な預言者」と呼んだのです。どうして、そんな呼び方をしたのでしょうか? 人々がこの奇跡を目の当たりにしたとき、直感的に思い浮かべた出来事があったのです。
それは、今日読みました列王記上17章の物語、はるか昔、大預言者と呼ばれたエリヤが一人の母親の息子の命をよみがえらせて、母の元に返してやる物語です。その出来事を、人々は思い起こしていたに違いない。この物語で息子を返してもらった母親が最後にエリヤに言う言葉があります。こんな言葉です。
「今、私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
この言葉は、エリヤよりも、むしろ主イエスにこそふさわしい言葉ではないかと思います。なぜなら、主イエスは言葉によってこの息子を生き返らせてくださったからです。まことに主の言葉は真実なのです。
しかし、それなら、主イエスの言葉には奇跡を起こす超人的な力が宿っている、ということでしょうか? 確かにそう言えるかも知れません。主の言葉には人間をはるかに超える力があるのです。
しかし、ルカは、それとは別のところに目を注いでいる。主イエスがこの息子を甦らせたのは、ただ単に力によってではない。憐れみによるのだとルカは言う。主の深い憐れみによって、この御業は成し遂げられたのだとルカは言うのです。それは13節の中に、さりげなく記されています。
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。」
この「憐れに思い」というところに、それは出てくる。じつはこの言葉は、ルカが特別に大事な場面で使う言葉で、ルカ福音書のキーワードの一つです。とはいえ、ルカはやたらとこの言葉を連発しているわけではありません。決定的な場面で、ルカはこの言葉を使っている。
どんな場面かと言いますと、この福音書の15章に「放蕩息子」の譬え話があります。主イエスが語ってくださった譬え話です。あそこにこの「憐れに思い」という言葉が出てくるのです。
二人の息子を持つ父親がいた。その二人のうちの弟息子が、家出をしてしまう。父から自分がもらうはずの財産を手にして、さっさと家出をして、放蕩に身を持ち崩してしまう。金も身よりもなくなってどん底生活に落ちたとき、この息子はやっと本心に帰って、父のもとに帰ろうとする。ボロボロの身なりの息子が帰って来るその姿を見て、父親は「憐れに思って走り寄った」と書いてある。あそこに出てくるのです。
もう一つだけ、例を挙げますと、ルカ福音書の10章に出て来る、これまた主イエスが語ってくださった有名な譬え話に「善きサマリア人」というお話がある。一人の旅人が強盗に遭って、瀕死の重傷を負って道に倒れていた。そこを祭司とレビ人が通ったけれども、見て見ぬふりをして通り過ぎた。次にユダヤの人々と敵対関係にあったサマリア人が通りかかった。彼は瀕死の旅人を見るなり、憐れに思い、近寄って来て傷の介抱をしてやる。あの「憐れに思って」というところに、この言葉が出てくるのです。
二つの例を挙げましたが、ここに共通するものがあると思います。それは「憐れに思う」だけに留まらずに「走り寄った」り「近寄ったり」している。つまり、憐れに思う心が原動力となって、愛の行動に駆り立てているのです。
じつはこの言葉は、ルカが父なる神と主イエスを描くときにだけ用いている言葉だ、もともとは「はらわたが疼く」という意味の言葉だったのです。どうして「はらわたが疼く」のか? それは、父なる神や主イエスが、他者の痛みや悲しみに同情を寄せられるだけではなく、その人の痛み・悲しみをご自分の身に引き受けてしまわれる。はらわたが疼くほど、他者の痛みや悲しみを自分のものとしてしまわれる。その人の痛み・悲しみが、いつの間にか、神ご自身の痛みとなり、主イエスご自身の悲しみとなってしまう。そこから、この言葉は発展をして、「身代わりになって苦しむ」とか、「身代わりになって悲しむ」という意味まで持つようになったのです。
ですから、主イエスがここでこの母親を見て、憐れに思って「もう泣かなくともよい」と言われた。それはこの母親の悲しみをご自分のものとなさったということでもあるのです。
