聖書:イザヤ書42章1~7節・マルコによる福音書5章1~20節

説教:佐藤  誠司 牧師

「イエスは言われた。『自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。」(マルコによる福音書5章19~20節)

今日からマルコ福音書の第5章に入ります。ご覧になってお解かりのように、この第5章には、二つの物語が収められていますが、二つとも、大変に長い物語です。言葉を尽くして語っている。これまで、マルコ福音書と言えば、言葉をそぎ落とした、大変に短い物語が多かった。ルカやマタイが10行、20行をかけて語るところを、マルコはほんの数行で簡潔に語る。そういうことが多かっただけに、この第5章は意外な感じを受けます。ここから分かることは、マルコはこの第5章の二つの物語を、本腰を入れて丁寧に語っているということです。

さて、今日の物語は、お読みになって、皆さんお感じになったかと思いますが、なんとも異様な雰囲気の漂う物語です。悪霊にとりつかれた男が登場します。けれども、悪霊にとりつかれた男なら、福音書の中には、ほかにも出てまいります。しかし、今日の物語には、それらには見られない、独特の暗い雰囲気が漂っています。どうしてなのでしょうか?

おそらく、それは物語の舞台となった土地に関連しているのでしょう。主イエスはガリラヤ湖の向こう岸にお渡りになったのです。「ゲラサ人の地」と書かれています。聖書の巻末にある「新約時代のパレスチナ」という地図をご覧になれば、お解かりになるかと思います。ゲラサのあるデカポリス地方はカファルナウムのちょうど向こう岸に当たります。

これは私たち日本人には想像しにくいところかも知れませんが、パレスチナでは、往々にして、湖の向こう岸はもうすでに外国人が住む異邦の地だ、ということが起こります。生活習慣も違えば、信じていることも全く異なる。第一、聖書の神を全く知らない人々が住んでいる。普通のユダヤ人なら近づかない所です。そういうところに、主イエスはやって来られたのです。ここは押さえておきたいところです。

さて、主イエスが舟から上がられると、主イエスを迎えるようにして、一人の男がやって来た。それが、どうでしょう。見るからに、普通の人間ではありません。衣服を身にまとわず、裸同然で、異様な叫び声をあげている。家に帰ることなく、もう長い間、墓場を住まいとしていた。その男が主イエスを見るなり、近寄ってきたのです。おそらく、主イエスは彼を一目みて、事の本質を見抜かれたと思います。これはこの人の本来の姿ではない。何者かがとりついて、この人をこのような姿にしてしまったのだと見抜かれた。だから主イエスは汚れた霊に向かって、この男から出て行くようにお命じになりました。すると、汚れた悪霊は男の口を借りて、こう言い返します。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」

今、私たちが礼拝で使っている新共同訳聖書は解り易い翻訳を心がけたが故に原文の意味を意訳しすぎたところもあって、ちょっと注意をしながら読まなければなりません。じつはここもそうでして、この「かまわないでくれ」という所、以前の口語訳聖書は次のように翻訳しておりました。

「あなたはわたしと何の係わりがあるのです。」

じつは原文の意味からすると、この口語訳のほうが正しい翻訳です。悪霊は確かに主イエスの正体を知っている。神の子であることを見抜いているとさえ言える。しかし、それは信じているのではない。いったい、あなたと私には何の係わりがあるのかとうそぶくのです。

おそらく、この男にも家族はあったのでしょう。家族と共に暮らしていたのでしょう。ところが、何度も汚れた霊にとりつかれて、そのたびに彼は人が変わったようになった。家族は悲しんだに違いありません。家から飛び出して他人を傷つけてはいけないからと、家族は彼を家に閉じ込めた。鎖で縛り、足枷をはめて、家から出られないようにしたのです。

しかし、彼を家に繋ぎ止めておくことは、もはや誰にも出来なくなった。鎖を引きちぎり、足枷をも破壊して、彼は家を飛び出した。以来、彼は家族のもとに帰ることはなかった。

野山から絶えず彼の叫び声が聞こえます。家族はそれを、どのような思いをもって聞いたことでしょう。ああ、元気でいてくれていると安心して聞いたでしょうか? いや、おそらく、そうではない。日増しに凶暴さを募らせる彼の叫び声を、家族の者たちは、それこそ耳を覆いたい気持ちで聞いたに違いありません。彼が生きていることそのものが、家族にとっては忌まわしいことだったに違いありません。

そのような男が、今、主イエスの前に立っているのです。主イエスは一目みるなり、これが彼の本来の姿ではないことを見抜かれます。この荒れ狂った姿と異様な叫び声は、彼の本来の姿でも声でもない。何者かが彼にとりついているのだと見抜いてしまわれたのです。だから、主イエスは彼に「名は何というか」とお尋ねになりました。すると、不思議な答えが返ってきます。彼は一言、「名はレギオン。大勢だから」と答えたのです。

