聖書:イザヤ書35章1~2節・マルコによる福音書1章12~13節

説教:佐藤  誠司 牧師

 

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」 (イザヤ書35章1~2節)

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間、そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコによる福音書1章12~13節)


マルコによる福音書を連続して読んでおりますと、皆さん、あることに気付かれると思います。マルコ福音書は大枠だけを書いていて、中身を書かないことが多いのです。どういうことかと言いますと、イエス様が何をなさったかは書くのです。しかし、その時、主イエスが何を言われたか、どうお答えになったかという、多くの場合、私たちがそこから福音のメッセージを聞き取ろうとして耳と心を傾ける、主イエスのお言葉が少ないのです。

今日の箇所は、おそらく、その最たる例であろうと思われます。イエス・キリストが公の生涯の一歩を踏み出す前に、荒れ野で40日の間、サタンの誘惑に遭い、これに打ち勝たれた物語です。有名な物語ですが、私たちはこの物語をどこで知ったかというと、ほとんどの方はマタイ福音書か、あるいはルカ福音書で知ったという方が多いと思います。

そして教会生活の長い方、あるいは聖書に親しんでおられる方ならば、イエス様が荒れ野で悪魔・サタンからどのような誘惑を受け、それにどのようにお答えになったか、どのように打ち勝たれたか、それらを皆さん、諳んじておられると思います。

断食の末に空腹を覚えられた主イエスの前にサタンが現れて、石をパンに変えてみたらどうかと唆す。その誘惑を見事に撥ね退けて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で人は生きるのだ」とおっしゃった。その力ある言葉は、まさに聞く者の心に深く刻まれる。そのような重みのあるお言葉であると思います。そのあとも、悪魔は、さらに二つの試みを主イエスに向けるのですが、そこでの主イエスのお答えも、読む者の心に響くものです。

ところが、マルコ福音書は、それら一切を記さないのです。どうしてなのでしょうか。多くの学者たちは、こう類推しました。マルコ福音書は、四つの福音書の中で最初に成立した福音書なので、マルコがこの福音書を書いた時には、まだサタンの誘惑に対するイエス様の答えが知られていなかったのだろう。それが後になって、イエス様がどうお答えになったかが知られるようになってから、マタイやルカがそれを取り入れて福音書を書いたのだと、そのように類推する学者が多いのです。しかし、誘惑の中身もそれに対するイエス様の答えも知らないまま、マルコがこのエピソードを福音書に書いたというのは、どう考えても不自然に思えます。おそらく、マルコもサタンの誘惑の中身も、それに対するイエス様の答えも知っていたのではないか。知っていた上で、敢えて、それらを書かなかったのではないかと思います。ということは、どうなりますか。書かないというところに、マルコ福音書の主張がある、ということになりますね。そこで今日は、誘惑の中身を書かないマルコ福音書の主張とは、どういうことなのか。そこに焦点を絞り込んで、そこから福音のメッセージを御一緒に聞き取っていきたいと思います。

まず、物語の全体を読んでみたいと思います。

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間、そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

いかがでしょうか。全部と言っても、これだけです。たったこれだけ、と思われた方もあるかも知れません。これだけでは、イエス様がサタンに勝ったのかどうかも分からないではないかと。しかし、イエス様がサタンとその誘惑に打ち勝った。そのことを信じる、というのが、私たちの信仰でしょう。だから、イエス様がサタンに勝ったというのは当たり前。だからマルコは、それを書かないのです。

それよりも、多くの読者が奇異に感じるのは、霊がイエス様を荒れ野に送り出したということだと思います。霊というのは「聖霊」のことです。聖霊が、よりによって、どうしてサタンが待ち受ける荒れ野にイエス様を送り出したのか。しかも、ここは「送り出した」というふうに、新共同訳聖書は穏やかに訳していますが、ここは、じつは原文のニュアンスは「追い遣った」という強い表現が採られているのです。どうして聖霊がイエス様を荒れ野に追い遣ったのでしょうか。

聖霊といえば、私たちは、私たちの中に働いて、信仰の息吹を与えてくださる「信仰の霊」というイメージを持っております。そしてそれは正しい理解でもあるわけですが、あくまでそれは聖霊の働きの一面なのです。では、聖霊の、もう一つの働きとは、どういうものなのか。

