聖書:創世記1章24~31節・マルコによる福音書7章31~37節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)

「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことは、すべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」(マルコによる福音書7章37節)

 

今日はマルコによる福音書第7章の最後の物語を読みました。ここは、この福音書にとって、大事な節目に当たるところです。ここでマルコ福音書の前半が終わって、次の第8章から福音書の後半の物語が始まる。そういう構成になっています。

マルコ福音書の前半は、主としてガリラヤでの御業が語られていました。悪霊を追い出し、病の人を癒し、救いの御業を着々となさるイエス様の姿が印象的に語られていました。それに対して、第8章から始まる後半部分は、イエス様はガリラヤからエルサレムに向かって行かれる。その道の途上で、受難予告が語られて、イエスというお方が救いをどのような仕方で成し遂げられるのかが語られて、そこから十字架と復活の物語に一気に突き進んでいくわけです。つまり、マルコ福音書は前半と後半ではガラリと雰囲気が変わる。その前半と後半を繋いでいるのが37節の次の言葉です。

「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことは、すべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」

これがマルコ福音書の前半の締め括りであると同時に、後半部分を展望する言葉でもある意味深長な言葉です。

「この方のなさったことは、すべて素晴らしい。」

この言葉がマルコ福音書の根底に流れている主題であると思います。そのことを今、心に留めていただいて、31節からの物語に思いを巡らせたいと思います。イエス様がユダヤのガリラヤを立ち去って、シリア・フェニキアのティルスに行ってしまわれた。ユダヤの人々の頑なさに心を痛められたのかも知れません。しかし、イエス様はこの異邦人の住む土地で、一人の女性と出会われました。異邦人の女性です。彼女には悪霊に取り付かれた幼い娘があった。そこでイエス様に娘を癒していただきたいと願ったのです。すると、イエス様は女にお答えになります。

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

にべもない言葉です。ユダヤ人を子供に譬えて、異邦人を子犬に譬えて、あなたに上げるものは何も無いと言われたのです。しかし、女は主の言葉を受け入れた上で、こう答えた。

「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」

この節度と分を弁えた言葉がイエス様の心を動かすのです。この女性との出会いは、よほどイエス様の心に影響を与えたと見えて、異邦人に対するイエス様の眼差しは、なお一層、暖かいものとなっていきます。主イエスはティルスを去った後も、すぐにユダヤ・ガリラヤにはお帰りにならず、シドンからデカポリス地方にまで足を伸ばされます。このデカポリス地方で、かつて主イエスはレギオンという悪霊に取り付かれた男を癒してやったことがありました。墓場を住みかとしていた男です。この男がイエス様のお名前と御業をこの地方一帯に言い広めていたのです。案の定、イエス様のところに一人の病人が連れて来られます。32節です。

「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」

この人は、耳が聞こえないだけでなく、舌が回らないのです。舌が回らないというのは、言い換えますと、舌がもつれると言いますか、全く声が出ないということではないのです。しかし、思っていることを明確な言葉にすることが出来ない。言いたいことがあるのに、言葉にならない。うめき声しか出すことが出来ない。これは、相手と心を通わすことが出来ないということです。言葉というのは心を伝えるものですから、耳が聞こえず、言葉を伝えられないということは、誰とも心を通わすことが出来ないということです。これは辛いです。全くの孤独だからです。

この孤独に苦しむ人に、イエス様は何をしてくださったでしょうか。福音書にはイエス様が癒しの御業をなさるお話が、じつにたくさん出て来ますが、今日のこの物語ほど、イエス様が相手の人物と体と体をくっ付け会うようにして癒しをなさった物語は、ほかにないと思います。33節以下です。

「そこで、イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。」

体と体が触れ合うような仕方で、癒しを成し遂げてくださった。すると、どうなったか。35節に、こう書いてあります。

「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことが出来るようになった。」

孤独の中にうずくまっていたようなこの人が、耳が聞こえるようになり、はっきりと話すことが出来るようになった。これは、ただ単に耳の障害が取り除かれ、言葉の障害が無くなったということではない。イエス様のなさる御業は、そういう肉体的な癒しに留まるものではなくて、この人が孤独から完全に解放されたということです。これがイエスというお方のなさる御業です。こうして彼の前に、新しい生き方が開かれた。主イエスとの生きた交わりが開かれた。これが「エッファタ・開け」という言葉の持つ意味です。