レギオンとは、どういう意味か? これは、じつはラテン語です。ということはローマ帝国で使われていた言葉です。しかも、ローマの軍隊の用語なのです。福音書に百人隊長という地位の軍人が登場します。この百人隊長は、読んで字の如く、百人の兵隊を指揮しています。それをセンチュリーと呼びました。ですから、皆さんが英語の聖書を開いて「百人隊長」のところをご覧になると「センチュリオン」という言葉が使われているのを発見されるでしょう。で、この百人の兵隊から成るセンチュリーが60集まって、一つの大軍団を組織すると、それが「レギオン」と呼ばれたのです。

ということは、どうでしょう。この男には6千にも及ぶ悪霊がとりついていたということになります。悪霊がひとたび人の中に入ると、仲間の汚れた霊を引き込みます。引き込んで、一緒に住むのです。悪霊同士で喧嘩になったり、いさかいが起きたりはしない。ヘンな言い方ですが、悪霊同士、けっこう仲良くやっている。利害が一致しているからです。一つの共通点があるからです。6千にも及ぶ悪霊の、ただ一つの共通点とは何か? それは、もう皆さん、薄々お解かりのことと思います。神に敵対することです。自分たちが中に入り込んだその人を神から引き離す。滅びに導く。それが悪霊のただ一つの共通点です。

皆さんは悪霊と聞いて、そんな荒唐無稽なもの、いるわけないと思われるかも知れません。昔の人々が考えた迷信だと言って一笑に付されるかも知れません。しかし、確かに、バイキンマンみたいな姿をした悪霊はいないかも知れませんが、神に敵対する闇の力というものは、確かに存在すると私は思う。人の中に入り込んで、その人を神から引き離す力は、あるのではないかと思うのです。この点については、主イエスご自身が、次のような譬え話を語っておられます。

「汚れた霊が人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。そこで『出て来た我が家に戻ろう』と言う。戻って見ると、家の中は掃除がしてあって、きれいに整えられていた。そこで霊は喜んで出掛けて行って、自分よりもたちの悪いほかの七つの霊を連れて来て、その人の中に入り込んで、一緒に住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりもさらに悪くなる。」

ユーモアに富んだお話のようにも聞こえますが、その教えるところは笑ってなどいられないほど深刻です。洗礼を受けて救われ、汚れた霊を追い出していただいたのです。嬉しいことです。ところが、汚れた霊というのは、出て行ったきりではない。必ず帰って来る。今まで入り込んでいた人のことを「我が家」と呼ぶほどですから、必ず帰って来て、様子を伺うのです。

ところが、せっかく救われたというのに、その人の魂は主人がいなかった。つまり、救われた人の主人となるべき聖霊が不在のままだった。聖霊の宮となっていなかったのです。主人が不在で、その上きれいに掃除までしてあるので、汚れた霊は喜び勇んで出掛けて行って、さらにたちの悪い汚れた霊を呼び込んでその人の中に住み着く。するとその人の状態は、救われる前よりもさらに悪くなるというのです。これは大いにあり得ることではないでしょうか。

悪霊というのは、人の中に入り込むのです。そしてその人を神から引き離す。そして罪の奈落へと突き落とそうとする。悪霊というのは目に見えるものではありません。自分だけで力を持っているものでもない。悪霊は悪霊だけだと無力な存在なのです。しかし、その無力な悪霊がいったん人の中に入り込むと、途端にその力を発揮する。その人を神から引き離す力を発揮していくのです。

この男の場合が、まさにそうでした。彼が主イエスに向かって言った言葉を思い起こしてください。彼は「かまわないでくれ」と言いました。ここは以前の口語訳聖書ですと「あなたは私と何の係わりがあるのか」となっておりました。じつは聖書の原文はもっと単純でして、「あなたはあなた、私は私」という意味の言葉になっています。あなたはあなた、私は私、お互い何の関わりも無いだろうというわけです。私は神様なしでやっていくのだから、関わらないでほしい、と、そう言ったということです。

いかがでしょうか? この言い草は、汚れた霊にとりつかれたこの男だけではない。今の日本の社会に生きている今時の若者と、恐ろしいほどの共通点を持っているのではないでしょうか? あなたはあなた、私は私。私は神様なしでやっていける。キリスト抜きで生きてもいける。

この男は家を飛び出しました。自分一人で生きていける。そううそぶいて自分一人で生き始めたかに見えるこの男が、じつは自分を喪失していたのです。自分一人でやっていくと言いながら、じつは我ならぬ汚れた存在に捕えられている。本当の自分を失っているのです。あなたはあなた、私は私と言いながら、家族と一緒に生きることも出来なければ、自分を愛することも出来ない。気がつけば、墓場を住みかとして生きている。墓場でしか生きることが出来なくなっていたのです。これは神なしで生きていけると思い込んだ人間のたどる道ではないでしょうか。そのような人間が、いかに恐ろしい力の虜になっているか。汚れた霊にとりつかれながら、自分一人で生きているように思い込んでいる。昨今、そういう人の、なんと多いことでしょうか。

