聖書:イザヤ書44章21~22節・コリントの信徒への手紙二6章14節~7章1節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣合いなくびきにつながれてはなりません。」(コリントの信徒への手紙二6章14節)

「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(コリントの信徒への手紙二7章1節)

使徒パウロがコリント教会の人々に書き送った手紙を読んでいますと、「あなたがたは神(聖霊)の神殿とされている」と述べているところが目に止まります。ところが、コリント教会の人々はそれが解らない。そこで、パウロは、手紙の中で繰り返し「あなたがたは神殿なのだ」と語ることになります。第一コリントの6章19節以下には、次のような言葉があります。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

「口を酸っぱくして言う」という言い回しがありますが、パウロはまさに口を酸っぱくして「あなたがたは神が宿ってくださる神殿なのだ」と繰り返し語っています。これは、逆に言えば、これがコリント教会の人々のアキレス腱と言いますか、この人々に最も欠けていた視点だということです。そこで、パウロは、コリント教会に宛てた第二の手紙でも、同様の趣旨のことを語っておりまして、それが今日の箇所になります。その今日の箇所の冒頭で、パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣合いなくびきにつながれてはなりません。」

なぜ、つながれてはならないかというと、あなたがたは生ける神の神殿だからというわけで、ここに神殿が出て来るのです。

皆さんは「くびき」というものをご覧になったことがあるでしょうか。これは農機具の一つで、二頭の牛を一緒に耕作に使うときに、二頭が勝手な動きをしないように、首のところでつなぐ横木のことです。

ですから、信仰のない人々と不釣合いなくびきにつながれてはならないというのは、そういう二頭の牛の動きになぞらえて、私たちが信仰のない人々と同じ動き、同じ考え方をしてはならないと、パウロは警告を発している。それはなぜかと言うと、私たちは生ける神の神殿だからと言うのです。

私たちキリスト者が神の神殿だと言う場合、何を言っているかと言いますと、私たちの中に聖霊が宿っていてくださるということを言っております。ですから、私たちは聖なる神殿、聖なる存在です。ですから、そこに入って行けるのは一般人ではなくて、ちゃんと聖別された祭司だけが神殿に入ることを許される。だから、信仰のない人たちと同じくびきでつながれてはならないと、そういうことをパウロは言っているわけです。

まあ、これは話の筋道としては、よく分かるのです。しかし、皆さんの中には、ここをお読みになって、「おや」っと思われた方もいらっしゃると思います。普段パウロが言っていることと違うのです。パウロといえば、信仰義認ということをやかましく言います。ローマ書やガラテヤ書で、彼がそれこそ口を酸っぱくして語っているのは「私たちが義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」ということだったはずです。それが、ここでは、どうでしょう。7章の1節では「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」ということを言っております。これは明らかに、いつものパウロではない。どうしてこんなことを言うのだろうと、疑問に思われた方もおられると思います。

この疑問については、義とされるとか、罪が赦されるということが、いったい、何を意味しているかということを、今一度、考えてみる必要があると思います。どういうことかと言いますと、義とされるとか、罪が赦されると聞きますと、私たちはすぐに、裁判で無罪の判決をいただくことに似ていると考えてしまいます。無罪放免という言葉があるように、無罪判決が下りますと、もうあとは自由の身。何をやっても文句を言われる筋合いはありません。もう裁判官とも裁判所とも縁が切れてしまうわけです。無罪判決をもらった側も、もう二度と裁判官とお付き合いしようとは思いません。裁判官とは一切、関わりが無くなる。それが無罪放免の無罪放免たる所以でしょう。

