聖書:出エジプト記16章1~7節・マルコによる福音書7章1~13節

説教:佐藤  誠司 牧師

「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、空しくわたしを崇めている。」あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』」 (マルコによる福音書7章5~8節)

この日に与えられた御言葉は、マルコ福音書第7章の、イエス様とファリサイ派の人々との論争を記した御言葉です。福音書には、論争物語という一つのジャンルがあります。主イエスと論敵となる人々との激しい論争が記された物語ですが、多くの場合、その論敵となったのがファリサイ派の人々でした。

どうしてこの両者は対立したのかと言いますと、ファリサイ派の人々というのは、言ってみれば、律法の番人としての役割を担っておりました。そこへ、大胆に律法を破って自由に振舞うイエス様の噂が聞こえてくるものですから、エルサレムにいるファリサイ派の偉い人たちは、主イエスの存在を大変に問題視しまして、何人かのファリサイ派の人々が監視のためにエルサレムからガリラヤに派遣されてきたのです。

それが今日の論争物語の発端です。この人々は最初から主イエスの行動を監視して、エルサレムの当局に報告するのが目的ですから、衝突は非常に早い時期に起こったと思われます。きっかけとなったのは、今の私たちから見れば、たわいもないと言いますか、じつに些細なことでした。それは食事の前に手を洗うか洗わないかということだったのです。エルサレムから来たファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのを目撃し、これを咎めたのです。5節に、ファリサイ派の人々の言葉が記されています。

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

弟子たちを咎めているようですが、もちろん、彼らは弟子たちではなく、弟子たちの背後におられるイエス様を批判しているのです。その点、ファリサイ派の人たちの批判は当たっておりまして、イエス様というお方は、律法から全く自由に、律法に捕らわれない生き方をしておられたのです。イエス様は彼らに向かっておっしゃる。

「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、空しくわたしを崇めている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

何が争点になっているのでしょうか。ファリサイ派の人たちは、何も食事の前に手を洗わないのは不衛生だと言って咎めているのではない。彼らが問題にするのは、そういう衛生面のことではなくて、清いか清くないか、汚れているか汚れていないかという宗教的なことなのです。それは彼らが使った言葉を見れば、分かります。彼らは「なぜ汚れた手で食事をするのか」と問いましたが、この「汚れた」という言葉には不衛生とか不潔という意味は全くありません。この言葉はそういう意味ではなく、「日常使い」という意味があった。

どうして「日常使い」という言葉が「汚れた」という意味を持つようになったかと言いますと、律法に厳格なファリサイ派の人々は、神様のために使う物と日常使いの物を厳しく分けたのです。例えば、お供え物に使うお皿と、日常使いのお皿は全く別にする。日常生活の中では、どうしても世俗のものと触れてしまう。それを避けて、礼拝で使うもの、神様のために使うものと日常使いのものを厳しく分けた。一番有名なのは、エルサレム神殿で献金に使う貨幣です。当時のユダヤはローマ帝国の属国でしたから、一般にはローマ皇帝の顔が刻まれたローマの貨幣が日常使いのものとして通用していたのですが、ファリサイ派の人々は神殿当局と結託をしまして、ローマの貨幣を神殿への献金とすることを固く禁じたのです。

このように、日常使いのものを汚れたものと見る。そして神様のために用いるものを清いものと見る、という考えが定着しました。そうしますと、この考えは、ますますエスカレートしまして、物だけではなく、人間にまで応用されるようになっていきます。つまり、日常使いの世俗の人間と神様のことに専念する人間を厳しく分離し、前者を「罪人」と呼び、自分たちを「聖なる者」と呼んだのです。

なぜ、このようなことが起こるのか? 人の目を気にするからです。あの人は汚れた生活をしていると後ろ指を指されたくない。手を洗わないでいるのを見られたくない。こうして、神様の眼差しよりも、人の目を恐れるという、本末転倒が起こったのです。だから、この後、13節で、イエス様は「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」と厳しい口調で彼らを批判しておられる。神の言葉を無にしているのです。「神様、神様」と口では言いながら、神様の言葉よりも自分たちの言い伝え、自分たちの思いを優先している。主イエスの批判は、そこに向けられている。どうして、そういうことになってしまうのか、というと、この人たちは、見えるものによって歩んでいるのです。目に見えるものしか見ていない。だから、人の目が気になるのです。大事なのは、見えないものを見ることです。

