聖書:ヨハネによる福音書3章14~21節

説教:佐藤  誠司 牧師

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネによる福音書3章14~21節)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは聖餐式の度に招きの言葉として読まれる言葉であり、また宗教改革者のマルチン・ルターなどは、この御言葉を「小さな聖書」と呼びました。聖書全巻のメッセージがここに凝縮して語られているということです。それだけに、この御言葉だけを取り出して読まれることが多いと思います。しかし、そういう有名な御言葉は、えてして前後の文脈から切り離されて、独り歩きをすることが、往々にしてあるものです。そこで今回は、この16節の御言葉を前後の文脈をとおして、深く味わってみたいと思うのです。

今日は14節から読みました。ちょっとヘンな切り方だなあと思われたかも知れません。たいていの場合、15節と16節の間で切って、ここに段落を入れて読むのが普通です。新共同訳聖書も、そういう解釈で、ここに段落を設けています。しかし、聖書の原文を見ますと、16節は「なぜなら」という接続詞で始まっているのです。「なぜなら」という接続詞は、前に述べたことの理由を今から述べるときに使います。じつはここもそうでありまして、14節と15節で述べたことの理由を述べているのが16節なのです。14節と15節に何が書いてあるのでしょう。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

モーセが蛇を上げたとか、不思議なことが言われております。これがどうして次の16節と繋がるのでしょうか?

ところで、今日の聖書の個所には「愛する」という言葉がキーワードとして出て来るわけですが、私たちは「愛する」という言葉を、いったい、どういう意味合いで使っているでしょうか? 「愛する」という言葉は、今や誰もが使います。その中で、私たちはこの言葉をどういう意味で使っているでしょうか? それはおそらく、ある人に対して好意を持つ。そういう好意がずっと続いていく心の状態を「愛する」という言葉で言い表していることが多いのではないでしょうか。ところが、ここに使われている「愛する」という言葉は、ずっと連続した状態を言っているのではなくて、ある特別な出来事、こういう出来事が起こったということを表す、そういう表現が使われています。

さあ、そうしますと、これは、神様が私たちを愛してくださるというのは、神様が私たちに好意をずっと持っていてくださる、ということではない。もちろん、そういう仕方でも神様は私たちを愛しておられて、それが底辺にはあるのですけれど、むしろ、ここで言われているのは、神様がある特別な行為をすることによって、私たちにその愛をはっきりと現してくださった。そういう仕方で愛を現してくださったと、そういうことが言われているのです。こういうところがヨハネ福音書独特の言葉遣いです。では、それはどういう仕方であるのか。そこが問題になるわけですが、そこで浮かび上がってくるのが、14節、15節の言葉です。もう一度読んでみましょう。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

ここでヨハネは何を言いたいのかと言いますと、15節と16節の後のところに、同じ言葉が繰り返されていますね。ヨハネ福音書の言葉遣いの特徴は、大事なことを繰り返すことです。何が繰り返されているでしょうか。それは「信じる者が永遠の命を得る」ということ。それが繰り返されていますね。ということは、ここでヨハネが言いたいのは、私たちが永遠の命を得るためには、何が必要なのか、そういうことをヨハネはここで告げているわけです。

これは今初めて問題になったのではありませんで、第3章の初めから、じつはそのことが問題になって、一つの対話が交わされておりました。主イエスのもとに、ニコデモというファリサイ派の教師であり議員でもある人が訪ねて参りまして、イエス様に質問をしようとした。イエス様はその質問が出る前に、ニコデモの思いを見抜いておられて、こうおっしゃったのです。