どうしてルカは、そのような深い意味のある言葉を主イエスの憐れみを描くのに使ったのか? ルカは十字架を知っているからです。他者の痛み・悲しみを身代わりになるほどに引き受けてしまわれる憐れみの心は、やがて人々の罪を身代わりになって丸ごと引き受ける出来事となって、そこに罪の贖いの救いが成就する。そのことをルカは知っていたのです。ということは、どうでしょう。ルカは、主の十字架の背後に「憐れみ」の心を見ていたということになります。だから、ルカは、十字架の物語の中に、主イエスの憐れみの心を如実に示す言葉を記しています。それは23章の34節です。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。』」
そして、ルカは、主イエスの十字架のみならず、復活の中にも主の憐れみの心を見ていると私は思います。十字架で死なれた主イエスが三日目に死人の中から初穂として甦られた。そのことをルカは知っている。だからこそ、ルカは、この物語を福音書に記したのです。
ルカは医者でしたから、やがては死ぬべき私たちの命がたどる運命を冷静に見つめています。死ぬことを冷静沈着に受け止めているのです。しかし、私たちは、ただ空しく死ぬのではない。主イエスというお方は私たちの死ぬべき運命をご自分のものとして引き受けてくださいました。そして甦ってくださったのです。そこにルカは主イエスの憐れみの心を見ています。そしてその憐れみは今も主を信じる人すべての上に脈々と注がれているではないか。その一点を、ルカはこの「ナインのやもめ」の物語を通して語り伝えていると思うのです。
私たちの教会でも、葬儀が営まれます。ユダヤ教では、会堂で葬儀が営まれることはなかったといいます。ユダヤ教の葬儀は町の外の墓地で行われるのが常でした。それを、キリスト教は改めまして、墓に向かう途中で、亡き人が愛した教会に立ち寄って、故人と共に礼拝を守った。礼拝のために途中下車をしたのです。それが今に至るキリスト教の葬儀になりました。
やがて、葬儀の礼拝が終わり、棺が閉じられて、運び出されます。誰の上にも訪れる最後の歩みです。
しかし、亡き人が納められた棺に、キリストは手をかけてくださる。「私がこの手をもって、あなたを終わりの日に甦らせる」。その約束の御手が添えられて、主の御手に支えられて歩む。キリスト者の棺には復活者の御手が添えられているのです。主イエスの御手に支えられ、主の御声に励まされて、主と共に歩む。墓へと歩むのではありません。天に向かって歩む。これが、私たちに許されている、究極の歩みではないでしょうか。だから、私たちの歩みは空しくない。復活者、主イエスが共にいてくださる歩みだからです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月28日(日)のみことば
「あなたの仰せが私を生かす。これこそが、この苦しみの中の慰めです。」(旧約聖書:詩編119編50節)
「それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」(新約聖書:ローマ書10章17節)
信仰というのは、読んで字のごとく、信じて仰ぐことです。仰ぐのですから、これは他者が相手です。しかも、仰ぐと言うのですから、この相手は自分よりも高い所におられる。つまり、神様という絶対他者が相手となってくださる。それが信仰の信仰たる所以です。それに対して、信心というのは、信じる心と書くことからも分かるように、必ずしも相手を必要とはしない。自分の信じる心が最優先される。「鰯の頭も信心から」という諺もあるように、極論をいえば、相手は鰯の頭だってかまわない。大切なのはどなたを仰ぐかではなくて、私たちの主観的な信じる心です。どなたを仰ぐかではなく、どれほど熱心に信じるか、日本人の信心は、まさにそこに比重が掛かってくるわけです。
こういうところから、日本では、しばしば、救いと悟りを混同することが起こりました。日本人は昔から、救いを求める時に、よく山へ籠ったり、出家をしたりします。それは、世間との交わりや雑念を一度断ち切り、一人になって深く瞑想し、悟りの境地に達したいと考えるわけです。しかし、聖書が私たちに指し示している救いは、悟りのことではありません。悟りというのは、自分の中にあるものを見つけることです。しかし、救いは私たちの中にはない。救いは外から来るのです。神様が私たちに語りかけてくださる。「私はあなたと共にいる。あなたを決して見捨てない。私はあなたを救い出す」と、そう語りかけてくださる神様のお言葉を聞いて、「ああ、そうだったのか」と、それを信じて受け取ることが、聖書の教えている救いであり、信仰です。