聖書:ホセア書3章1~5節・コリントの信徒への手紙一7章25~40節
説教:佐藤 誠司 牧師
「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)
「もし、ある人が、婚期に達しているおとめに対して、そのままではふさわしくないと思い、また、やむをえないならば、望みどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。結婚すべきです。しかし、彼がしっかりとした心を持ち、無理をしないで自分の思いを制することができ、相手のおとめをそのままにしておこうと心の中で決めたなら、そうしたらよいでしょう。」(コリントの信徒への手紙一7章36~37節・聖書協会共同訳)
「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。」(コリントの信徒への手紙一7章36~37節・新共同訳)
私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は第七の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の14節を読んでみたいと思います。
「姦淫してはならない。」
姦淫とは結婚の破壊のことです。既に夫婦となっている男女のいずれかが、自分の配偶者以外の異性と肉体関係を作って、夫婦の関係を破壊してしまうことです。強烈なメッセージだと思います。
日本でプロテスタント教会の伝道が開始されたのが、今から約160年前のことです。それ以前は、横浜や札幌の宣教師や外国人教師によって福音の種が蒔かれて、主として武士階級出身の若者たちが信仰に入りました。彼らは十戒を、信仰と生活を結ぶ要として尊びました。ところが、「キリシタン禁令の高札」が撤去されて、プロテスタント教会の伝道が公に開始されますと、横浜バンドや札幌バンドの若者たちが喜んで従ったこの十戒が、一転して、煙たい存在として人々の前に立ちはだかりました。その煙たい言葉の代表が、姦淫を禁じた第七の戒めでした。いかにも日本で起こりそうなことです。
ついこの間まで、いや、ひょっとして今でもそうかもしれませんが、日本には「おめかけさん」という、なかば公認の女性の生業(なりわい)がありました。「おめかけさん」を囲うのが男の甲斐性とまで言われたのです。「男の甲斐性」の美名のもとに、男性の姦淫が社会的に許されたという、極めて特異な社会だったのです。当然、その陰には妻の忍従というものがあったわけです。そんな社会ですから、多くの日本人にとって、十戒は煙たい存在であり、わけても姦淫を禁じた第七の戒めは、キリスト教を揶揄するために、しばしば公然と槍玉に挙げられました。キリスト教は融通が利かん、我々を罪人呼ばわりする。だからキリスト教は好かん、というわけです。
しかし、これは何も日本に限ったことではありません。旧約聖書の時代に目を転じると、一夫多妻が当たり前の世界が広がっています。信仰の父と呼ばれるアブラハムは子を設けるために、女奴隷と通じました。ダビデ王の不倫事件は有名ですし、その子ソロモンは、数えきれないほどの女性と通じていました。
ここで、私たちは本論に入る前に、主イエスが姦淫をどう捉えておられたか、姦淫を禁じた十戒をどう理解しておられたか。それを心に刻んでおきたいと思います。マタイ福音書の5章27節以下の、この言葉です。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」
姦淫というのは、具体的な肉体関係に関わることですから、目に見える罪なのです。ところが、主イエスは、そこを一歩推し進めて「心の中の姦淫」ということを言っておられる。目に見えない罪を問いかけておられるのです。私はこれが第七の戒めの本来の心ではないかと思います。この戒めは「姦淫」という目に見える罪を問うているように見えつつ、じつは目に見えない人間の罪を明らかにするものだったのです。そこで、今回は「目に見えない人間の罪」ということを手掛かりにして、十戒の心というものに、ご一緒に迫っていきたいと思います。姦淫とは結婚を破壊することだと言いました。ならば、そもそも結婚とは何なのか。そこから入って行きたいと思います。
今日はパウロがコリント教会に書き送った手紙を読みました。コリント教会の人々が、結婚の是非についてパウロに質問状をよこしたのです。パウロはそれに答えて言います。7章の3節以下を読みます。