しかし、この「エッファタ」という言葉は、もう一つ、さらに深い意味があります。福音書はギリシア語で書かれているのですが、時にヘブライ語がそのまま使われている箇所があります。この「エッファタ」がそうですが、そのほかにも「アーメン」とか「ホサナ」とか「ハレルヤ」とか、私たちが持っている日本語の聖書ではカタカナで標記された部分がそうですが、それらは、そのほとんどが福音書のキーワードです。この「エッファタ」というのも、そうでして、この男の耳が開け、口が開かれただけではない。もっと大きな事柄が開かれていく。その前触れを、この言葉は言い表して、このマルコ福音書の前半の締めくくりとしているのです。

さあ、これから先、どのような事が開かれていくのか。じつは、この先、第8章から始まっていくのが受難予告です。8章の31節に、こう記されています。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」

そして、この受難予告に引き続いて、イエス様は、こうお語りになる。

「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

救いということを巡って、全く新しい事態が起こってくることが予告されています。これまで、多くの人々が主イエスによって救われてきました。病を癒してもらった人がいます。歩けるようにしてもらった中風の男がいました。また死んでしまった娘を生き返らせてもらった父親もいた。12年もの間、出血に悩まされていた女性も、イエス様に触れただけで癒された。悪霊に取り付かれた人が、正気になって歩み始めた。じつに多くの人々が、様々な癒しと救いとを頂いたのです。しかし、それらは癒しではあっても、まだ完全な救いとは言い難い。完全な救いとは、罪の赦しによる救いのこと。その罪の赦しを、主イエスは十字架によって成し遂げてくださる。救いとは、こういうことだ。福音とは、これなのだと。その一点を語りたいがために、マルコはこれまで様々な人々が受けた癒しや救いを語ってきたのです。それらの様々な癒しや救いが、十字架という罪の赦しに向かって一気に収斂していくというのが、マルコ福音書の後半の歩みになるわけです。

さて、イエス様は、この耳が聞こえず、舌が回らない男になされた癒しの御業を、誰にも話さないようにと人々に口止めをされた。しかし、第5章に出て来た、墓場を住まいとしていた男がそうであったように、イエス様が口止めをなさっても、人々は主イエスの御業を言い広めないわけにはいかなくなる。多くの人に言い広めたのです。そして、ここで、マルコ福音書の前半を締めくくる、あの言葉が出て来るのです。

「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことは、すべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」

どうしてこれが「締めくくり」の言葉なのでしょうか。人々は、こう言ったのです。

「この方のなさったことは、すべて素晴らしい。」

この「素晴らしい」という言葉が重い意味を持っています。これは、ユダヤの人々ではなく、異邦人であるデカポリス地方の人々が言った言葉ですが、じつは、この言葉は旧約聖書に、その起源を持つ大切な言葉です。「素晴らしい」と訳しても、もちろん素晴らしいのですが、ほかにもいろいろな翻訳が可能な深い意味を持つ言葉です。「美しい」と翻訳することも出来る。美しいといえば、私たち口語訳聖書で育った人間は、こんな言葉をすぐに連想してしまいます。それは旧約の伝道の書の3章11節の言葉です。

「神のなされることは皆、その時にかなって美しい。」

多くの人が心に刻んだ御言葉です。この「美しい」という言葉に通じるのが、デカポリス地方の人々が言った「素晴らしい」という言葉なのです。そして、この言葉は、もう一つ、大事な旧約聖書の御言葉に通じている。それが今日読まれた創世記第1章の天地創造の物語です。

この創世記の第1章は、初めから読んでいただくとお分かりになるかと思いますが、「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が、創造の御業が一日一日と進むたびに出て来ます。印象的な言葉です。この「良しとされた」というのが、あの「素晴らしい」と訳された言葉に通じる言葉なのです。「神のなされることは皆、その時にかなって美しい」という言葉にも通じる言葉です。そして、天地創造の最後に、この言葉が、形を変えて、こんなふうに出て来るのです。それは創世記第1章の最後、31節なのです。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

