聖書:出エジプト記20章1~6節・ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節
説教:佐藤 誠司 牧師
「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」(出エジプト記20章4~6節)
「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。あなたがたは、日や月や季節や年などを守っています。あなたがたのために労苦してきたことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことが心配です。」 (ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節)
私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は第二の戒めについて、お話をしますが、中身に入る前に、今一度、第二の戒めを読んでみたいと思います。
「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」
お聞きになって、第一の戒めに比べて、ずいぶん長いなと思われたかもしれません。確かにそうなのです。そこで、第二の戒めの本体だけを取り出しますと、次のようになります。
「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」
これが戒めの本文です。ずいぶんと簡潔です。初めにお読みした長い文章は、この戒めの本文に、丁寧な説明を追加したものであることが分かります。
ところで、十戒を学ぶ時、とくに第一の戒めから第二戒めに移る際に、必ず押さえておかなければならないことがあります。それは十戒の数え方なのです。私は普通に、3節が第一の戒めで、4節以下が第二の戒めとその説明というふうに理解をして、お話を進めてきましたが、じつはこの数え方はプロテスタント教会の中でもカルヴァン派・改革派の伝統を引く教会の数え方です。カルヴァンに並ぶプロテスタント教会の本流であるルター派の教会は、別の数え方をするのです。
日本のプロテスタント教会の多くは改革派の伝統を受け継いでいますから、第一の戒めは「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」であり、第二の戒めは「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」であると、そう理解をしています。
ところが、ルター派の教会では、この第一の戒めと第二戒めを合わせて、それを一つの戒めであると理解します。そうなると、当然、どこかにしわ寄せが生じます。そのまま行けば「十戒」ではなく、「九戒」になってしまいます。どこかで帳尻を合わせないといけない。そこで、私たちが十番目の戒めだと理解している17節の「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」というのを二つに分けて帳尻を合わせて、十戒とするのです。
私はここで、どちらの読み方が正しいか議論をするつもりはありません。ただ、こういう別個の読み方が出来るというのが、ある意味で十戒の豊かさではないかと思うのです。私たちは、第一の戒めと第二の戒めを分けて読みますが、ルター派のように、この二つの戒めを一続きの一つの戒めとして読むことにも、大きな意味があると思います。実際に二つの戒めを続けて読みますと、なかなかに示唆に富むことが分かってきます。実際に続けて読むと、どうでしょうか。
「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。」
ここで気付くことがあります。第一の戒めには、戒めの根拠が一切説明されていないのに対して、第二の戒めには、かなり長い説明の言葉が続きます。この戒めが何を求めているかが、かなり具体的に語られます。
「上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。」
ここで私たちはすぐに気づきます。この説明の言葉は、ひょっとして、第二の戒めだけでなく、第一の戒めの意味をも語っている言葉ではないかと、そのように思うのです。もし、そうであるならば、第一の戒めと第二の戒めを一つのものと理解するルター派の理解も、十分な根拠があると思います。まことの神以外に、神々があってはならないというのは、偶像を造って拝んだりしないということであり、第一の戒めと第二の戒めは、当然、つながってくるわけです。しかし、それがなぜいけないかを、十戒は続けて、こう語っています。
「私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」
ここに「妬む神」という注目すべき言葉が出て来ます。ここは昔の文語訳聖書も、次の口語訳聖書も「妬む神」と訳していたのを、新共同訳聖書は「妬む」という訳を避けて「熱情の神」と訳したところです。神様が妬むのはおかしいと判断したのかもしれません。しかし、原文は、どう考えても「妬む神」なのです。ですから、最新の聖書協会共同訳聖書は、これを「妬む神」に戻しました。この「妬む」というのは、人間の妬みそねみのことではありません。愛の表現としての「妬み」です。この「妬み」の背後には「悲しみ」がある。神の民イスラエルの裏切りに対する悲しみが、神の妬みを呼び起こすのです。
古代イスラエルの歴史、神の民イスラエルの歴史は、この第一と第二の戒めに対する裏切りの歴史であったと言えると思います。それほどに、偶像礼拝というのは人の心を捕らえて離さない。私たちも、対岸の火事のように眺めているわけにはいきません。偶像の、どこが手ごわいのでしょうか。第二の戒めに、こうありました。
「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」
偶像礼拝の最大の特徴は「自分のために」なのです。自分に都合がいいから、自分に役に立つと思うから、人は偶像を造るのです。その神がまことの神であるかどうかは、この際、問題ではない。だから人々は、まことの神様を裏切って偶像に走ります。すると、預言者が現れて、人々の裏切りを厳しく糾弾します。この預言者たちの言葉が旧約聖書のかなりの部分を占めています。それはそのままイスラエルの人々の裏切りの多さを反映しています。その中の一つをご紹介します。ハバクク書の2章18節の言葉です。
