聖書:イザヤ書55章8~11節・マルコによる福音書2章13~17節

説教:佐藤  誠司 牧師

 

「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人たちと一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコによる福音書2章16~17節)

福音書という書物はイエス・キリストの地上に於ける歩みを記した書物ですが、それと同時に、福音書には主イエスとの出会いによって生き方を根底から変えていただいた人の話がたくさん出てきます。福音書は出会いの書物でもあるわけです。

その中に、「私に従いなさい」という言葉をかけてもらった人の物語が、いくつか出てまいります。私は以前に、福音書が伝える出会いの物語を類型に分けてみたことがあります。と言いますのも、福音書が伝える主イエスとの出会いの物語は、だいたい二つの類型に分けられるのです。一つは「私に従いなさい」という言葉をかけていただくパターン。もう一つは、それとは対照的に「行きなさい」と言う言葉をかけていただくパターンです。

「行きなさい」、あるいは「安心して行きなさい」と言っていただくパターンというのは、一度きりの出会いがその人の上に決定的な変化をもたらす場合が多いと思います。たとえば劇的な癒しや回心が起こった場合に、その恵みを携えて「安心して行きなさい」と言われるのです。いわば派遣型の物語です。主の恵みを携えて派遣されて行くのです。

それに対して「私に従いなさい」と言っていただくパターンというのは、出会いそのものは、それほど劇的ではありません。人の目を引く癒しや華々しい奇跡が起こるというのではないのです。そういう一度きりの火花のような出会いではなくて、これからも出会いは継続していく。師弟関係がこれから始まるのです。その師弟の関係の中で、その人の生き方がじわじわと変えられていく。そういう場合に「私に従いなさい」という言葉がかけられることが多いのではないかと思います。派遣型ではなく、継続型と言っても良いかも知れません。継続する関係の中で、人格がじわじわと練り上げられて、その人はやがてキリストの弟子とされていくのです。

今、私は「弟子」という言葉を使いましたが、当時「ラビ」と呼ばれた律法の教師には何人もの弟子がいたようです。律法の解釈とその運用法をラビは弟子に教えたのです。その律法解釈の流派で最も有名だったのがファリサイ派と呼ばれる一派です。ですから、ファリサイ派の教師のもとには、弟子入りを志願する若者が後を絶たなかったといいます。彼らは自分から名乗りを上げて「私をあなたの弟子にしてください」と志願しました。

ところが、主イエスの弟子となった人たちは、どうだったでしょうか? 自ら弟子入りを志願して「私を弟子にしてください」と頼み込んで、弟子になった人が、一人でもいたでしょうか? いなかったのです。では、彼らはどうして弟子になることが出来たのか? 主イエスのほうから来てくださったのです。弟子入り志願者が乗り込んで来て、自ら門をたたいたのではなくて、主イエスご自身がその人の所へ来てくださって、声をかけてくださった。「私に従いなさい」と声をかけてくださったのです。これが主イエスの弟子たちの大きな特徴です。ほかのラビたちには見られない点です。

シモン・ペトロの場合も、そうでした。シモンのほうから「弟子にしてください」と頼み込んだわけではありませんし、シモンがイエス様のところまで出掛けて行って、門をたたいたのでもない。主イエスのほうから、シモンを訪ねてくださった。しかも、それはシモンの生業であるガリラヤ湖の漁の現場でした。それも、一匹の魚もとれずに意気消沈して網を繕っているシモンを、主イエスは訪ねてくださったのです。

このように、主イエスというお方は、相手の生活の真っ只中に来てくださる。よそ行きの晴れがましい時にではなく、普段着の時に来てくださる。それは彼にとって、必ずしも嬉しい場面、誇らしい場面ではないかも知れません。シモンもそうでした。魚一匹も取れずに、落胆して網を繕っている。まあ言ってみれば惨めな場面です。その失望のさなかに主イエスは来てくださって、「もう一度、沖へ漕ぎ出して、漁をしなさい」とおっしゃったのです。

今日与えられているレビの物語も、それとよく似ています。主イエスはレビの仕事場を、それもレビが仕事の真っ最中にいるときに来てくださいました。しかし、それはレビにとって決して嬉しいものではなかったでしょう。レビの仕事。それはユダヤの国を支配しているローマ帝国のために同胞から税金を取り立てる徴税人だったからです。27節に「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」と書いてあります。おそらく、これはレビにとって、一番見られたくない場面であったと思います。

ここはカファルナウムの町です。この町は交通の要所であると同時に、ローマ帝国の領土と領土の接点に当たります。そういうこともあって、カファルナウムの街道沿いには大きな収税所がありました。その表に窓口があって、街道を行く人々を改め、税金を取り立てる徴税人が座っていたのです。ちょっと箱根の関所に似ているかも知れません。