今日は出エジプト記の16章の物語を読みました。神様がモーセを指導者にお立てになって、イスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださいます。すると、エジプト軍の追っ手が戦車に乗って追いかけて来ます。イスラエルの人々の中にはお年寄りや子供たちもいますから、走って逃げるわけにもいかない。向うは海、後ろは追っ手のエジプト軍。そういう絶望的な状況の中で、モーセは動転する人々に向かって「恐れることはない」と言う。どうしてかと言うと、モーセはこう答えるのです。

「主が今日、あなたがたのためになされる救いを見なさい。」

モーセ以外の人たちは、今自分たちに迫っている死と滅びを見て、おののいています。これはまさに事実ですね。このまま行けば、自分たちは死んでしまう。これは火を見るよりも明らかな事実です。その意味では、イスラエルの人たちが見ていたものは間違ってはいない。モーセだって、同じものを見ています。けれども、モーセは、迫り来るエジプト軍だけを見ていたのではなかった。もう一つ、見えないものを見ているのです。さあ、モーセが見ていたものとは何か。それはイスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださった神様のご計画というものを、モーセは見ていたのです。これは大事なことです。ここでイスラエルの人々を全滅させるくらいなら、神様は何もこの人々をエジプトから救い出すはずはない。必ず救いの道を開いてくださるに違いない。モーセも迫り来る敵という現実を見ていないわけではないのです。しかし、それを超えて、もう一つ、見えないものを見ているのです。そして、イスラエルの人々を救ったのは、見えるものではなくて、見えないものでした。

ファリサイ派の人たちが陥ったのは、目に見えることばかりを気にして、見えないものをないがしろにしたことです。神の言葉よりも自分たちの思いや信念を優先したことです。回りの状況がいかに絶望的であっても、「神様が共にいてくださる」。そのことだけは見失わないで、望みを持って生きる。パウロは「せん方つくれど、望みを失わず」と言いました。そのパウロが、第二コリントの4章18節で、こういうことを述べております。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

パウロは、この言葉を述べた後で、こう付け加えています。

「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。だから、わたしたちは心強い。」

これを見ますと、信仰によって歩むというのは、目に見えないものに望みを置いて生きることなのだ、ということが分かりますね。

私たちは信仰生活の中で、じつに様々な問題に出会います。目の前は海、後ろは追っ手の戦車といった絶望的な場面に遭遇することもあるでしょう。「もうダメじゃないか」と思うこともあると思います。しかし、その時に大事なのは、「信仰によってその問題を受け取る」ということです。パウロは「私たちは、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言いました。「だから、私たちは心強い」とも言いました。

あのイスラエルの人たちが、なぜ迷ったり行き詰ったりしたかと言うと、見えるものに左右されて生きているからなんです。ファリサイ派の人々も、そうでした。自分が見ているところは、こうだ。ここがこうなっている。だからダメだと決め付けてしまう。そのとおりなんです。確かに見えるところは、そうなんです。今の私たちの教会も、そうですね。今の会計状況がこれこれこうだから、これだけのことしかできないと。そのように考えるのは目に見えるところによって歩んでいる、ということです。世間一般の団体と少しも変わらない。確かに、見えるところから判断したら、そのとおりなんです。しかし、それで良いのか、ということです。

自分を見つめることが大事だとよく言われます。私たちも自分を見つめます。厳しく見つめます。しかし、目に見える自分だけを見てたら、ダメなんです。信仰生活をしていますと、本当の自分というものが見えるようになってきますね。確かに、自分の弱さや欠点が見えてきます。それは、まあ、人間としての、一つの成長だと思います。誠実な人、真面目な人ほど、自分を厳しく見ています。けれども、そういう、目に見える自分だけを見ていたら、どうでしょう。「もう俺はダメだ」と、そこにしか行き着かないです。しかし、目に見えるところによらず、信仰によって歩むことが大事です。神様が必ず道を開いてくださる。そこを信じ抜くことです。

