聖書:イザヤ書53章1~12節・ローマの信徒への手紙16章1~16節

説教:佐藤  誠司 牧師

「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」(ローマの信徒への手紙16章1~2節)

「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」(ローマの信徒への手紙16章16節)


ローマの信徒への手紙の第16章に入ります。この手紙は、内容からして、神学的に大変高度に整っていますから、ややもすれば、神学の教科書にように見られがちですが、本当は決してそのような教科書ではなく、血の通った暖かい配慮があふれる生きた手紙であることが、今日の箇所から伝わってきます。これは生きた教会への手紙なのです。

お読みになってすぐにお解かりのように、ここには多くの人の名前が出ております。30人近い人たちが出てまいります。それ以外にも、「誰々の家に集まっている人たちによろしく」、などという表現がありますから、ここに登場する人々は、おそらく40人、50人を超えるのではないかと思われます。パウロは、まだローマに行ったことは無いのですが、それにも関わらず、パウロとローマ教会の人々との間には、極めて緊密で、慕わしい交わりがあったことが、ここから伺うことが出来ます。それは、いったい、どういう交わりだったのでしょうか。それを知る手がかりが、フィリピの信徒への手紙の1章の3節に記されています。

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」

パウロが、まだ見ぬローマ教会の人たちとの間に持っていた交わりとは、祈りの交わりだったのです。その祈りによる交わりが、名前がたくさん出て来る今日の箇所を生み出したのでしょう。

ということは、どうでしょう。パウロという人は相手の教会のことを祈る時、いつも一人一人の名を呼んで祈っていたことが、ここから想像できます。ですから、今日の箇所は、ただ単にローマ教会の人々の名前が羅列されただけの無味乾燥な名簿ではなくて、パウロの祈りの手帳のような趣があるのです。そう思ってここを読みますと、また一味違った味わいと言いますか、豊かな響きが聞こえてくるのではないでしょうか。

ここに名前が出て来る人々は、ユダヤ人もあれば、ギリシア人やローマ人もいます。また奴隷の身分の者もいますし、逆に主人階級の人もいる。奴隷であったのが解放されたという人もいますし、高貴な身分の人もいます。ところが、どうでしょう。誰一人として肩書が記された人はいません。地上の生活に伴う地位や身分、職業、学歴などは一切書かれていない。書かれているのは、この人々が、いかに福音を喜んで生きたか、その一点だけが記されていると言っても過言ではありません。夫婦であるアキラとプリスカの場合、奥さんのプリスカの名前のほうが先に出て来ております。これが神様の前にある、主の前にある、ということではないかと思います。ガラテヤの信徒への手紙の3章の言葉が思い起こされます。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

これは、ここに名前が記された人たちのことであると同時に、2千年の時を隔てて、この手紙を読んでいる私たちのことでもあります。

また、ここに名前が記されている人たちは、様々な意味で、パウロの協力者でもあります。パウロ自身も手紙の中で述べていることですが、パウロほど大きな働きをした人はいませんでした。大きな仕事を残したのです。しかし、それは、パウロが何でも出来る万能の猛者だったからではありません。逆に弱かったから、弱さを抱えていたからこそ、主にあって大きな働きが出来たのではないかと私は思います。パウロは厄介な病気を抱えていたことが今日、知られています。言葉も巧みでなかったことがコリント教会に宛てた手紙で分かります。弱かったのです。ということは、人の弱さが分かる人だったということでもあります。彼は弱さの中で、主の御声を聞きました。

「すると主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

キリストは弱さの中でこそ働かれる。パウロは、この秘密、キリストの秘密を知っていました。そして、この弱さゆえに、彼には多くの協力者が与えられたのです。その中の一人、1節にその名が見えるフェベという女性を見てみたいと思います。

「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」

言葉を尽くしてフェベという女性のために心を砕いています。彼女はパウロをはじめ多くの教師たちの援助者だったのです。このほかにも、パウロには多くの援助者・協力者が与えられていたようです。これもパウロがスーパーマンだったからではなく、むしろ、弱さを抱えた人だからこそ与えられた協力者だったのではないでしょうか。

