聖書:創世記1章1~19節・ヘブライ人への手紙11章1~3節

説教:佐藤 誠司 牧師

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」(創世記1章1~4節)

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです。」(ヘブライ人への手紙11章3節)

 

 

1月から使徒信条による説教が始まりまして、今日が三回目です。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とあります。このように、使徒信条は「神を信じる」と言う前に、その神はどのような神であるのかを明確に述べています。これは日本人の宗教観には本来無かったことです。

古来、日本では「鰯の頭も信心から」とか「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と言うように、何を拝むのか、どなたを信じるのかが不明瞭なまま、ただ有難く、かたじけなく思う。いや、むしろ不明瞭なほうが、有難さが増してくる。そういう感覚があるように思います。日本人は神様はどういうお方かという一点を曖昧にしたまま神様を信じることを大事にする。そういう精神風土があるのでしょう。

しかし、使徒信条は、そうではない。「我は天地の造り主」を信じるのだと明確に述べています。そこで今日は、私たちが天地の造り主を信じるとは、どういうことか。そこを丁寧に見ていきたいと思います。

先ほど、日本人の宗教観についてお話ししましたが、振り返ってみれば、私たちも、かつては同じような曖昧な神観・宗教観を持っていたと思います。私の場合、漠然と神様を信じたいという思いはあったのです。しかし、神様とはどういうお方かという肝心要が空白と言いますか、空洞状態なのです。そんな私が教会の礼拝に出て、初めてやらされたのが使徒信条の告白でした。私が行った教会は毎週聖餐式のある教会でした。聖餐式は洗礼を受けた人だけが与るのだと言われました。ですから、聖餐式の後で行われた信仰告白も洗礼を受けた人だけがやるものだと思ったのです。ところが、牧師がこう言った。

「皆さん、お立ちください。皆で使徒信条を告白します。」

こうして使徒信条の告白が始まりました。この時の衝撃は今も忘れることが出来ません。左右にいる人も、後ろにいる人たちも、使徒信条を告白しています。それと同じ言葉を、今日初めて礼拝に来た私も告白している。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白している。なんということか。これはほかの所では絶対に起こり得ない。教会とはまことに不思議な所だと思ったことでした。

それでは、神は「天地の造り主」だと信じて告白することには、どのような意味があるのでしょうか。皆さんが聖書を開いてご覧になると、すぐに気が付くのは、聖書には旧約と新約がある、ということでしょう。旧約はユダヤ教の正典なので、キリスト教は旧約を捨てても良かったはずなのに、キリスト教は旧約を捨てなかった。どうしてでしょうか。

旧約聖書は創世記から始まります。旧約聖書は何よりも神が天地の造り主であられることから語り始めます。こうして、造り主なる神を語る旧約聖書が新約聖書の前に置かれているという事そのものに深い意味があると思います。どういうことかと言いますと、新約聖書が語る救い主なる神に先立って天地の造り主なる神が語られている、ということです。で、造り主なる神を知ることと、救い主なる神を知ることは、切り離すことが出来ない。この二つが一つになって初めて、聖書が語る神様が明らかに示されるわけです。

では、天地の造り主なる神をまず語ったことによって、いったい何が示されるのか。それは聖書全巻を貫く神と人との関係の基本、土台がここにある、ということです。天地の造り主なる神が語られることによって、まことの神が示されるだけではなく、人間とは本来、何者であったのか。何者であるべきなのかが示されるのです。

創世記1章の最後に何が書かれているでしょうか。そう、神がお造りになったすべてのものをご覧になった様子が、次のように語られています。

「見よ、それは極めて良かった。」

これが神と人間の間に本来あった平和です。ヘブライ語でシャーロームと呼ばれる平和です。この平和を土台として、人間は神との祝福された関係を生きていくはずだったのです。

ところが、ヘビの誘惑に負けて、人間はこのシャーロームの平和を失ってしまいます。その結果、アダムとエバは楽園を追放されるのですが、シャーロームの平和・神の祝福を失ったのは、じつは人間だけではなかった。創世記3章の17節に、神様がアダムに言われた言葉が記されています。

