聖書:エレミヤ書1章4~10節・使徒言行録26章1~18節

説教:佐藤 誠司 牧師

「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたはわたしの手の中にある。」(エレミヤ書18章6節)

「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。」(使徒言行録26章16~17節)

 

使徒言行録の第26章に入りました。ここには未決囚として鎖につながれたパウロがヘロデ・アグリッパ二世の前で弁明を語る場面が描かれています。弁明というのは被告に与えられた権利です。権利ですから、自分のためにする。それが弁明です。

しかし、お読みになって皆さん、お解かりのとおり、はじめは弁明として語り始めたその内容が、いつの間にか証しに変わっていますね? 弁明というのは、どこまで行っても自分のことなのです。ところが、証しというのは違います。もちろん、証しも、自分と深く関わりのあることを語るのですが、突き詰めていきますと、証しというのは自分のことではない。行き着くところは福音の証しであり、御業の証しなのです。そういう証しをパウロはここで語っているのです。誰の前で語っているのでしょうか? アグリッパという人物の前です。2節を見ますと、パウロが彼のことを「アグリッパ王」と呼んでいることが分かります。王様なんですね。

しかし、より正確に言いますなら、アグリッパは純然たる意味での王ではなく、ローマに取り入って王にしてもらった、いわゆる「雇われ王」のようなものだったのです。ヘロデ家の血筋を引く人物です。聖書に出て来るヘロデ家の人々というのは、すこぶる評判がよろしくない。アグリッパもご他聞に漏れません。彼はローマで教育を受けて、徹頭徹尾、親ローマ派でした。ローマに忠誠を誓ったことによって、ユダヤの王に任じてもらったのです。その忠誠ぶりは徹底しておりまして、のちにユダヤ戦争が勃発してユダヤがローマによって攻め込まれたとき、アグリッパは、なんとローマ側についたことで知られます。このユダヤ戦争でエルサレムは陥落します。そして、それと共に、アグリッパ二世はユダヤの最後の王となりました。

そのアグリッパがパウロに「お前は自分のことを話してよい」と言ったのです。つまり、自分のことを弁明せよとアグリッパは促したことになります。しかし、自分のことって、何なのだろう。いや、そもそも自分って何者なのか? 自分のことを語れと言われたパウロは、きっと戸惑ったに違いありません。パウロは手紙の中でこう言っております。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

キリスト者となったパウロにとって、自分というものは、もはや無いのです。自分の中にキリストが生きて働いておられる。だから、自分とキリストの境目が無くなっているのです。ここまでが自分で、ここから先がキリストと、そんなふうに線引きが出来なくなっている。これはパウロだけではない。おそらく、この礼拝に集われた皆さん、お一人お一人も、そうだと思うのです。キリストと出会う前の自分と出会った後の自分は、全然違う。だから、信仰のない人から「自分のことを語ってよい」と言われても。困ってしまう。はて、自分のこととは何なのかと戸惑ってしまうのです。

そこでパウロはキリストと出会う前の自分と出会ってからの自分を対比させて語り始めます。キリストは私をどう変えてくださったか、その一点に焦点を絞って語り始めるのです。これは自分はどう変わったかということではありません。自分がこう変わったという話なら、これは証しではなく、ただの手柄話ですね。「自分が自分が」ではなく、キリストが変えてくださった。自分というのが主語の地位を譲り渡して、目的語になる。キリストが人生の主語になる。そのことを感謝と驚きをもって語るのです。だからパウロは、4節以下で、かつての自分を振り返りながら、こう述べています。

「さて、わたしの若い頃からの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの間であれ、最初の頃からどうであったかは、ユダヤ人なら誰でも知っています。彼らは以前からわたしを知っているのです。だから、わたしたちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員としてわたしが生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。」

何を言っているかというと、パウロは、自分はユダヤ教の正統派中の正統派であるファリサイ派として信仰を養ってきたのだと述べているのです。ファリサイ派というのは、徹底的な聖書主義で知られます。聖書を徹底して研究して、彼らは、そこから一つの希望を見出しました。それが死人の復活ということだったのです。ですから、パウロが自分はファリサイ派だったのだと力説することには意味がある。ちゃんとした伏線になっているのです。そこで、パウロは、その希望について語り始めます。