「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」

「神の国」というのは「永遠の命」というのと同じです。永遠の命と聞きますと、いつまでも死なないことのように思ってしまいますが、それは間違いです。聖書はそういう不老不死ということに関心が無いのです。永遠の命とは、神様が私の中に生きてくださる。そして神様の命が私を生かしてくださる。そして私が神様の前に心安んじて立つことが出来る。それが永遠の命ということです。そういうことが問題になっているのに、ニコデモにはそれが分からない。彼はファリサイ派の熱心な教師ですから、自分の力で、律法を熱心に守って、正しい人間になることで救われると思っている。だから、イエス様の言われることが全然分からないのです。それに対して、主イエスは、人が自分の力で救われることは出来ないと言われる。じゃあ、どうしたら、人は救われるか、どうした永遠の命を得ることが出来るか。そこが焦点になって浮かび上がってきます。

そこでイエス様は二つのことを言われます。それが14節の「人の子は上げられねばならない」という言葉です。これは民数記に記されているのですが、こういう故事があるのです。イスラエルの人たちがモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野を40年の間旅をしておりますうちに、人々は神様とモーセに逆らって不平をつぶやき始めます。すると、神様は炎の蛇を民に向かって送り、多くの人がその蛇にかまれて死んでしまいます。そのとき、モーセは神様に向かって執り成しの祈りをささげます。すると、神様はモーセに、青銅の蛇を作ってそれを旗竿の先に掲げるよう命じます。そして神様はこう言われたのです。

「蛇にかまれた者が、その青銅の蛇を仰いで見上げるならば、命を得る。」

イエス様は民数記のこの故事を引き合いに出して、あのように、旗竿の上に上げられた青銅の蛇のように、私も高く上げられねばならないのだとおっしゃったのです。どこに上げられるのでしょうか? もうお解かりの方もおられるでしょう。十字架の上なのです。
人の子は十字架につけられる。これが主イエスの言っておられる第一のことです。そしてもう一つ大事なことは何かと言いますと、それは「信じて仰ぐ」ということです。15節に「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」と言われております。また16節に「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と言われております。大事なことを繰り返すのがヨハネ福音書の特徴です。十字架につけられた主イエスを仰ぐ、仰ぐというのはただ見上げることじゃない、信じて見上げることです。十字架の主を仰ぎ見るならば、救われる。永遠の命が与えられる。このような仕方で、神様は私たちを愛してくださった。それが、ここで言われていることです。そして17節に、こう言われています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

ニコデモを初めとして、当時の信仰者は皆、メシア・キリストが来られるのは世を裁くためだと信じていました。どんな宗教でも人を分けてしまいますね。救われる人と救われない人に分けてしまいます。分けた上で、皆さんも救われるように頑張りましょうと言うわけです。一生懸命に掟を守るとか、良い行いをしなければならないと、どんな宗教でも、それを言うわけです。しかし、そういうことは人間が言うことであって、神様の御心はそういうところにあるのではない。イエス様をこの世に遣わしてくださったのは、これは悪い人間だから滅ぼしてしまおう、これは良い人間だから救ってやろう、と、そういう裁きをするためではない。全部の人が、キリストによって救われるために、遣わしてくださった。どんな悪人でも、どれほどの落ちこぼれでも、そんなことは問題ではない。イエス・キリストが私を救ってくださる、そのことを信じてキリストにすべてを委ねさえすれば、キリストが全部を解決してくださる。だから、神様はキリストを世に遣わされたのだと。これが「信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」ということです。

そうしますと、それではもう裁きなんて無いのか、それだったら、何もかも一緒くたになるのかと思われるかも知れません。しかし、神様の裁きは厳然として存在する。それが18節で言われていることです。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

裁きが無いどころか、もう既に裁きが行われている。ではどういうふうに裁きは行われているか。良い行いをしたかとか、熱心であったかとかそういうことではない。イエス・キリストを救い主と信じるかどうか。その一点だけが人間を分ける。つまり、裁くのだと、これがヨハネ福音書のいう裁きです。ですから、人はどうしても裁きを逃れることが出来ない。イエス・キリストが宣べ伝えられるところ、どこでも私たちは、キリストを救い主と信じるか、信じないか、そのどちらかです。どちらでもない中間ですなんてことは無い。これが、神様の、じつに大胆な挑戦です。あなたは信じるか信じないか。私たち人間は、この問いに答えることに迫られている。だから、この福音書は最後にトマスのお話のところで「信じない者になるのではなく、信じる者になりなさい」という御言葉が出て来るわけです。そして「ハイ、信じます」と言わなければ、私たちはもう既に裁きを受けている。どういう裁きか。それは、光よりも闇を愛した、そういうことです。19節にこうあります。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