この収税所はローマのお役所ではありますが、ローマ帝国はユダヤの人々から税金を取り立てる役をユダヤ人にさせたのです。この役人になってしまえば、懐は潤います。ローマに隠れて不正な取立てをすればよいのです。そこで人々は競って徴税人になりました。高いフランチャイズ料を支払って徴税人になる権利を買い取ったのです。それでも元が取れたと言いますから、いかに彼らが不正な取立てをして私腹を肥やしていたかが分かります。

そんな徴税人を、人々はどのような目で見ていたことでしょうか? 敵国のローマの手先になって同胞から税金を取り立てている。人々はローマ人を嫌ったに違いありません。しかし、それは敵視するといった程度のことであったと思います。

ところが、徴税人を見る目は違います。同じユダヤ人なのに、ローマのために働いている。それだけでも赦し難いのに、不正な取立てをして私腹を肥やしているのですから、これはもう敵視などというものではない。人々はありったけの憎しみと軽蔑を込めて徴税人を見たことでしょう。しかも、このとき、レビは収税所の玄関先にある詰め所に座っていた。人々の憎しみと蔑みを一手に引き受ける形で、レビはそこにいました。

そこに、主イエスが来られたのです。そして、収税所の詰め所に座っているレビをご覧になりました。レビはその眼差しを感じていたでしょう。こういう他人に嫌われる仕事をしている人というのは、人の眼差しに敏感です。刺すような視線、嘲るような視線、敵意と蔑みが込められた冷ややかな眼差し。そういう眼差しを嫌というほど浴びながら、彼はこれまでずっと収税所に座ってきた。心に鎧をまとうようにして、これが仕事なのだからと自分に言い聞かせて仕事場に座ってきたのでしょう。

ところが、レビは、そういう冷ややかな視線ではない、もう一つの眼差しをこの日、感じていた。深い眼差しです。暖かい眼差しです。レビはその眼差しに気がついただけではなかった。その眼差しの中に捉えられている自分を、彼は発見するのです。すると、そのとき、この眼差しの人が声をかけた。たった一言、声をかけたのです。

「わたしに従いなさい。」

すると、信じられないことが起こった。レビは立ち上がったのです。そして、そのまま、主イエスについて行きました。レビは徴税人として働いている真っ最中だった。それが嫌になって、仕事を放り出して、いわば仕事人間が職場から失踪するようにして、いなくなったのでしょうか? 違うのです。彼は、主イエスの言葉と眼差しに捉えられて立ち上がりました。

さて、立ち上がったレビは、そのまま主イエスに従いました。そして主イエスのために盛大な宴会を催すのです。生まれ変わった喜びを分かち合う祝宴です。ここで興味深いのは、レビが生まれ変わったことを祝うこの宴会に、レビの長年の仲間であった徴税人や罪人と呼ばれる人たちも、じつにたくさん招かれていたということです。些細なことのように思われるかも知れませんが、私はこういうところに、キリストとの出会いの大事な秘密が語られているように思うのです。

どういうことかと言いますと、イエス・キリストとの出会いによって、確かに人は生まれ変わります。しかし、それは、それまでの人生を否定するものではないということです。これは皆さんも、同じだと思います。せっかくイエス様と出会って生まれ変わらせていただいたのだから、これまでの生き方はキッパリ否定して、これまで付き合ってきた仲間ともキッパリ別れて新しい人生を歩もうではないか、なんてことにはならないのです。だから、主イエスは「徴税人なんていう罪深い仕事は辞めて、私に従いなさい」とはおっしゃらない。ただ「私に従いなさい」とだけおっしゃる。

レビの場合も、そうです。彼は主イエスと出会い、主イエスに従うことで、確かに生まれ変わりました。しかし、それだからといって、それまでの徴税人仲間を彼は否定しなかった。

いや、レビが否定しなかったのではない。主イエスが否定なさらなかった。否定されるどころか、喜んで彼らと食卓を共にして、喜びを分かち合ってくださったのです。だから、徴税人や罪人と呼ばれた人たちも、喜んでやって来た。彼らもまた、主イエスの暖かな眼差しの中に身を置くことが出来たのです。

ところが、ここに文句を言う人々が現れました。ファリサイ派の律法学者たちです。彼らは、レビが生まれ変わったこの喜びを、分かち合うことが出来ずに、弟子たちに向かって、こうつぶやきました。

