聖書:イザヤ書9章1~6節・ヨハネによる福音書1章1~5節

説教:佐藤 誠司 牧師

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1章1~5節)

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音書1章14節)

 

待降節の時が満ちて、この朝、私たちはクリスマスの礼拝を迎えました。この礼拝で開かれているのはヨハネによる福音書第1章の御言葉です。

ご存知のように、ヨハネ福音書は降誕物語を語っていません。ここにはマリアやヨセフ、博士たちや羊飼いたちも登場しませんし、ベツレヘムの名前も出ては来ません。しかし、それはヨハネ福音書が主の降誕を軽んじているからではありません。むしろヨハネ福音書は、さらに深い仕方で、主イエスの降誕を語っています。主イエスの降誕。それは神が人となってくださったことなのだと、ヨハネは語る。その一点を語るために、ヨハネ福音書は特別な言葉遣いで幕を開けます。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

じつに不思議な始まり方であると思います。発言の「言」と書いて「ことば」と読ます。ここには、じつは深い意味がある。それは、どういうことかと言いますと「キリストこそが神の言である」ということを言い表しているわけです。

言葉って、何でしょうか? 言葉とは、私たちの心を表し、その心を相手に伝えるのが言葉です。心は皆が持っているのですが、ではその心を見せてくれと言われても、それを直接見せることは出来ません。その心を表すために、私たちは言葉を

使うのです。

神様も、やはりそうでありまして、私たちが直接神様を知ろうと思いましても、神様は目には見えません。神様って、いったい、どういうお方なのか。なかなか分かりにくいのです。その神様の心を私たちに知らせるものが神様の言葉です。そしてイエス・キリストこそ、その神様の言葉であると、そういうことを、この福音書は最初に語っているわけです。

神様という言葉は誰もが使います。いろんな意味で使います。安直なのもありますし、大変に峻厳な教えものもあります。しかし、どんなに深い教えであっても、その多くは人間の宗教心が造り出したイメージです。そのイメージを言葉にしたり、像に刻んだりして、神様とはこういうお方だと人に教えます。しかし、これらはすべて人間の心が描き出した、言うなれば、つくり物の神様です。

これは、この世界を造り、私たちの人生を支配しておられる、生けるまことの神様とは関わりの無い、いわば人間の好みです。どうしたら、私たちは、まことの神様にお会いすることが出来るか。いろいろ瞑想したり、思索をしたりしても、私たちは神様に至ることは出来ない。ただ一つの道は、神様ご自身が「私はこういうものだ」と言って、私たちに語りかけてくださる。その神様のお言葉によって、ああ、神様とはこういうお方であったかと、私たちは初めて分かる。イエス様は、そういう神様のお言葉であると、こういうことが、ここに言われているのです。

その神様のお言葉であるキリストは、初めからあった。初めからあったというのは、途中で造られたのではないということです。神様が万物をお造りになる。その前からキリストは神と共にあった。そのあとに「言は神であった」と言われております。イエス・キリストというお方は神様なのだと、これがヨハネ福音書の根本です。そして14節を見ますと、こう書いてあります。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

私たちがどんなにしても知ることが出来ない、天地の造り主である神様が、御自分を何とかして私たちに知らせようとして、人間になってくださったのです。人の言葉で語り、人としての交わりをなし、人としての行いをすることによって、神様は御自分を表そうとなさいました。これはキリスト教だけが持っている特別なメッセージです。

神様はイエス・キリストにおいて、人間となって私たちの所に来てくださった。だから、私たちがこの目で見ることが出来、そのお言葉を聞くことが出来る。イエス・キリストというお方を知れば、神様がどういうお方であるか、私たちに対してどういう思いを持っておられるか、そのすべてのことが明らかになる。3章16節にこう書いてあります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

神様はこの世を愛しておられる。このことを神様は、キリストが人間となってこの世に来てくださったことによって、私たちに語ってくださったのです。私たちは理屈で考えますと、神様が世界を支配しておられると考えます。しかし、どうでしょう。現実に私たちが生きているこの世界を、神様が愛しておられるということを、実感できるでしょうか? 大きな災害が重なりました。戦争が終わらない。様々な苦難があり、悩みや悲しみが満ち満ちているような世界です。神様がこの世を支配しておられるのだったら、なぜこんなことが起こるのか。なぜ神様はこういうことを防いでくださらないのか? そういう思いが致します。

また、皆さんの中には、大変な重荷を負うておられる方がおられるでしょう。なぜ神様は私にこんな重荷を負わせられるのか。そういう現実に直面したときに、神様はこの世を愛しておられるという、一片の観念ではどうしようもない。理屈では太刀打ち出来ないのです。本当に神様はこの世を愛し、私を愛してくださるのだなあと、そのことが分かるのは、イエス・キリストを通して神様のお心に触れたときに、初めて分かる。あらゆる悲惨や矛盾にも係わらず、神様はこの世を愛し、私を愛していてくださる。それを知ることが出来る。それがイエス・キリストに対する信仰です。

「私たちはその栄光を見た」と言われています。栄光というと、何か輝かしいものを連想します。イエス様のなさる様々な奇跡や業。そういうものを思います。もちろん、それも栄光ではありますが、この福音書が「私たちはその栄光を見た」と言っているのは、そういう、なるほどこのお方は神様だなあというようなことだけではない。最後の最後に、主イエスは十字架で殺される。福音書という書物は、そこに向かって語っていく。じつはヨハネ福音書が「栄光」と呼ぶのは、主イエスの十字架のことなのです。