しかし、罪赦されて義とされるということは、もう出て行ってよろしい、あなたは無罪放免だ、もう勝手にやってよろしいということではない。無罪放免で裁判官との関係が切れたように、神様との関わりが切れるわけではない。むしろ、神様との新しい関係が、ここから始まる。神の子とされて、もうあなたは私の子として歩むのだよと言われて、新しい関係に入る。そういう意味で、義とされるというのは勘当を解かれるようなものです。今どき、我が子を勘当する親も少ないかも知れませんが、昔の親はよく愚かな子どもを勘当したものです。「もう二度とウチの敷居はまたがせんぞ!」という決まり文句がありました。これで親子の縁が切れたわけですが、子どもが悔い改めると、勘当が解かれたのです。そうしますと、親と子の関係が修復されて、もう一度始まる。しかし、それは、かつての関係がそのまま復活したのではなくて、修復された新しい関係が、ここに始まる。それが、人が罪赦されて義とされるということの本質です。

ですから、ここでパウロが言っていることは、どういうふうにして神の子になるかとか、どうしたら神の子になれるかとか、そういうことではなくて、罪赦されて神の子とされた者がどのように生きて行くか、そういうことをパウロは問題にしているわけです。この関係を見事に言い表した言葉がエフェソの信徒への手紙にあります。エフェソ書の2章8節以下の御言葉です。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」(エフェソの信徒への手紙2章8~10節)

いかがでしょうか。いかにもパウロらしい言葉ですね。言われていることは明瞭です。私たちが救われたのは全くの恵みによるのであって、私たちの行いによるのではない。そして、その救いの目的は、神様が私たちが善い行いをして日々を過ごすようにという願いをもって私たちを創造してくださったのだと、そういうことが言われております。つまり、善い行いというのは、私たちが救われるための「手段」ではなくて、私たちが救われた、その救いの「目的」だったのです。これで、パウロが、なぜあれほど強く、清い生活をするようにと勧めているのか、その理由がお解かりいただけると思います。

しかし、皆さん、どうでしょう。それで納得がいったかというと、まだ、どうも引っかかると言いますか、腑に落ちないところがありますね。どこが引っかかるかと言いますと、やはり7章1節のこの言葉です。

「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」

自分を清めて、聖なる者となりましょうと、そう決心して始めても、すぐにダメになってしまう。すぐにへたばってしまうのは目に見えている。だったらパウロは、私たちに到底出来ないことを無茶振りしているのだろうか。無理難題を吹っかけているのだろうかという疑問が起こってくるわけです。この疑問に対して、パウロは先ほど引用したエフェソ書の2章の10節で、次のように説明をしています。

「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」

善い業が出来るように、神様が前もって造ってくださったのだとパウロは言うのです。私たちが「出来ない、出来ない」と言っているのは、何から何まで自分でやらないかんと、そう思うから、やってみたら、やっぱり失敗したと、そういうことになりますね。しかし、前もってそれが出来るようにしてくださるのは神様なのだと。ここが、じつは、問題を解く鍵なんです。

その意味は、こうです。私たちの内に住んでおられる聖霊の働き。これは神ご自身の働きと言って良いのですが、この聖霊の働きによって、私たちは、拙い性質にも関わらず、神様がお求めになるような清い生活が出来るようになる。そういう道を、神様が用意してくださったのだとパウロは言うのです。

私たちは信仰生活といえば、聖書に書いてあることを、きちんと努力をして守る。そういう生活のことだと思いがちです。イエス様がお語りになった御言葉、特に「山上の説教」の御言葉などを金科玉条のように考えて、それを私たちの努力や工夫で生きたものにする。そういう努力を私たちは心のどこかで尊しとしているのではないかと思います。

しかし、この線でやって行きますと、必ず失敗します。もう三日ももちません。いったい、どこに問題があるのでしょうか。それは、聖書の御言葉を、現在の生きた言葉にするのは私たちの努力であると考えるところに問題が潜んでいる。聖書の御言葉を、現在の私たちを生かす生きた言葉にするのは、じつは私たちではなく、聖霊の働きなのです。

私たちは、十字架につけられた主イエスが、よみがえられて、今も私たちと共に生きておられることを信じ、告白をしております。しかし、事が起こった時、問題に直面した時に、私たちは主が共にいてくださる。主イエスが私たちの中で働いてくださるのだということを、本当に信じて、実際の行動を起こしているでしょうか。クリスチャンだから、ここで頑張らにゃあいかんと、そういうふうに思っていることが多いのではないでしょうか。