神様というお方は、私たちが想定することが出来る可能性の中から、「はい、これですよ、ここを行きなさい」と道を示してくださるのではない。全く予想もしない道が隠されている。あの断崖絶壁に追い詰められたイスラエルの人たちが、海の底に道があることを想定したでしょうか。そんなものは考えられない。本来あるべきではない所に、神様は道を付けた。私たちが信じている神様とは、そういうお方。これを肝に銘じていただきたい。ですから、パウロは「せん方つくれど望みを失わず」と言いました。せん方尽きた。そう思って観念した時に、そこから私たちの信仰と祈りが始まって行く。私たちに与えられた信仰というのは、そういう信仰です。

可能性がまだ残っている時に、救いを信じても、それはたいしたことではないのです。パウロがアブラハムの信仰について語った時、どう言いましたか。そう、「望みの無い時に、なおも望んで信じた」と言ってますね。これが天地の造り主を信じる信仰の中身です。ここが突破できたなら、あとはもう向かうところ敵無しです。もう私たちが進む道の向うに、私たちを妨げるものは何も無い。ということは、どういうことかと言いますと、詰まるところ、私たちにとって一番の問題は、私たちが信じられないでいる、ということです。信じられないから、見えるものが心配になる。

私という人間がどういう人間であるかを問題にするのではなくて、そんな私にイエス・キリストが何をしてくださったか、何を約束しておられるか。そこなんです。私たちが見るべきなのは。ここだけは、いわゆる肉眼の目では見えません。信仰の目をもって見ないと見えてはこない。聖書は何と言ってますか。イエス様は私たちの罪を贖うために十字架についてくださったと、そう聖書は語っている。

ということは、どうですか。私たちはイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのだ。だから、私たちは一度死んだ人間です。死んで新しく生まれ直した人間です。聖書はそういうふうに言っておりますね。けれども、私たちは、目に見える自分を見て、死んだとか死んで生まれ直したとか、そういう夢物語は信じられないと思う。信じられないというのは、言い換えると、目に見えるものに左右されているということです。皆さん、教会生活をしていても、ああ、この人、目に見えることだけで判断してるな、と思うことが、ありますね。私たちが信仰生活に行き詰るのは、大抵、ここが原因です。自分の目で、目に見える自分を見る、あるいは自分の教会を見る。御言葉を通して見ることをしないから行き詰るのです。問題にぶつかったら、心を鎮めて考えてみることです。この問題について聖書は何と言っているか。神様は何を約束しておられるか。それを、いつでも見るのです。聖書は「あなたの罪は赦された」と言っている。「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられる。そりゃあ、肉眼で自分を見たら、自分はやっぱり罪を犯しているし、欠点だらけの人間です。確かにそう。だから、自分は汚れていると思ってしまう。しかし、聖書は何と語っているか。

「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない。」

これなんです、大事なのは。私たちは自分で勝手に「自分は清くない、汚れている」と決め付けます。確かに、目に見えるところを見たら、お世辞にも清らかとは言えない。しかし、神様は清めておられる。そのことが本当に見えてくるのは、まだまだ先のことかも知れません。しかし、もう私たちは既に、神様の御前に清いものとされている。既にそうされている、というのが聖書のメッセージですね。それを「ありがとうございます」と言って受け取るのです。
イエス様が教えてくださったお言葉に「天の国はからし種のようなものである」というのがありますね。からし種というのは、本当に小さい。しかし、どんなに小さい種の中にも、命がある。大きく成長するという約束が詰まっている。小さなからし種が、やがて実を結ぶようになる。

私たちが神の子であるというのは、それとよく似ています。私たちが何の勲も取柄もないのに、神様の子供とされているというのは、イエス様が十字架についてくださったときに、種が蒔かれているのです。もう種が蒔かれている。私たちの中で、その天国の種が育っているのです。教会がよく苗床に譬えられるのは、そういう理由があるからです。

「わたしたちは、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。だから、わたしたちは心強い。」

もう目に見えるものに左右される生き方はよしましょう。信じて歩む生き方に乗り換えましょう。この信仰の種、天国の種が私たちの中で、また福井神明教会の中で豊かに育ち、多くの実を結ぶように、主の祝福と導きを祈り求めていきましょう。
今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

 

 

 

【予 告】
○次週の主日礼拝 3月29日 (日)午前10時半 四旬節第5主日
説教「何があなたを汚すのか」 牧師 佐藤 誠司
聖書:詩編32編1~11節・マルコによる福音書7章14~23節
賛美歌(讃美歌21):83-1 575 90 303 29
○どなたの来会も心から歓迎しています。