十字架の死は惨めな、悲惨なものでした。どうしてそこに神様の栄光が現れていると、この福音書は言うのでしょうか? 神様は私たちを救い、私たちに本当の命を与えるために、人となってくださった。人間になったと言っても、ただなんとなく人としての一生を過ごされたというのではなくて、悲惨のどん底にまで降りて行かれた。そして殺されて、死ぬ。それを通して、初めて、神様の私たちに対する御心が現されたのです。

この福音書は、そういうイエス様の十字架の後に書かれたものです。そういうものを見据えながら、ヨハネ福音書は「私たちはその栄光を見た」と言い切っています。

「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

イエス様が、何か自分の思いや決心でやったというのではない。これは父の御心である。私たちの人生を支配しておられる父なる神様が、どんなに深く私たちを思い、私たちの救いを願っておられるか。そのことを明らかにするのが、まさにキリストの十字架です。神様は、こうおっしゃいました。

「私は決してあなたを見捨てない。」

そういう約束を、神様はなさいました。「決して」というのは無条件でということです。ここまではあなたを守ってあげるけれど、ここから先はもう知らんぞというのではない。私たちがどんなに罪を犯し、どんな絶望の中にあっても、神様は決して私たちを見捨てないという約束を守っておられる。これがキリストの十字架です。罪の無い方が他人の罪を担わなければ、私たちの救いは全うされないという、まさにそのときに、主イエスは敢えて十字架にかかられた。16節を見ますと、こう書いてありますね。

「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

私たちは皆、と言われています。これは、この方の救いから漏れる者は一人もいないということです。また、私たちは、この方の溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたと言われています。

ここは心して読まなければならないところです。何が言われているのかというと、私たちがどういう状態であり、どういう状況であろうと、どういう問題を抱え、どんな困難に直面していようと、恵みの上に恵みを加えられているという事実に変わりはないということです。ただ、私たちにとって問題なのは、私たちがそのことを知ることが出来ない、実感できないということです。そのために、恵みの中に入れず、不安に怯え、悲しみ嘆いています。そんな私たちを嘆き苦しみから救う道は何か? それは、神様がイエス・キリストにおいて、私たちを恵みに恵んでおられるのだということを知ることです。そのために、私たちは、何をすれば良いのでしょうか?

ルカ福音書の第9章に、不思議な出来事が語られておりました。イエス様が祈るために弟子たちを連れて山に上られた。祈っておられるうちに、主イエスの様子が変わり、その姿が輝き始めた。みると、二人の人が主イエスを真ん中にして語り合っていた。この二人はモーセとエリヤであった。この二人が現れて、主イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最後のことについて話し合っていた。もちろん、この「最後のこと」というのは十字架と復活のことです。そしてモーセとエリヤというのは律法と預言者。つまり、旧約聖書全体のことです。弟子たちが驚いていると、やがてモーセとエリヤは雲の中に消えて、主イエスだけが残った。すると、そのとき、天から声が響いたのです。

「これは私の子、選ばれた者、あなたがたはこれに聞け。」

もちろん、これは神様からの語りかけです。モーセとエリヤが消えて、主イエスだけが残った。つまり、律法と預言者が消えて、キリストだけが残った。そこに「あなたがたはこれに聞け」という神様からの語りかけがあった。イエス・キリストに聞けばよいのです。キリストの御言葉を聞き、キリストの愛の中に生きるなら、そのときに分かる。神様がどれほど私たちを愛し、大事に思っていてくださるかが分かってくる。17節にこう書いてあります。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」

モーセは確かに神様の御心である律法を伝えました。律法は神様の御心を表すものでした。しかし、それが全部ではないのです。律法は神様の御心の一部分に過ぎません。本当に神様の御心を隈なく示すものは何か? それはイエス・キリストです。そしてイエス・キリストを通して現された神様の御心とは何かというと、「恵みと真理」なのです。

ヨハネ福音書は18節で、こう語りかけます。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

私たち人間が心に描いている神様は、まことの神様ではありません。イエス・キリストにおいて現されている神様こそ、人となって私たちに語りかけ、私たちと交わってくださったこの方こそ、まことに生ける神です。悲惨な戦争や事故・事件に明け暮れたかに見えるこの一年、それはまるでイザヤが言うように闇の中を歩む民のようでした。どうかその私たちに光を見せてくださいますように、その光を失うことなく、証しすることが出来ますように。このクリスマス、恵みの上に恵みを増し加えてくださいますように。ご一緒に祈りましょう。

 

                        4本目のろうそくが灯りました

              クリスマスおめでとうございます

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月22日(日)のみことば

「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。」(旧約聖書:イザヤ書43章5節)

「あなたがたは、この世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(新約聖書:ヨハネ福音書16章33節)

あなたがたは、この世では苦難がある、とハッキリ言っておられる。悩みや苦しみがあるのは当然のことであり、当たり前のことなのだ。そうイエス様は言われたのです。私たちは、このことを、やはり心に留めておくことが大事だと思います。何事につけ、快適さを追求する現代社会にあっては、悩みや苦しみがあるのは人生にとって損失だ、マイナスだと思って、悩みがあるがために、自分の人生を、駄目な人生だと決め付けてしまう人が多いからです。

しかし、聖書はそうは考えない。むしろ、この世で悩み・苦しみがあるのは当たり前のことだ、と、そういう前提に立って、聖書は私たちに語りかけています。確かに私たちには悩みや苦しみがあります。聖書はよく「産みの苦しみ」という言葉を使います。産みの苦しみというのは、子供を産むためのお母さんの苦しみです。これは目的の無い苦しみではありません。無意味な苦しみでもない。新しい命を産み出すための、尊い苦しみです。私たちが生きていく上で経験する様々な苦しみ・悩みは、そういう産みの苦しみなのだ、ということを、聖書は教えています。