「どうして彼は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」

彼らはイエスの弟子たちに言ったと書いてあります。きっと彼らは弟子たちならやり込めることが出来ると判断して、弟子たちを責めてきたのでしょう。弟子たちも答えに窮したことでしょう。自分たちは先生である主イエスにくっついて来ただけだ。先生が喜んで徴税人たちと交わっておられるから、自分たちも喜んで食卓を共にしている。ただそれだけで、弟子たちには理論武装がないのです。でも、それで良いのです。主イエスが彼らに代わって答えてくださったのですから。主イエスはこうお答えになりました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

主イエスはハッキリと言っておられます。私は医者としてこの世に来た。もちろん、肉体の病を癒すだけの医者ではありません。肉体も心もすべてです。人間の生き方そのものを癒す医者として、私はこの世に来たのだと言っておられる。そしてレビは病人なのだとハッキリ言っておられるのです。レビだけではありません。この食卓に喜んで座ってレビが生まれ変わったことを祝福している弟子たちや徴税人たち。そのすべてが病人なのだと言っておられる。

しかし、主イエスが言われる「病人」とは、どういう人のことなのでしょうか? 主イエスが言われる「病人」とは、いわゆる「病気の人」ではありません。あなたは健やかになれる。私に従うことで、あなたも、健やかに立ち上がることが出来る。主イエスがそう語りかけておられるすべての人が、主イエスの言われる「病人」です。

譬えて言いますと、私たちが病院に行って、恐る恐る診察室に入るとします。すると、お医者さんが私たちの顔を見るなり、「ああ、あなたは健やかになれる。健やかに立ち直れますよ」と言っていただけたなら、どれほど嬉しいことでしょうか。主イエスは、まさに、そういう医者、名医中の名医なのです。この名医は愛の眼差しを向けて「あなたも健やかに立ち直れますよ」と言って手招きしておられるのです。

そしてもう一つ、ここで注目すべきことは、主イエスはレビたちのことをハッキリ「罪人」と呼んでおられることです。しかし、これもまた、先ほどの「病人」という言葉と同じでありまして、ほかの人が言う「罪人」という言葉と、主イエスがおっしゃる「罪人」という言葉は、同じ言葉ではありますが、意味がまるで違う。言葉って、そうですよね。愛が込められた言葉か、愛の無い言葉か。それは、その言葉をかけられた人には、すぐ分かる。言葉というのは、愛が込められているか、いないかによって、言葉の意味がまるで違ってくる。そういうことって、ありますでしょう? 早い話、先ほどの律法学者も「罪人」という言葉を口にしていますが、その意味はどうでしょうか? 彼らは律法を守らない人間のことを疎外する意味で「罪人」という言葉を口にしています。「あんな罪人なんかと、なんで一緒に食事するの」という感じです。要するに、愛が無いのです。

それに対して主イエスがおっしゃった「罪人」という言葉は、どうでしょう? 主イエスはこうおっしゃったのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

罪人を招くために、私は来たのだとおっしゃる。さあ、主イエスのおっしゃる「罪人」とは、どういう人のことなのか? じつはこれは福音書の大きな主題の一つです。ですから、福音書の全編に渡ってこの主題が出て来ます。そして、福音書の最後に、それは出て来ます。さあ、主イエスの言われる「罪人」とは、どんな人のことなのか? それはルカ福音書23章の34節に記された主イエスの言葉で分かります。主イエスはこう言っておられるのです。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」

主イエスが言われる「罪人」とは、これです。自分が何をしているのか知らない人のことです。赦されなければ、罪なんて知らない人たちのことです。赦されて初めて自分の罪に気付く人のことです。

さあ、罪人とは誰のことか? それはレビたちだけではない。私たちのことだったのです。主イエスは私たちを招いて悔い改めさせるために、来てくださいました。私たちの所へ。私たちの生活の真っ只中に来てくださった。レビが座っていた収税所の前に来てくださったように、私たちが生きている。その人生の現場へと来てくださって、声をかけて手招きをしておられる。その眼差しは、どのような眼差しだったでしょう。今日はイザヤ書55章の御言葉を読みました。主イエスの愛の眼差し、暖かな眼差しを、彷彿とさせる。そのような御言葉であると思います。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」
「だから、わたしに従いなさい。」

待降節に入った今日、この御言葉を胸に刻んで歩みたい。私に従いなさい。そうすれば健やかになれる。健やかに立ち上がることが出来る。この御声を聞いて従うのです。イエス様の後をついて行く。それが大事です。そこに新しい生き方、新しい人生が始まります。この道をご一緒に行きましょう。
今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

【予 告】
○次週の主日礼拝 12月8日 (日)午前10時半 待降節第2主日
説教「断食しないのはなぜか」 牧師 佐藤 誠司
聖書:エレミヤ書31章31~34節・マルコによる福音書2章18~22節
賛美歌(讃美歌21):83-1 242-1~2 268 513 28
○どなたの来会も心から歓迎しています。