しかし、主イエスは、そんな彼のもとにも来てくださいました。神の光が届かないとさえ思われた向こう岸にも、来てくださった。そして主イエスは汚れた霊にお命じになります。この人から出て行けとお命じになった。すると、どうなったか? 辺りにたくさんの豚の群れが餌をあさっていた。悪霊どもは、どうかこの豚の中に入らせてくれと願います。主イエスがそれをお許しになると、悪霊どもは我先に男から出て行って、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、ことごとく溺れ死んでしまった。

豚を飼っていた人たちは、この出来事を人々に知らせて回ります。この知らせを受けて、あるいは豚の群れが崖から湖になだれ込む音を聴きつけて、多くの人が集まってきたことでしょう。しかし、集まって来なかった人たちが、いた。誰でしょうか? そう、あの男の家族です。彼の家族だけは、やって来なかったでしょう。

人々がイエスのもとに来ると、悪霊を追い出してもらった男が、衣服を身に着けて、正気になって主イエスの足元に座っています。人々はビックリ仰天し、そら恐ろしくなって、主イエスに、どうかこの土地から出て行ってくださいと頼みます。主イエスは彼らに逆らうことをなさらず、舟に乗って帰ろうとされた。すると、悪霊を追い出してもらった人が、どうぞ私も一緒に行かせてくださいと懇願する。あなたのお供をしたいと願うのです。いや、ひょっとして、あなたの弟子にしてくださいという思いも、彼の中にはあったのかも知れません。ところが、主イエスの口から出た言葉は意外ともいえるものでした。主イエスは彼に向かって、こうおっしゃったのです。

「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

家族のもとに帰りなさいと言われたのです。家族のもと。それはこの男にとって、一番帰り辛いところであったかも知れません。それはそうでしょう。彼は家族の者を捨てて出て行ったのです。彼の家族にしても、彼を放り出したも同然だった。鎖で縛り、足枷をはめたのは家族であったことでしょう。その鎖、足枷を引きちぎって彼は出て行った。家族はそれを悲しんだだろうか? いや、そうではなかったと私は思う。心のどこかでほっと安堵する思いがあったのではないでしょうか。そして野山から荒れ狂う彼の叫び声が聞こえてくるたびに、まだアレは生きているのかという思いが密かに募ったことでしょう。だからこそ、町の人々が駆けつけて来たときも、彼の家族だけはやって来なかった。家に閉じこもって、出て行こうとしなかったのです。

ところが、主イエスはそんな家族のもとに、あなたは帰りなさいと言われる。なぜでしょうか? 一つの使命が与えられているからです。

「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

これは彼に使命を託しておられる言葉です。彼は使命を与えられて自分の家に、家族のもとに帰るのです。その有様をマルコは次のように記しています。

「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。」

この最後の「言い広めた」という言葉は、福音書の中では、主イエスと弟子たちだけに使われている言葉です。「宣教する」「伝道する」、あるいは「御言葉を語る」という意味のある言葉です。そういう特別な言葉が使われているところに、この男のこれからの歩みが象徴されています。

御言葉を語るとは言っても、おそらく彼は口下手であったと思います。人前で語ることも、そうそうは出来なかったかも知れません。しかし、彼の上に起こった主の御業は、彼の言葉ではなく、彼の全身全霊に現れていると私は思う。今や彼は、身をもって救いの尊さを物語っているのです。

悪霊にとりつかれていたとき、彼は言いました。あなたはあなた、私は私。あなたと私の間に何の関りがあるか。そう言って、彼は自分一人で生きているつもりだった。しかし、そのとき、彼は本当の自分を失っていました。悪霊に身も心も支配されていた。主イエスはそんな彼を憐れんで、彼の本来の姿を取り戻してくださったのです。そして、あなたはここから出掛けていくのだと言って、送り出してくださいました。使命を託して送り出してくださった。家族のもとに遣わしてくださったのです。人が一人救われるというのは、そういうことです。人が救われるというのは、彼の家族と無関係のことではないのです。キリストによる救いは、必ず、家族にも及びます。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われる。」

私たちは礼拝から家族のもとに帰ります。あれは、ただの帰宅ではなくて、遣わされて、御言葉を託されて遣わされているのではないでしょうか。もし、そうだとしたら、主イエスは私たちにも言っておられると私は思う。「家族のもとに帰りなさい。そして神があなたになさったことを、ことごとく話して聞かせなさい」と諭しておられます。その御言葉に送り出されて、それぞれの持ち場に遣わされて行きたいと切に願うものです。
今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

 

【予 告】
○次週の主日礼拝 2月16日 (日)午前10時半 降誕節第8主日
説教「あなたの信仰があなたを救った」 牧師 佐藤 誠司
聖書:箴言3章5~6節・マルコによる福音書5章21~43節
賛美歌(讃美歌21):83-1 60 493 512 28
○どなたの来会も心から歓迎しています。