この「極めて良かった」というところに、あの言葉が出て来るのです。「見よ、それは極めて良かった。」。これは、この天地創造の物語を記したイスラエルの人たちの信仰の告白です。もちろん、人間が天地創造の場に居合わせたわけではありません。ですから、新聞記者が現場を見て書くというようなものではない。見て書いたものではなく、信じて書いた。それが創世記第1章の天地創造の物語です。

イスラエルの人たちが、この物語を、どういう状況で書き記したかと言いますと、国が滅ぼされて、主だった人々が皆バビロンに捕虜として連行されて行った。そういう、どん底の状況の中で、これは生まれたのです。それがどれほど深い絶望感だったか。今まで自分たちは神様のお守りを信じて歩んで来たのに、こんな酷い目に遭う。これは神様から見捨てられたということなのか。果たして神はおられるのか。自分たちの罪の故に、国が滅ぼされたのか。

こういう深刻な状況の中から、おそらく、下級の祭司たちが中心となって、もう一度、信仰の原点に立ち帰ろうという運動が起こってきたのです。そして、自分たちが信じている神様とは、どういうお方なのかと、そこを突き詰めて書かれたのが、この創造物語です。ですから、これは物語というより、信仰の告白なのです。

こういう状況の中で、多くの人々が、天からの啓示の声を聞きます。それがイザヤ書の40章に記されています。

「目を高く上げて、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

うなだれて、下ばかり見ている人々に、神様は「目を高く上げて、天を見よ」と声をかけてくださった。「これを誰が創造したかを見よ」と語りかけてくださった。そこから生まれていったのが「我らは天地の造り主を信ず」という信仰告白であり、この信仰告白が実を結んだのが、創世記第1章の創造物語だったのです。

しかし、確かにこれは、イスラエルの人々の悔い改めの信仰告白なのですが、最後の31節だけは、どうも、ほかとは違う響きが感じられる。それが「極めて良かった」という感嘆の言葉です。これがイスラエルの人々の信仰告白ではないと言っているのではないのです。確かにこれも、人々の信仰告白の言葉なのですが、神様が彼らの信仰告白の言葉の中に入って来られて、彼らの信仰告白を用いてご自身の御心を語ってくださった。そういう言葉ではないかと思うのです。と言いますのは、この「極めて良かった」という言葉は、大変に長いスパンを持つ言葉だからです。そのニュアンスを込めて日本語にしますと「神がすべての事を見極められると、それは極めて良かった」という感じです。

で、この「すべての事」とは何なのか。その一点を巡って、読み方が問われることになります。「神がこれまで創造なさったすべてのものをご覧になって」という具合に理解をしますと、これは当たり前の解釈になります。しかし、この「極めて良かった」というのは、先に述べたように、大変に遠大なスパンを持つ、重みのある言葉です。ご自分が造られたものだけではない。そういうものをすべて超えて、さらに時空をも超えて、世の終わりまでを見据えた上で「極めて良かった」とおっしゃったのではないかと思います。人間がヘビの誘惑に負けて罪に陥ることも、堕落した人々が洪水で滅び去ることも、二度と人間の罪の故に地を呪わないと神様ご自身が決意されることも、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約も、さらに独り子を世に遣わされること、独り子が十字架で殺されることも、復活なさることも、すべてを見据えて、その上で、こう言っておられる。

「見よ、それは極めて良かった。」

これとまったく重なる言葉が、マルコ福音書の前半の締めくくりの言葉として出て来ることの意味を、私たちは深く噛み締めたいと思うのです。マルコは、それをユダヤ人ではなく、デカポリスの異邦人の口から出たと主張しております。

「この方のなさったことは、すべて素晴らしい。」

極めて良かったという言葉と全く重なる言葉です。主イエスの十字架も復活も、そして福音が地の果てに至るまで宣べ伝えられ、日本に住む私たちが救われ、神を讃美して礼拝をしている。そのことまでも、すべて含んで、マルコ福音書は言うのです。

「この方のなさったことは、すべて素晴らしい。」

この讃美の輪に、世々の信仰者と共に、私たちも加わることが許されている。そのことを感謝して、共々に歩むものでありたいと思います。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com