「今、わたしがここに立って裁判を受けているのは、神がわたしたちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。わたしたちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、わたしはこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」

凄いでしょう? じつに大胆なことをパウロは言ってるんです。自分は、ユダヤ人なら誰もが持っているはずの希望を抱いているが故に、ユダヤ人から訴えられているのだと、そうパウロは述べているのです。さあ、その希望とは、どういうものなのか。そこに聞く者の関心を釘付けにしておいてから、パウロは言葉を続けます。8節です。

「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたは、なぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。」

私は、この一連のパウロの言葉を読んでみて、つくずく思うのですが、ここは聖書の中で最も見事な旧約と新約の架け橋ではないかと思うのです。皆さんは、どうして旧約と新約が並んでいるのか、改めて問われますと、答えに窮すると思うのです。ところが、パウロはそれを一言で答えています。死者の復活こそ、神様が人に与えてくださった究極の希望であり、それこそが旧約と新約をつなぐ架け橋なのだと、パウロは言うのです。パウロはファリサイ派の俊才として旧約聖書を知り尽くしています。こんなに分厚い旧約聖書ですが、この旧約が何を追い求めているかというと、アブラハムへの約束はどうなったのか、その一点を追い求めているのが旧約聖書なのです。

「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福の源となる。地上のすべての氏族はあなたによって祝福に入る。」

この約束はどうなってしまったのか? 反故にされたのか? アブラハムは死んでしまったではないか。その子イサクも死に、ヤコブも死んだ。しかし、神様は御自分のことを「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ってくださる。神様は死んだアブラハムの手を離しておられない。じっと手をとったまま、終わりの日まで待っておられる。すべての人がアブラハムの子として、同じ希望に与れるのを待っておられる。アブラハムを含む、そのすべての人の罪を贖い取るために、主イエスは十字架についてくださった。そしてすべての人の初穂として死人の中から復活してくださった。この一点に目が開かれたときに、パウロは、それこそ、目からうろこが落ちたのだと思います。アブラハムの神を信じることと、イエス・キリストを信じることが別のことではなくて、一本の線でつながっている。旧約と新約はキリストの十字架と復活によって一つとされている。

パウロは、この希望を語ったあとで、かつての自分を振り返っています。9節です。

「実は、わたし自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。」

そして、神様に対する熱心さ故にキリスト者を迫害したことを正直に述べて、いよいよ12節から、あの決定的な出会いについて語り始めます。

「こうして、わたしは祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、わたしは天からの光を見たのです。」

天からの光を見た、とパウロは述べております。真昼のことだったとパウロは述べておりましたから、この天からの光というのは太陽の光とは全く別の光ということです。さらに言えば、これは神様からの光ということです。その光に捕らえられて、パウロは倒れ伏すのです。これはどういうことかと言いますと、今の今まで、パウロは、自分は神様を信じて、神様への忠実からキリスト者を迫害していたわけです。神様の光の中を堂々と歩んでいるつもりだったのです。ところが、天からの光がパウロを捕らえたとき、彼は立っていることすら出来なくなった。光の中ではなく、闇の中におったということが、明らかになったのです。「主よ、あなたはどなたですか」とパウロが問いますと、その闇の中に、声が響きました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

これはパウロにとって、衝撃的な言葉だったと思います。パウロには、自分はキリスト者を迫害しているという意識はあったと思います。しかし、彼にはイエス・キリストその人を迫害しているなんて意識は、毛頭無かったのです。ところが、主イエスは、おっしゃる。「私は、あなたが迫害しているイエスなのだ」とおっしゃるのです。パウロはこれで、キリスト者の秘密を垣間見ることになります。ああ、キリスト者というのは、一人ぼっちじゃあないんだ。キリストがその人の中に生きて働いておられる。その人が迫害されれば、その苦しみを一緒になって受けてくださる。そのことに目が開かれたからこそ、パウロは言えたわけでしょう。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と言うことが出来たのです。その主イエスがパウロに、こう命じられます。

「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。」

パウロが伝道者として立てられた瞬間です。キリストがパウロの中に入って来てくださって、パウロと共に歩んでくださる。そのような新しい生き方が始まったのです。キリストが私の中に生きておられる。そのことと一見、矛盾するようですけれど、パウロという人は自分が主の御手の中に置かれていることを知っていた人だと思います。だから今でも、お祈りの中で「どうか私たちを御手の内に置いてください」と祈りますでしょう?