キリストを信じないと、どういうことが起こるかというと、自分の本当の姿を見ようとしない。そういうことが起こってきます。私たちは、自分の本当の姿が見たくない。そういうところって、ありますね。だから、私たちは、自分に対する一つの幻想を持っている。いろいろと問題はあるけれど、少しは取り柄がある、と、そう思いたいのです。

しかし、神様の光に照らされた時に、私たちは、そういう幻想を砕かれて、ああ私はダメだ、どうしようもないと、そういう気持ちになります。それが嫌さに、私たちは御言葉をきちんと受け止めない。受け取ろうとしない。イエス様の前に素直に出て行こうとしない。そして、自分の殻に閉じこもってしまう。部屋の戸を閉め切って、真っ暗な中に閉じこもってしまう。ちょうど、そのように、神様の救いが溢れんばかりに語られているのに、自分の世界に閉じこもって、真っ暗な闇の中を歩いている。これがじつは裁きなのです。

しかし、キリストを仰ぎ見る人は、どういう歩み方をしているか? それが21節に書いてあることです。

「しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

私という人間が熱心な信者で、一生懸命やっている、そういう自分のあり方を頼みとするのではない。私がどんなにダメな人間か。それを重々知った上で、しかし、それでも失望しない。望みを絶たない。死なない。死なないで生きて行ける。それが神様を信じ、キリストを仰ぎ見る者の歩み方です。どっかに取り柄があるのではないかと必死で自分の中を探し回るのではなくて、どこにも取り柄が無い。そんなダメな私を、神様は愛して受け入れてくださる。その上、こんなダメな人間を、そのダメさ故に、神様の恵みを正直に映し出す鏡のような器として用いてくださる。怒りもすれば、愚痴も言う。なんともダメな私たちを選んで、こんなに尊く、手厚く用いてくださる。こんな神様、ほかに無いですよ。決して自分の力ではない。ただこのような者を、神様が、神様の子として受け入れてくださって、私が引きずっている一切の過去を、キリストによって解決してくださる。だから、私たちのする事といえば、ただキリストを信じて、喜んで生きること、ただそれだけです。

死に打ち勝って、甦られた主イエスが、この私の中に生きて働いて、この私の中で御業をなさる。どうしても人を愛することの出来ない私たちが、キリストにおいて愛することが出来るように、じっくりと変えてくださる。それが私の努力の賜物というのではなくて、私の中で生きて働いてくださる主イエスがなさっておられる。これが主にあって生きるということです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

永遠の命とは何でしょうか? それは、私の中に神様が、キリストが生きてくださる。私の中に、真っ只中に神の御業が行われる。神様の命が私を生かしている。私が生かされて、生きている。それが永遠の命ということです。新型コロナウィルス感染の闇の中を歩むような今、この御言葉を頂いて週の歩みを始めることが出来て、嬉しく思います。どうか今週の歩みがまことの光に満ちた歩みでありますよう、私たちが主を信じて、仰ぎ見る歩みでありますよう、ご一緒にその一歩を、この礼拝から踏み出しましょう。
今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

 

【予 告】

○次週の主日礼拝 5月24日 (日)午前10時半 復活節第7主日
説教「神は真実な方である」 牧師 佐藤 誠司
聖書:コリントの信徒への手紙一10章1~13節
賛美歌(讃美歌21):83-1 60-1 463-1 29
○どなたの来会も心から歓迎しています。