「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。』」

人間の罪の故に土が呪われるものとなったのです。土というのは大地のことですから、人間の罪のせいで大地の被造物すべてが呪われる存在になった。平たく言えば、自然界・被造物が人間の罪のとばっちりを受けたということです。「とばっちり」なんて俗っぽい言葉は聖書にふさわしくないと思われるかもしれませんが、じつは、このことが聖書の自然観と人間観に大きな影響を与えており、さらに現代の文明に対する深い示唆を与えています。

使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙の8章に、注目すべき表現が出て来ます。「被造物は虚無に服している」という言い方をパウロはしているのです。そこを読んでみます。ローマ書の8章20節です。

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるのではなく、服従させた方の意思によるものです。」

被造物というのは、言い換えますと自然ということです。じゃあ、自然が虚無に服するとは、どういうことかと言いますと、先ほどの神がアダムに言われた言葉を思い起こしてください。人間が罪を犯したことによって、その人間を取り巻く自然もまた人間のとばっちりを受けて、悲惨な状況に貶められた、ということです。

人間が罪のゆえに虚無に服したというのは、神のご意思によるのであり、いわば自業自得の面があります。それに対して自然が虚無に服したというのは、同じく神のご意思によるものですが、人間のとばっちりでもあるわけです。これは自然にしてみれば、まことに心外と言いますか、憤懣やるかたなしの状態です。

例えば、こういうことがあります。今の世が、まさにそうですが、人間が戦争を起こします。戦争というのは非常に大きな罪ですが、戦争が起こりますと、人間同士が殺し合うだけではおさまらずに、人間を取り囲んでいる自然も人間のとばっちりを受けて破壊され、悲惨な状況に置かれてしまいます。戦争だけではありません。核実験による自然破壊は、はかり知ることの出来ないものがありますし、地球の温暖化がもたらす悲惨状況は、もはや止めることが困難な状況です。これがパウロの言う被造物の虚無状態です。

ここで私たちが注目するのは、自然破壊や公害というのは、地球規模から見れば、ごく最近のことです。ところが、パウロが、人間の罪のとばっちりを受けて自然が虚無に服していると指摘したのは、2千年前のことです。2千年前に、パウロはすでに自然の虚無状態を指摘していたのですから、これは凄い事だと思います。しかも、パウロはこれを、自然科学の学者として指摘したのではなく、「天地の造り主なる神」を信じる信仰に立って洞察した。私たちは、そこに注目したいのです。

ですからパウロは、自然の虚無状態を指摘するだけでは終わっていません。続けて希望を語っています。ローマ書の8章21節です。

「同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

何を言っているかと言うと、人間のとばっちりを受けて虚無に服した自然も、その滅びの縄目から解放されて、救いに入れられる望みがあるのだとパウロは言うのです。それは人間が救われることに伴って起こります。つまり、自然が虚無に服したのも、人間のお相伴だったわけですから、自然が救われるのも、人間の救いを前提としているわけです。その時の到来を、自然はうめきながら待っている。産みの苦しみを味わっているのだとパウロは言うのです。

このパウロの洞察を支えているのが「天地の造り主なる神」を信じる信仰です。今はそれほど多くはないかもしれませんが、昔はクリスチャンはよく「あなたが信じる神様とは、どういうお方ですか」と尋ねられたものです。その時に、私たちは周りのものを指さして「あれをお造りになった方、これもお造りになった方、すべてをお造りになった方です」と答えることが出来る。そう思って聖書を開いて見ると、どうでしょう。天地の創造は、創世記だけでなく、詩編をはじめ、様々なところに出て来ることに、改めて気が付きます。しかも、その多くは造り主への賛美・歌として出て来るのです。作り主への信仰は歌にならざるを得ないのです。これは大きな特徴です。

そして、特徴といえば、こういうことがありました。昨年の7月、栄冠幼稚園の礼拝での出来事です。この月、栄冠幼稚園は創世記の1章1節の御言葉を暗誦聖句にして、礼拝も天地創造のお話をしました。その時、私は子どもたちに質問をしました。