「夫は妻に対して、同様に妻も夫に対してその義務を果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同様に、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っています。」
意のままにする権利という表現は、じつは当時の奴隷制度が背景にある言い方です。主人は奴隷を意のままにする権利があったのです。今の時代に奴隷制度はありません。しかし、パウロが語ったこの言葉は今も生きています。夫は妻のもの、妻は夫のもの。だから、教会の結婚式では誓約の印として、指輪を交換します。あの指輪は、じつは奴隷のしるしだったのです。
パウロ自身は、生涯を福音にささげるため、生涯独身を通しました。しかし、彼は、独身でなければならないとは言いませんし、逆に結婚しなければならないとも言いません。肝心なのは、結婚か独身かではなく、共に神の栄光を現すことだからです。パウロは、結婚の本質を見抜いていたのです。パウロが見抜いていた結婚の本質。それは意外にも、祈りとしての結婚なのです。結婚が「祈り」だなんてと思われるかもしれません。しかし、一人の男性を夫にしているのは、どなたであるか? 一人の女性を妻にしてくださったのは、いったい、どなたか? 神様なのです。つまり、結婚とは神の御業であり、夫と妻と主なる神。この三者の間に成立するのが結婚であり、夫婦なのです。だから、夫婦とは夫と妻の二者の間で成立するのではない。三者で成り立つのが夫婦という絆です。
結婚が祈りだというパウロの結婚観は、別の箇所にも現れています。7章の36節をご覧になってください。
「もし、ある人が、婚期に達しているおとめに対して、そのままではふさわしくないと思い、また、やむをえないならば、望みどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。結婚すべきです。」
ちょっと解りにくい表現ですね(この部分、新共同訳聖書は、さらに大胆に踏み込んだ翻訳を行っています)。じつは、ここは長い間、聖書学の専門家の間でも、何の事なのか解らなかったのです。それが近年になって、少しづつ解ってきた。
当時の教会で行われていた結婚には、二つの種類があったらしいのです。一つは今でも行われている普通の結婚です。それに対してもう一つ、際立った特徴を持つ結婚が行われていた。それは「霊的結婚」と呼ばれるものです。どのような結婚かと言いますと、一組の男女が誓いを立てて結婚する。結婚するのですが、二人はその誓いによって夫婦の性生活を営まない。性生活をしないで、二人で祈りの共同生活を送るのです。言ってみれば、修道院生活の夫婦版です。修道士や修道女たちは生涯独身を貫きます。祈りに専念するためです。それをそっくりそのまま夫婦で行うのが霊的結婚と呼ばれる結婚です。二人は独身ではない。しかし、性生活をしないのです。
では、いったい何が彼らを夫婦としているのか? 祈りの共同生活です。彼らは修道士や修道女としてではなく、あくまで夫婦として互いに祈り合い、支え合って一緒に住むのです。そうして二人で共に神の前に立つ備えをする。これが霊的結婚です。
ところが、互いに祈り合い支え合う生活を共にしていくうちに、やはり二人の間に愛が芽生えてくる。情を通わせるようになってくる。そうしますと、誓いにふさわしくない振舞い、すなわち霊的なだけではなく、肉体的にも夫婦になりたいという思いが芽生えてくる。しかもその思いが純粋であり、抑制することも出来ないなら、思いどおりにしなさい。それは決して神に背くことではない。だから、安んじて結ばれたら良い。二人を結び合わせるのは、神様以外のお方ではありえないのだから、夫婦となったら良い。パウロはそう言うのです。
霊的結婚だなんて馬鹿げていると思われるかもしれません。そんなの結婚じゃないと言われる方もおられるでしょう。しかし、この霊的結婚には結婚が本来持っている真理の側面があるのではないでしょうか? この霊的結婚を一笑に付すことは、結婚が本来的に持っている真理の一面に目をつぶることになるのではないかと思います。
では、霊的結婚が持っている結婚の本質とは、何か? それは、神の前に立つ備えを、この地上で、二人で行うという側面です。神によって結ばれた男女が夫婦として歩む。それは二人で神の前に立つ備えをすることだとパウロは言うのです。それを行うのなら、霊的結婚の誓いを反故にしても良い。肉体で結ばれても良い。神はむしろそれを喜んで祝福してくださるに違いない。大事なのは結婚が人生の目的ではないということです。結婚が目的なのではなく、結婚に目的があるのです。神の御前に立つ備えを、今この地上で行う。それが結婚の目的です。この目的を共有して、二人で支え合って歩む。これがパウロの結婚観です。