どうしてそういうことが起こるかと言うと、御言葉が私たちの中で生きていない。私たちの中で力を持っていない。ただ聖書の御言葉を知っている、持っているというだけで、その御言葉が私たちを支配し、私たちに新しい行動を取らせる。そういう神様の語りかけになっていない。そういうことが多いと思うのです。

一つ、例を挙げて考えてみたいと思います。主イエスと弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていた時、舟が嵐に見舞われた。突然の嵐です。沿岸の山が切り立ったガリラヤ湖では、そういうことが、しばしば起こったのですね。弟子たちは、今にも舟が沈みそうだというので、大変に狼狽をしました。そして、イエス様に向かって「主よ、私たちが湖に沈んでも構わないのですか」となじったのです。その時、イエス様は何とおっしゃったか。「あなたたちの信仰は、どこにあるのか」と言って、弟子たちをお叱りになった。そういうお話がありますね。

弟子たちは、かねてより主イエスのお言葉を聞いておりました。そして、主の御言葉に心動かされて、ああ、このお方の言葉は真実だと思って、ここまで弟子として従って来たわけです。そして、主の御言葉は弟子たちの心に深く植えつけられてきたのです。しかし、突然の嵐で舟が沈みそうになった時、彼らは大いに狼狽し、慌てました。彼らは主イエスの言葉を忘れていたのでしょうか。そのように理解をする人もいます。

しかし、彼らは忘れたわけではなかったのです。そうではなくて、主の御言葉が彼らの中で彼らを動かす力にならなかったということ。弟子たちの心の中にある主の御言葉が生きていないということです。それは死んだものとして、あるいは、眠ったものとして、弟子たちの心の中にありました。その時に、主イエスは「あなたたちの信仰は、どこにあるのか」と一喝されたのです。これは、生きた語りかけの言葉です。この言葉によって、主イエスは、弟子たちの心の中に眠っている、御自分の言葉を呼び覚まされたわけです。

このように主の御言葉、聖書の御言葉、私たちが「福音」として受け入れ、心に刻んでいる言葉というのは、記憶はしているかも知れません。しかし、記憶ではダメなのです。事が起こった時に、それが本当に生きた言葉として、私たちの目を覚まさせ、私たちの不安を鎮め、望みを与え、そして主に委ねさせる。そういう生きた行動、生きた生活をさせるのは、かつて聞いた聖書の言葉を、今、語りかけられている神の言葉として心に響かせる聖霊の働きなのです。そのことによって、私たちは初めて、パウロがここで言っているような「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者になる」ということが実現をする。そういうことが起こってくるのです。

ところで、今日の箇所の最初のところに「信仰のない人々と一緒に不釣合いなくびきにつながれてはなりません」という言葉がありましたが、この「不釣合いなくびき」というのは、じつは意訳でありまして、聖書の言葉の元の意味は「もう一つの、別のくびきを共にするな」ということです。さあ、「もう一つの、別のくびき」とは、何のことなのでしょうか。

「くびきを共にする」と言えば、皆さんの多くはマタイ福音書の11章が伝える主イエスの御言葉を思い起こされるでしょう。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる」という御言葉です。キリスト者はキリストのくびきを負う者のことです。くびきを負うと聞きますと、何か不自由な重荷のように感じます。確かに、くびきを負うということは、自分勝手に動きたいと思う人にとっては、重荷以外の何物でもないですね。しかし、イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。どうしてでしょうか。

くびきというのは、自分一人で負うのではありません。片一方に、イエス・キリストがくびきを負うておられる。そのくびきを私が負うのです。二頭の牛をくびきでつなぐ場合、同じような牛を並べてつなぐことは決してしないそうです。必ず、片方は耕作に慣れた牛、仲間と一緒に耕作することに慣れた牛にする。そうしますと、もう一頭の牛が新米の牛であったとしても大丈夫なのだそうです。慣れない新米の牛は、先輩の牛に引っ張られるようにして、無理のない動きをすることが出来る。それと同じように、私たちとキリストは同じくびきに繋がれていますから、キリストが行かれる方向について行けば良いのです。「わたしのくびきは負いやすい」というのは、そういうことです。