使徒言行録に、こんなエピソードがあるのをご存じでしょうか。使徒言行録の16章ですが、パウロが小アジアで伝道しようとすると、聖霊がアジアで御言葉を語ることを禁じたというのです。つまり、聖霊がパウロの行く道を阻んだわけです。聖霊は時に、そういう働きをする。パウロにしてみたら、小アジアに御言葉を伝えることこそ、神様の御心だ、それが自分の使命だと確信しているのです。しかし、神様の御心は、私たちの思いとは、別のところにあるということが、案外、あるのです。それを思い知らせるために、聖霊が道を阻む。聖霊が別の道に私たちを追い遣る。そういうことが、やはり、誰の人生にもあると思うのです。イエス様を荒れ野に追い遣った聖霊の働きとは、そういうものではなかったかと思います。

そしてもう一つ、私たちがここで明らかにしておかなければならないのは「荒れ野」とは何か、ということです。私ども日本人は、聖書が言う「荒れ野」を知りません。温暖で、雨の多い日本に住んでおりますと、聖書の世界に出て来る荒れ野というものが、いかに厳しい気候の土地であるか、想像することさえ難しくなります。人が住むことはおろか、人が近づくことすら拒むような、厳しい土地なのです。

ところが、マルコ福音書が用いました、この「荒れ野」という言葉には、そういう自然のどこかの場所と言う意味のほかに、もう一つ、隠された意味がある。それは意外に思われるかも知れませんが、人の心についても使われる言葉だということです。荒れ野のような心というふうに使われるのです。では、荒れ野のような心とは、どのような心なのでしょうか。「荒れ野のような心」と聞きますと、私たちは、荒れた心、荒れすさんだ心を連想します。どうして心が荒れるのでしょうか。初めから心の荒れた人はいません。人間関係の中で、様々な葛藤や苦しみ、悲しみがあって、それに打ち勝つことが出来なかった。希望を失った。不幸に打ちひしがれた。だから心が荒れるのです。

じつは、この「荒れ野」という言葉には、もう一つ、「捨てられる」という意味があります。そういえば「砂漠」を意味するデザートという英単語も、もとは「捨てられた」という意味から生まれた言葉ですね。自然の土地も、人の心も、捨てられるから荒れる。誰も訪れないから荒むのです。ルカ福音書の19章に出て来るザアカイの心がその典型です。ザアカイだって、初めから荒んだ心ではなかったはずです。人から嫌われ、軽蔑され、捨てられたから、彼の心は荒れて荒んでしまったのでしょう。そんなザアカイにイエス様だけが親しく声をかけてくださいました。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まるから。」

聖書に出て来る「家」という言葉には、背後に「心」という意味が二重写しにされています。ヨハネ福音書の復活の物語で、弟子たちが人々を恐れて家に鍵をかけて閉じ篭っていたというのも、じつは、心の扉に鍵をかけていたということです。イエス様がザアカイの家に泊まってくださった。あれは、誰もが見捨てたザアカイの心、荒れ野のような心に、イエス様だけが入って来てくださった、ということです。

さあ、そうしますと、主イエスが荒れ野に来てくださった、というのは、二重の意味を持つことになります。文字通りの荒れた土地、砂漠のような荒地に来てくださったというのが第一の意味です。そして、第二の意味は、人々に見捨てられ、荒れ荒んだ人の心に主イエスは来てくださったということです。これは主イエスの地上の歩みの最後まで続くことです。

ザアカイだけではありません。息子を亡くして嘆く母親の心に、弟ラザロを失った姉妹の心にも、罪の女と蔑まれる女性の心にも、誰も訪れない孤独な人の心の中を、イエス様は訪ね来てくださいました。いわば、主イエスの生涯を通じて行われることが、今、その生涯の始まりに当たって記されているのだと、そのように読むことも許されると思います。

そして、もう一つ、この「荒れ野」について、どうしても触れておかなければならないのは、人間の罪が作り出す荒れ野ということです。マルコ福音書も記すとおり、主イエスは40日の間、荒れ野におられました。これは明らかに、出エジプトの出来事を連想させる表現です。あの時、エジプトを脱出したイスラエルの人々は、その罪の故に、40年もの間、荒れ野を旅することになりました。指導者であるモーセが山に登っている間に、人々は早くも神様の救いの御業を忘れて、自らの手で金の子牛を作り、それを拝んでしまう。偶像礼拝です。

この人々にも、それなりの言い分はあるのです。神様はせっかく我々をエジプトから救い出しておきながら、この荒れ果てた地に放り出しているではないか。これが救いなのか。神様は我々に何もしてくれないではないか。神様なんか、おられないに等しいではないか。初めはつぶやきだった心の思いが、噴出して、それが金の子牛を拝むという偶像礼拝になってしまう。神様を軽んじてしまうことから起こる。これも心の荒れ野、人の罪が作り出す心の荒れ野と言って良いと思います。

