聖書:創世記32章23~33節・マタイによる福音書4章1~4節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。」 (創世記32章11~12節)
「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」(創世記32章25~27節)
今日は創世記32章が伝えるヤコブの物語を読みました。ヤコブの物語は、もう何度か礼拝で取り上げましたから、ヤコブという人物のことは、皆さん、よくご存じのことと思います。ヤコブという人を考える時に、いちばん大事なことは何かと言いますと、この人は神様に選ばれて、祝福された人だということです。「私はあなたを祝福する」「私はあなたを見捨てない」「私はあなたと共にいる」という三つの約束の下にある人です。これが、ヤコブという人のいちばんの土台です。
創世記の28章、ヤコブが家を出て放浪の旅を続ける中、経験したこと。「私はあなたがどこへ行くにも、あなたと共にいる。決してあなたを見捨てない」という神様の祝福の言葉を彼は聞いた。これによってヤコブの人生は変わったのです。
キリストを信じたら私たちの人生は変わるとか、人が変わるとか、そういう話をよく聞きます。確かにそのとおりだと思います。イエス様を信じて、自分が神様に選ばれ、愛されている人間だと知る。それによって私たちの人生は変わる。それは確かな事です。けれども、それについて、私たちは少々誤解をしているところがあると思います。どういうことかと言いますと、大きな経験をとおして神様と出会い、私たちの人生が変わるということは、もうそれから後は悩みも疑いも無くなる、あるいは私たちの中にあった弱さや醜さが無くなって、動揺もしなければ疑いも無い、そういう信仰生活になるのだと、そういうふうに理解をしておられる方が多いのではないかと思います。
ところが、こういう考えでやっていきますと、自分の信仰生活の現実を見、自分という人間の姿を目の当たりにして、すっかり意気消沈してしまいます。きれいな心で生きていけると思っていたのに、どこか一人よがりと言いますか、自分さえ良ければ、それで良しとする古い生き方が、ひょいと頭をもたげて来る。そういう自分を見るにつけ、自分の信仰は本当に信仰とは言えないのではないかと思う。そういう悩みを持つ人は、案外多いのではないかと思います。ヤコブの物語は、そういう、人には言えない信仰者の悩みに、一つの回答を与えるものだと思います。
ヤコブという名前は「押しのける者」という意味があります。双子で生まれたのですが、お兄さんのエサウが先にお母さんの胎から出ようとするその時に、弟が兄のかかとを掴んでいた。それで彼は「ヤコブ・押しのける者」という名が付けられたのです。名は体を表すと言いますが、ヤコブの場合は、まさにそのとおりで、お父さんを騙したり、兄さんを出し抜いたり、叔父さんを騙したり、いろんなことをやっています。倫理的に言うなら、こんな人物がなぜ選ばれて、大きな祝福を受けるのか、納得できないという人が多いのです。
それに対して、兄のエサウは、少々おめでたい癇癪もちで、激怒すると何をしでかすか分からない面はありますが、竹を割ったようなまっすぐな性格です。エサウのほうが、よほど好ましい性格に思えます。ヤコブは、そういう兄の弱みに付け込んで、エサウがお腹をすかせてひいひい言っている時に、暖かい椀物を一つ御馳走するから、それで長男の権利を譲ってくれと言い寄って、まんまと長子権を手に入れた。
また、ある時は、兄のエサウが受けるべき祝福を、お父さんの目が薄いのを良いことに、エサウに成りすまして、祝福を盗み取ってしまう、なんてこともやってしまう。本当にいやらしい性格なのですが、こういういやらしさというのは、ひょっとして私たちの中にもあるのではないかと思います。
こう考えてみては、どうでしょうか。もし神様が、いかにもこの人なら神様は喜んで祝福してくださるに違いないと思えるような、模範的な人を選んで祝福なさったら、どうでしょうか。はたして、これは福音になるでしょうか。このヤコブのような問題の多い人を神様は選んで、いろんな失敗をしたり、悪いこともしっかりやっている。そういう人を神様は見捨てることなく、「私はあなたと共にいる。あなたを決して見捨てない。あなたを祝福する」と言ってくださる。そのことが「ああ、これはヤコブという人の話ではない。私のことなのだ」と心底気が付いた時に、このいやらしいヤコブの物語が福音を語る物語として燦然と輝き始めるのではないでしょうか。その意味で、ヤコブの物語は多少「落ちこぼれ」的な面のある私たちにとって、本当にありがたいお話であると思います。ですから、ヤコブに言われている言葉は、ヤコブという一人の人物に限られたことではないのです。その意味で、ヤコブという人は、神様と私たちの関係を代表して背負っていると見て良いと思います。