ところが、時に、これが、逆になってしまうことが起こります。私たちが自分の進む道を決めた上で、その道にイエス様を無理やりに引っ張って行くということが、起こってくるのです。しかし、何が何でも自分が道を決めて、そこへイエス・キリストを引っ張り込むというのでは、キリストと同じくびきを負うということにはなりません。それはイエス・キリストを「主」とするのではなく、単なる協力者にしている。そういう生き方ですね。「主イエス」ではなく、「協力者イエス」になってしまう。私たちは、人生の大事な場面場面で、ついすると、そういう生き方・考え方をしてしまうことがあるのではないでしょうか。

人生というのは、レールの上を走るように決まりきった歩みではないですね。迷ったり立ち止まったりして、どちらに進もうかと悩みます。決してクリスチャンだから迷わないなんてことはない。迷いもしますし、悩みもする。しかし、そのときに、主イエスが私と一つのくびきを負うておられることが大きな意味を持ってきます。主イエスは「わたしのくびきは負いやすい」と言われました。これは「わたしのくびきは軽い」ということではない。私と一緒にくびきを負いなさいと言っておられるのです。

ところが、私たちは、キリストのくびきではなくて、「もう一つの、別のくびき」を負わされることがあります。世俗のくびきです。この世の考え方や世の思い患い、世間の常識というくびきです。そういうくびきを負わされますと、世間の人と同じような考え方しか出来なくなってしまいます。なにせ、くびきで繋がれていますから、逃れようがないのです。そうではなくて、キリストのくびきを負うことが大事です。

キリストを信じる信仰とは、キリストを何か他人事のように信じることではない。キリストが私の中に生きておられて、私と共にくびきを負うてくださる。その一点を信じるのです。信仰生活とは、私たちが信じているキリストが本当に生きておられて、毎日、私たちの生活の中で働いてくださるということです。私たちの信仰が、時にくじけたり、つまづいたりしても、キリストが私と共にいてくださるという事実は動かない。このことを土台として、その土台の上に生活を打ち立てていく。それが大事です。私たちに語りかけられたイエス・キリストのお言葉があります。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

今日、この礼拝に集われた皆さんは、この御言葉をじっくりと心に響かせていただきたいと思います。皆さんの中には、いろいろ悩みを抱えておられる方がおられると思います。仕事の事、家族の事、あるいは体の具合が悪いとか、私たちが日々背負わなければならない重荷は、じつにたくさんありますね。イエス様がこの言葉をかけておられるのは、そういう人たちなのです。「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけておられる。何も修行をしなさいとか、頑張りなさいとか、そういうことを言っておられるのではない。苦労をしているのだったら、そのままで私のところに来なさい。休ませてあげよう。これがイエス様の約束です。イエス・キリストはこの契約を十字架の上でお立てになりました。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

この言葉を自分のこととして、しっかりと受け取るなら皆さんの生活は変ります。なぜでしょうか? それは続く言葉に示されています。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

私が負うている重荷、それをキリストが一緒に負うてくださる。私の生活を、キリストがくびきを共にして歩んでくださる。「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言われる。そうすれば安らぎが得られると言われる。自分独りで悩んで、苦しんで、もがいている私たちに「その悩み苦しみを、そのまま私のところに持って来なさい。私が一緒に負うてあげる」と言っておられる。この呼びかけに応えていく。信じて一歩を踏み出す。それが私たちの生き方です。何も難しいことはないのです。ただただ、キリストの言葉を、語りかけを聞いて、信じる。そして主イエスに自分自身を委ねるのです。どうかこのことを、ああ、こういう生き方があるんだと、そのことを、しっかりと心に定めていただきたいと思います。今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

 

【予 告】

○次週の主日礼拝 7月15日 (日)午前10時半 聖霊降臨節第9主日

説教「望みはどこから来るか」 牧師 佐藤 誠司

聖書:創世記1章27~31節・ローマの信徒への手紙8章18~25節

○どなたの来会も心から歓迎しています。