「職人の造った彫像や鋳像と、偽りを教える者が何の役に立つだろうか。造った職人がそれに頼って、何の役に立つというのだ。口も利けない偶像であるのに。」
ここに「口も利けない偶像」という表現があります。この「口の利けない偶像」とか「もの言わぬ偶像」という表現は、偶像礼拝を批判する預言者たちの共通した表現になりました。どうしてそうなったかと言うと、まことの神様は「語りかける神」だからです。祝福の言葉、警告の言葉、慰めの言葉を語りかけてくださる神です。ところが、偶像に走る心というのは、神様に語ってほしくないのです。ここで神様に余計なことを言われると、こっちが困る。むしろ、神様は黙っていたほうが、有難いと。
これは言い換えると、自分が人生の主役に立ちたいという願望です。脇役は嫌なのです。私の人生は私が決める。主役は私なのだと。そのように願う人にとって、口の利けない偶像は、うってつけの存在、間に合う存在なのです。神様はいてもらってもいい、しかし、主役は私だ。神様は主役を引き立てる脇役でなら、私の人生劇場に出て来ても良い。とんでもない考えです。しかし、案外、誰の心にも潜んでいる思いなのかもしれません。
偶像礼拝と聞いて、私はそんなこと、やってはいないし、これからも決してやらないだろうと思われるかもしれません。しかし、十戒が戒めているのは、そういう目に見える偶像礼拝だけではないのです。表からは見えない「内なる偶像礼拝」というものがあるのです。これも、やはり「自分のために」というのが特徴です。心の中を祭壇にして、そこにお気に入りの神を祭る事だって起こるのです。なぜ人間は神の像を造るのか。神を偶像にすると、自分が好きな時に、好きなやり方で、拝みたいように拝むことが出来るからです。神の像の前にひれ伏してはいますが、その実態は、自分が神よりも上にいて、指図をしている。だから、その神が願いに応えなければ、どうするか。捨てるのです。この日本という国は、捨てられた神で満ちています。日本では神様は使い捨てなのです。そして、この思いは、私たちにとっても他人事ではない。こういう思いはキリスト者の心にも忍び寄って来るからです。
今日は十戒の御言葉に合わせて、新約のガラテヤの信徒への手紙の御言葉を読みました。一読して、パウロが憤っていることがお分かりになると思います。パウロはいったい何に憤っているのでしょうか。こう書いてあります。
「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。あなたがたは、日や月や季節や年などを守っています。あなたがたのために労苦してきたことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことが心配です。」
この最後の言葉が示しているように、パウロの憤りは「怒り」というより「心配」なのです。しかも、ガラテヤ教会の人たちの信仰の行く末を、心から心配している。ガラテヤ教会の人々はキリストと出会う前は、まことの神を知らず、異教の風習に染まって、物言わぬ偶像のとりこになっていたのですが、パウロからキリストの福音を聞いてこれを信じ、受入れてキリスト者となった。教会生活が始まりました。
ところが、ここにユダヤ主義の偽教師たちが現れて、キリストの福音を信じるだけでは不十分だ。割礼を受けて、律法を守ることで救われるのだと、勝手な教えを言い広めたのです。ガラテヤ教会の人たちは、これに動揺したのです。実際に、割礼を受ける者も現れたようです。パウロはそれを「信仰以前の状態への逆戻り」と呼んでいます。福音信仰だけに生きることに不安を感じて、割礼や律法遵守を付け加えるなら、それは律法の奴隷になることであって、偶像に仕えていたかつての姿と同じではないかとパウロは言うのです。
9節で、パウロは非常に強い言葉を語っています。「今や神を知っている」という言葉と、それに次いで出て来る「いや、神に知られている」という言葉です。
私たちも、日本社会に生きる中で、神ならぬ神々に隷属させられる時があります。悩みに押さえつけられることがある。仕事に隷属させられることもあるでしょう。病に怯えることもある。時には日本の習俗や儀礼に屈服せざるを得ないこともあるでしょう。しかし、私たちは「今や神を知っている」。この事は大きいです。しかも、パウロは「神を知っている」と言った、すぐあとで「いや、神に知られている」と言い直しています。私たちキリスト者は、まことの神を知っているだけではない。その神に知って頂いているのです。まことの神を知り、まことの神様に知られている。神が語りかけてくださる御言葉に養われて生きて行く。この類まれな愛の関係の中で、私たちはまことの神を礼拝するのです。ここにまことの幸いがあると思うのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月14日(日)のみことば
「あなたのまことは代々に及び、あなたが据えられた地は揺らぐことはありません。」(旧約聖書:詩編119編90節)
「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」(新約聖書:コロサイ書3章16節)
コロサイの教会に偽教師たちが入り込んで、教会は混乱していました。そういう事情で書かれた手紙ですから、その内容は、さぞかし厳しい口調で「あの偽教師たちを追い出しなさい」とか「異端と戦いなさい」とか言われているかと思いきや、どうでしょうか。意外にも穏やかと言いますか、パウロは福音の真理を語る言葉に力点を置いているように思います。その中にあるのが、今日の新約の御言葉です。「キリストの言葉をあなたがたの内に宿らせなさい」とパウロは勧めています。さあ、「キリストの言葉」って、どんな言葉なんでしょうか。
「キリストの言葉」と聞けば、私たちはすぐに、福音書の中に書かれているイエス様がお語りになった様々な言葉を連想します。もちろん、それも「キリストの言葉」には違いないのですが、パウロがここで言っている「キリストの言葉」というのは、もっと広くて深い意味があるように思います。たとえば、キリストが語らせる言葉というものが、あると思うのです。ですから、「キリストの言葉」というのは、イエス・キリストが実際にお語りになった言葉というだけではなくて、キリストが今、生きて働いて教会というものを建て上げておられるその力、生ける福音の力そのものを、パウロは「キリストの言葉」という言葉で表現しているわけです。