この心の荒れ野、人の罪が作り出す心の荒れ野に、イエス様は40日の間、おられて、そこでサタン・悪魔の誘惑に打ち勝ってくださったのです。そのことの意味を、私たちは深く噛み締めたいと思います。そのために、明らかにされなければならないのは、マルコが13節の後半に書いた次の言葉です。

「その間、野獣と一緒におられたが、」

イエス様が野獣と一緒におられた。なんとも不思議な描写ですが、聖書の中に出て来る不思議な描写・表現には、深い意味が隠されていることが多いのです。さあ、それは、いったい、どのような意味なのでしょうか。

「野獣と共にいる光景」。これが連想させるのは、やはり、あのイザヤ書11章のキリスト預言。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで」という言葉で始まる預言の言葉です。あの言葉の後に、次のような言葉が出て来るのです。

「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」

なんとも牧歌的で不思議な言葉ですが、これは何を表しているのでしょうか。人と野獣が和らいで、そこに共にいる。平和に暮らしている。主イエスの荒れ野での野獣と共にある生活。あれは、このイザヤ書の言葉を念頭に置いていると思われる。そして、さらにこのイザヤ書の不思議な描写は、ひょっとして、アダムとエバが、その罪の故に追放された、あの楽園を偲ばせる描写ではなかったかと思う。失われた楽園。そう、「エデン」と呼ばれた、あの楽園です。

そういえば、あの園で起こったのも誘惑でした。神様が天と地のすべてと、そこに住む命のすべてをお造りになった。野獣をお造りになり、人をお造りになった。そして人と野獣が共に平和に暮らすことが出来る。そういう世界をお造りになったのでした。そして神様は、それを御覧になって、「極めて良かった」と言って満足なさいました。これがシャーローム・まことの平和の関係だったのです。

ところが、この「極めて良かった」平和の関係が、やがて破壊されていきます。サタンの誘惑です。サタン・悪魔がヘビの姿で現れて、神様が食べてはいけないと言われた楽園の中央にある木。これは善悪を知る木と呼ばれた特別の木だったのですが、神様は楽園のすべての木から実を取って食べても良いと言われた。しかし、園の中央にある木からは取って食べてはならない。死んでしまうから、と言われたのです。アダムとエバはこの言葉を確かに聞く。そして心に刻むのです。

ところが、ヘビがその心に揺さぶりをかけるのです。すると、心が揺らぎます。揺らぐ心ほど、弱いものはありません。ヘビは、そこに甘い言葉をかける。この木の実を食べても決して死ぬことはない。あなたがたがこれを食べて、神のように賢くなるのを、神は喜んでおられない。ただそれだけだ、とヘビは言う。すると、神にようになれる、というのが彼らの心を捕らえた。そして彼らは、木の実を食べた。すると、死ななかった。なんだ、神様は、嘘を言うたのかと、ここで彼らは神の言葉を軽んじることを学習する。そして、坂道を転がり落ちるようにして、落ちていくのです。これが聖書の言う「罪」です。そして人間は、この楽園を追放される。その時に、神様は、こう言っておられます。

「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯、食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とアザミを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。」

これが、じつは「荒れ野」だったのです。自然の荒れ野ではない。人間の罪が作り出した荒れ野です。人間は楽園を追放されて、二度と帰ることはありませんでした。しかし、楽園に帰る道は絶たれたとしても、神様のもとに立ち返る道は、開かれる。主イエス・キリストは、その道を自ら開くために、荒れ野に向かわれ、悪魔の誘惑に打ち勝ってくださったのではないでしょうか。

主イエスは荒れ野に立ってくださいました。自然の荒れ野ではありません。人間の罪が作り出した心の荒れ野です。「荒れ野に立つキリスト」。これが今日の説教題ですが、この荒れ野とは、救われる前の私たちの心のことではないでしょうか。イエス様は、荒れ野のような私たちの心の中に来て、誘惑に打ち勝ち、私たちの心の荒れ野に、信仰という花を咲かせ、さらに豊かに実を結ぶものとしてくださいました。イザヤ書35章の言葉が、私たちの心の中に成就したのです。

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」

今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

【予 告】
○次週の主日礼拝 10月13日 (日)午前10時半 聖霊降臨節第19主日
説教「岩の上に教会を建てる」 牧師 佐藤 誠司
聖書:出エジプト記20章2~3節・マタイによる福音書16章13~20節
賛美歌(讃美歌21):83-1 60 215 390 27
○どなたの来会も心から歓迎しています。