今日の箇所で、ヤコブが神の御使いから「お前の名は何というのか」と尋ねられるところがあります。彼は「ヤコブです」と答えています。何気ないやり取りのように見えますが、ここは心して読みたいところです。彼は「ヤコブです」と答えていますが、それは同時に「押しのける者です」と言ったことにもなります。そうしますと、神の御使いが「お前はもうヤコブではない」と言います。これも「お前はもう押しのける者ではない」と言ったことになる。聖書には、そういう二つの意味を同時に響かせるところが、いくつもあります。ここも、そうです。御使いは「あなたはもうヤコブではない」と言ったのですが、そこにもう一つ「あなたはもう自分を押しのける者と言ってはならない」という驚くべきメッセージを響かせているのです。
「あなたはもう自分のことを『押しのける者』と言ってはならない。あなたは今日からはイスラエルと名乗りなさい。」
イスラエルというのは「神が支配したもう」という意味があります。このイスラエルの名の下に、聖書の信仰というものが育まれてきたという事実があります。ですから、キリスト教がユダヤ教と決別した時、キリスト教は「イスラエル」の名を捨てなかった。捨てるどころか、キリスト教会は自らを「新しいイスラエル」と呼びました。
さて、ヤコブの生き方ですが、彼は荒野の旅の中で決定的な経験をしました。「どんなことがあっても、私はあなたを捨てない」という神様の約束を受けたのですが、だからと言って、それから後ヤコブが人を騙したり、ずるい策略を弄したりしなくなったかというと、じつはそうではない。まだまだやっています。人間というのは、そう急に変われるものではないですね。叔父さんを騙していますし、その叔父さんに騙されてもいます。お相子です。
そんなヤコブが神様から示されて故郷のベエルシェバに帰ることになった時、彼がぶつかった問題があります。それは、かつて彼が裏切って騙した兄のエサウに会わなくてはならないという問題でした。これはまさに自業自得で、自分で蒔いた種であって、ヤコブが決して避けては通れない関門です。その時、彼がどのように行動したかというと、神様が示された道なのだから、神様に委ねて行けば良い、神様が良いようにしてくださると信じて行ったかというと、決してそうではない。
では、どうしたかと言いますと、兄さんのもとへ使いを遣って、今からあなたの僕ヤコブは帰りますと伝えさせた。そうしますと、エサウは400人の家来を連れて迎えに行くというのです。これを聞いたヤコブの反応が面白いと思います。400人も連れて来るということは、これはきっとかたき討ちに来るに違いない。兄さんはやっぱり怒っているのだと、ヤコブはそう考えた。人間、心にやましいことがあると、そういうマイナス志向の考えに囚われるのですね。兄さんは、攻めて来るとも何とも言ってないのです。ところが、ヤコブは兄さんが自分を攻め滅ぼすために来るに違いないと受け止めた。そこで彼は、家族と財産を二つに分けて、こっちがやられたら、その隙に自分はあっちへ逃げようと算段します。
しかし、それなら、ヤコブは普通の人間のように算段や方策だけでやったかと言うと、そうではない。32章の9節以下を見ますと、彼はこう祈っているのです。
「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。」
こう言って、彼は今まで神様から受けて来た恵みを心から感謝して、神様を賛美しています。私は、これは大事なことだと思います。そして次に、彼は、兄に会わなければならないこと、兄が攻めて来るかもしれないこと。そういう悩みを正直に打ち明けています。私は、この祈りも、ヤコブの真実の姿を映し出していると思います。ヤコブという人は、人間的な、決して褒めることの出来ない算段をする、策を弄する。その一方で、神の恵みに感謝して、正直に弱さをさらけ出し、助けを乞い願う。この際立った両面こそが、彼の真実の姿なのではないかと思います。