このように考えますと、結婚は男女の二者で成り立つものではなく、主なる神様を中心にした三者で初めて成立するものだということが分かります。結婚は神の御業と言われる所以です。この御業は創世記2章の次の言葉まで遡ることが出来ます。
「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」
今も結婚式で読まれる大切な御言葉です。この御言葉の直前には、主なる神がアダムのあばら骨で女エバを造り上げて、アダムと結び合わせてくださることが語られています。人類初の結婚です。この結婚に際して、神は、こう言われました。
「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」
男と女と神様。この三角関係、トライアングルの関係こそが、結婚の真相だったのです。「助け手」と言うからには、結婚には神様の願いが込められている、ということです。その願いが創世記の1章28節に語られています。
「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。』」
この「治めよ」という所は、以前の新共同訳聖書では「支配せよ」となっていました。「支配」ですと、もう人間が好き勝手にしても良いというふうに解釈出来ますが、じつは聖書の元の意味は、暴君のような支配ではなく、むしろ「世話をしなさい」という意味であることが、近年になって分かってきた。聖書協会共同訳はその成果を取り入れて「治めよ」と訳したのです。
姦淫は結婚の破壊のことだと言いました。結婚を破壊するということは、結婚の目的も、その結婚に込められた神様の願いをも踏みにじることにほかなりません。結婚は具体的な肉体を伴うことですから、そこに罪の思いや誘惑が入って来やすいのです。その誘惑の第一歩が、アダムとエバがそうであったように、神様の願いを軽んじることです。夫も妻も傲慢になって、子どもを産むのも産まないのも自分たちの思いのままにし、あらゆる被造物や自然をも欲望の対象として支配する。姦淫の罪は、留まる事を知らず、そこまで行ってしまうのです。しかし、姦淫の罪は、悔い改めによって赦されるものでもあります。罪に落ちたアダムとエバを追放するに当たって、神様は皮の衣を手ずから作って、二人に着せてくださいました。あの衣には願いが込められています。もう一度、帰って来なさい。二人で帰って来なさい。二人揃って私の前に立ちなさい。罪赦された者として立ちなさい。このために今、私たちは地上で備えをしている。来るべき神の国で、二人揃って御前に立つための備えをしているのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
12月7日(日)のみことば
「悪意ある証人が立ち上がり、身に覚えのないことばかりを問い詰める。」(旧約聖書:詩編35編11節)
「しかし、今はあなたがたの時であり、闇が支配しているのである。」(新約聖書:ルカ福音書22章53節)
主イエスの逮捕の場面です。闇の力が、あなたがたを支配していると主イエスは言っておられる。あなたがたとは、いったい、誰のことか。ユダはもちろんのこと、主イエスを捕らえようと闇に乗じてやって来た祭司長や、神殿守衛長、長老たちが、そうでしょう。それだけではありません。弟子たちすら、闇の力に捕らわれている。逮捕の物語をよく見ると「弟子たち」という言葉が一度も使われていないことに気づきます。弟子たちはここにいなかったかと言うと、決してそうではない。それなのに、「弟子たち」という言葉を、ルカは使ってはいない、その代わりに「イエスの周りにいた人々」という言い方をしています。まるで、もう彼らが弟子の資格が無いかのように「イエスの周りにいた人々」と呼ぶ。つまり、弟子であった人たちまでが今や闇の力に捕らわれてしまっているのです。
闇の力に捕らわれると、人はどうなるか。それは弟子の一人がとった行動を見れば分かる。彼は事の成り行きを見て、こう言ったのです。
「主よ、剣で切りつけましょうか。」
この言い方は、イエス様に「こうしましょうか」と尋ねているかに見える。しかし、彼は、主イエスの返答を待たずして、大祭司の手下に打ちかかっている。つまり、彼にとってみれば、主イエスがどう思っておられるかなどは、もはや、どうでもよいことになっている。主イエスがどう思っておられるかよりも、今、目の前にいる敵をなんとかしたい。これが恐怖に駆られた心のなせる業です。