「みんなは最近、何か作ったものはありますか。」

答えがすぐに返って来ました。

「お家を作った。」

お家を作った子どもがいたのです。もちろん、これは積み木のお家です。私は彼に重ねて尋ねました。

「お家を作りながら、何を考えてましたか。」

この問いかけに、彼はこう答えたのです。

「みんなが仲良く暮らせますようにと思いながら作った。」

これはまさに天地創造の心だと私は思いました。造るという営み、創造という営みには願いが込められている。みんなが仲良く暮らせますように。みんなが平和に暮らせますように。つまり、シャーロームの願い、平和を願う御心が、創造には秘められていたのです。

この平和の願い、神様の御心を打ち明けられて知っているのは、じつは人間だけです。創世記の1章28節に、こう記されています。

「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

人間は確かに、あらゆる被造物のいちばん上に置かれた存在です。しかし、それはお山の大将ではない。人間の上には造り主なる神がおられる。人間が被造物のいちばん上に置かれたことの背後には、神様の願いがあるのです。「支配せよ」と言われていますが、この「支配」というのは好き放題に支配することではなく、むしろ「世話をする」という意味がある。上におられる神様の願いを知って、それを下にいる被造物のせわをする営みの中で実現をしていく。それが人間なのだという考えが聖書にはあって、それをスチュワードシップと言います。スチュワードというのは執事のことです。主人の願いを正しく理解して、それを部下たちの働きに反映させていく。そのための中間管理職のことです。自分たちの知恵と技術で何でも出来る。もはや不可能なことはないと思い上がっている人間の、本来の姿は、ここにあるのだと思います。旧約のヨブが最後の最後にたどり着いたように、人間は神の前にもっと謙虚であるべきと私は思います。

「天地の造り主なる神」を信じる信仰について述べる際に、どうしても外せないことが、一つ、あります。それを語っているのが、今日読んだヘブライ書の11章の御言葉です。3節を読んでみたいと思います。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです。」

美しい自然、壮大な自然を見て、ああ、神様がこの世界を造られたのだなあと感嘆の声を上げて納得するのは、たやすい事なのです。しかし、私たちも経験したように、時に自然は私たちに牙をむきます。目に見えているのは悲惨な状況であり、厳しい現実です。その目に見えるものの背後に、何を見るかが問われています。見えているものの根源に、神の働きがある。それを私たちに告げているのが神の言葉だとヘブライ書は語る。私たちが目で見て望みを失うような、これらすべてのものの造り主が神であることを告白する。ここから「天地の造り主なる神」を信じる信仰が新たに始まって行くのだと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月2日(日)のみことば

「あなたの神、主は憐み深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすこともない。」(旧約聖書:申命記4章31節)

「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(新約聖書:ルカ福音書22章61~62節)

今日の新約の御言葉に「思い出す」という言葉が出て来ます。私たちも日常会話でよく使う言葉ですが、私はここに、今日の御言葉の急所があるように思います。主の眼差しの中で、ペトロは思い出した。主のお言葉を思い出すことが出来た。この「思い出す」とは、どういう意味なのでしょうか。私たちが日常生活で使う「思い出す」という言葉は、あくまで記憶に関わることです。しかし、ルカがここに使っている「思い出す」という言葉は、そういうレベルを超えている。

確かにこの言葉も、過去の言葉や出来事を現在化することではありますが、その際に記憶のレベルを超えるのです。記憶ではなくて、今の生き方に関わることとして聞く。主の御言葉を思い出すとは、過去に語られた御言葉を、過去の出来事として回顧するのではなく、今の自分の生き方への語りかけとして聞くことです。主が今の私の生き様、生き方に向かって語っておられる。耳で聞くのではない、生き方で聞く。主イエスを三度「知らない」と否認した生き方、そうすることしか出来なかった生き方で主イエスの御言葉を現在化して聞いたとき、ペトロは真に主の御言葉を聞くことが出来たのではないかと思います。