ところが、その祈りの後で、ヤコブはまたもや策を弄します。エサウの怒りを鎮めるために、おみやげをどっさり用意するのです。しかも、ヤコブは、そのおみやげを一度には出さない。おみやげをいくつもの組に分けて、間を置いて、一組ずつ出して行く。そして、エサウが来てこの立派な家畜の群れに目を留めると、「これはあなた様の僕ヤコブのもので、ご主人のエサウ様に差し上げる贈り物です」と僕に言わせる。間を置いて、次のおみやげがやって来ると、同じことを僕に言わせる。こうして、おみやげを受け取るたびに、エサウの怒りも鎮まり、和んでくれるだろうと、なかなかうまいこと考えますね。これもヤコブらしい、人の心を知り尽くした見事な算段だと思います。
ところが、その後です。いよいよヤボクの渡しを渡る。家族も、家畜も、僕たちも皆、渡らせた。残ったのはヤコブだけ。この川を渡れば、もうそこはエサウの土地です。あと一歩なのです。しかし、どうしても渡れない。お祈りもした。いろんな手も尽くした。やるだけの事はやった。しかし、どうしても不安が残る。
「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」と書かれています。この「格闘」というのをどう読むかが問題ですが、私はこれはやはり祈りだと思います。ここを取り上げて、ヤコブを熱心な祈りの模範のように語る人もいますが、私はさすがにそれは誉め過ぎだと思います。ヤコブの不安が、それほどまでに大きかったのです。その不安に押しつぶされそうになった時に、彼は「私は押しつぶされそうです。今、あなたが私に祝福の言葉をかけてくださらないと、どうにもなりません。だから主よ、お言葉をください」と言って、必死に食らいついているのが、この格闘の真実です。だから、ヤコブは最後にこう言いました。
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
このヤコブの姿を私たちが見る時に、私たちは、自分の信仰生活の生の姿がここにあると思い当たるのではないかと思います。キリスト者はかくあるべし、というような模範を示しているのではない。模範どころか、様々な問題を抱えて、破れの多いヤコブの失敗談が、これでもかとばかりに出て来る。
しかし、そのヤコブの生き方をとおして見えてくるのが、神の真実です。神の真実というのは、一度捉えた相手を決して見捨てない。見捨てないというのは、放置することではありません。祝福して、ヤコブを捕らえて離さない。そうしてヤコブを鍛え上げ、御自分の恵みを映し出す鏡のような人間にしていく。私が神学生だった頃、東京神学大学の学長をしておられた松永希久夫先生は、よく授業で脱線をして、ご自分の失敗談を聞かせてくださいました。そして、最後は決まって、こうおっしゃった。
「諸君は、こういうことのないように気をつけなさい。ただ、伝道者は破れがあったほうが良い。伝道者は破れ提灯のようなもの。破れ目から、キリストの光が煌々と周りを照らせば、それで良いではないか。」
破れ目からキリストの光が煌々と輝く。伝道者だけではありません。私たちの破れの多い人生から、キリストの光が輝き渡る。そういう歩みを、この年も送りたいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
1月12日(日)のみことば
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(旧約聖書:創世記2章7節)
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(新約聖書:第二コリント書4章7節)
今日の新約の御言葉の「土の器」とは土の塵で造られた人間の体のことでしょう。その卑しい器の中に神様は宝を盛り込んでくださったのだとパウロは言うのです。卑しい器の中に尊い宝が盛られている。この宝は人間の中に本来あったものではない。神様から与えられたものです。だから、パウロは続けてこう言っております。
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
創世記に戻りますと、神様が命の息を吹き入れてくださった。それによって人は生きる者となったとあります。この「生きる者になった」というのは、ただ単に生物的な意味で生きるようになったということではありません。神の呼びかけに応え得るようになったということ。平たく言えば、神様に返事が出来るようになったということです。神様の呼びかけに返事が出来る。これは神様と真向き合いになっている、ということです。