今日は旧約の預言書であるエレミヤ書の第1章の物語を読みました。若者エレミヤが神様によって預言者に立てられる場面です。そのエレミヤが神様のお言葉として語っていることですが、こういう言葉があるのです。

「粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたはわたしの手の中にある。」

陶工というのは陶器を作る職人のことです。その陶工が粘土を手の中に持っているように、あなたがたは私の手の中にある、というのです。エレミヤはあるとき、神様に促されて、陶器を作る職人のところに行きました。陶工が粘土を手に持ってこねている。すると、職人は何か器を作っているうちに、作り損なったものですから、ぎゅっとつぶして、別の器を作り始めたのです。それをエレミヤが見ていたときに、あの御言葉が語られたのです。

「粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたはわたしの手の中にある。」

そのとき、エレミヤは愕然とするのです。陶器職人が主人公なのです。粘土が主人公なのではない。粘土が何を言おうと、陶器職人は自分が作ろうと思ったものを作る。陶器職人の手の中にある粘土というのは、全くその陶器職人の手に握られている。これは、ある意味、恐ろしいことであると思います。全く自分の中に主体性が無いと言いますか、自分というものを主張することが出来ない。神様が全能の力を持って私の運命を握っておられる。そういうふうに考えると、これは恐ろしいことです。

けれども、エレミヤは、これをそういう、何か運命論的な、もうどんなことをしても駄目だ、人生はもう神様のお考えになるようにしかならないのだという、そういう諦めでこれを言っているのではないのです。この私たちを陶器職人が粘土を握るように手の内に握っておられるお方は、いったい、どういうお方か。それは私たちを限りなく愛しておられるお方なのだと、そういうことをエレミヤは信じて、この言葉を語っているのです。そのときに、エレミヤは、信仰の本質を見たと思います。そして、神を信じて生きるということの本質を掴むのです。神を信じて生きるとは、この陶器職人と粘土の関係の中に自分を見出して、そのとおりに生きることです。

私たちは自分の信仰生活を振り返って見ますと、どうでしょう。どこかで、やはり自分というものを中心にして信仰生活をしているのではないかと思います。これは言い換えますと、自分が陶器職人になっているということです。神様を粘土にして、自分が気に入る形へと神様を造り替えてしまう。しかし、本当はそうではないですね。神様が私の人生を手の中に持っていてくださる。神様が私を召して、神様のご計画の中に大事な御用をさせてくださっている。それが私の人生なのだと分かったときに、私たちの人生を見る目は変わってくるのではないでしょうか。主の御手の内にあるというのは、主のご計画の中にあるということです。

だから、パウロは少しも矛盾を感じないで言いました。「キリストが私の中に生きておられる」ということと、「私は主の御手の中にある」ということを言いました。キリストが私の内に生きておられて、私の苦しみを共に担い、私がキリストの御手の内にあって、ご計画のために用いられる。私たちを手の内においてくださるお方は、いびつな形になった粘土をぐしゃっと潰すようなお方ではありません。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。まことの王にして、まことの主です。

キリスト者というのは、このお方から「あなたはこれこれ、こういう人生を歩みなさい」と言われて、新しい人生を受け取った人のことです。その人生を生きる中で、ああ、神様が共にいてくださるとは、こういうことなのだなあと、だんだんと分かっていく。ああ、私の人生は、陶器職人の手の中にある粘土のように、神様が手の内に握っていてくださる。そのことに目が開かれるときに、エレミヤやパウロが、恐れることなく証しの言葉を語ったように、私たちも神の恵みというものを証しすることが出来るようになる。それが私たちの本当の生き方だと思うのです。

 

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