次の3節に登場するプリスカとアキラの夫婦は、パウロの同労者として大変に有名な人たちです。「キリスト・イエスに結ばれて私の協力者となっているプリスカとアキラ」と呼ばれています。プリスカのほうが奥さんの名前です。ですから、奥さんの名前のほうが先に出て来ることを怪訝に思う聖書学者もいるようですが、ここはそんな固いことは言わずに、「主にあっては男も女もない」というパウロの言葉どおりに、主にあって対等な夫婦なんだなあと思えば良いのだと思います。使徒言行録にも、この夫婦の名前は出てまいります。使徒言行録の第18章の1節以下を読んでみます。

「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」

ローマからユダヤ人が追放された。それによってローマからコリントに来たアキラ夫妻とパウロは出会うことになったのでした。おそらく、パウロがローマ教会の様子を聞いたのは、この夫婦からであったと思います。パウロは彼らの家に住み込んだと書いてあります。一緒に働いたとも書いてあります。ここら辺りは、使徒言行録の最も生き生きとしたリリカルな表現だと思います。著者であるルカもパウロとアキラとプリスキラ夫妻の親しい間柄をよく知っていたのでしょう。

このアキラとプリスキラ夫妻がいかに優れた協力者であったかは、使徒言行録の18章26節を見れば、分かります。アキラ夫妻は教師ではなく、信徒なのですが、アポロという雄弁な教師がエフェソに来た時のことを、使徒言行録は次のように記しています。18章の24節以下です。

「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。」

アキラ夫妻は信徒なのですが、教師であるアポロの語る説教がはらんでいる神学的な問題を、指摘することが出来たのです。ここからも、彼らが、いかに神学的な深い素養を身につけていたかが分かります。このアキラ夫妻について、パウロは4節で、次のように述べています。

「命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。」

異邦人のすべての教会が感謝していると、そこまでパウロは言っております。おそらく、アキラ夫妻はユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間を取り持つ働きをも担っていたのではないかと思われます。そのアキラ夫妻が命がけでパウロの命を守ってくれたのです。

また、この16章に出て来る人の中に、七人の女性の名前があることも見逃せない事実であると思います。最初に出て来たフェベも女性でしたし、プリスカも女性です。6節に「あなたがたのために非常に苦労したマリア」という心のこもった言葉で紹介されている女性がいますし、12節には、こんな言葉もあります。

「主のために非常に苦労したペルシスによろしく。」

ここにも「非常に苦労した」という表現が出ております。ペルシスという名前は、おそらく本名ではないでしょう。ペルシアの女という意味です。おそらく、ペルシアから買い取られてローマに来た女奴隷だった。その彼女が女奴隷だった頃に呼ばれた名前が「ペルシス」だったのです。今、彼女は奴隷の身分ではないのかも知れません。しかし、解放された後も、彼女は敢えて「ペルシス」と名乗り続けたのでしょう。

なぜでしょうか。もうお解かりの方もあると思います。キリストに代価を払って買い取られて、キリストの奴隷となったからです。こうして、パウロは信仰のゆえに苦労を重ねた女性たちの名前を丁寧に挙げています。これはパウロの弟子であるルカが福音書にも書き記しているのと同じです。ルカ福音書の8章の1節以下に、旅を続ける主イエスと男の弟子たちを陰で支え続けた女性たちのことが出て来ておりました。

「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」

黙々と目立たない奉仕をして、主イエスの働きを陰で支える女性たちの姿をルカは愛情を込めて描いております。あの時と同じことが、今も教会で起こっているのだとパウロは言うのです。彼女たちの奉仕やささげものが、パウロたち伝道者を支え、教会を支えているのです。

このように、名前から分かることを連ねていけば、もうそれだけで何回分かの説教になりそうですが、とても全員を取り上げることは出来ません。しかし、どうしても見逃すことの出来ない人物が13節に出て来ております。

「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」

ルフォスの名前は、私たちがローマ書の次に学びます、マルコ福音書の15章21節に出てきます。そこを読んでみたいと思います。

「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理にかつがせた。」

ルフォスの父シモンは、あの時、偶然通りかかった道で、十字架を背負う主イエスと出会ったキレネ人シモンだったのです。どうしてシモンの息子ルフォスの名前がローマ書に出て来るのでしょうか。じつは、マルコによる福音書は、ローマで書かれて成立したというのが定説です。ルフォスの父シモンも、その妻もキリスト者になりました。そして、やがて彼らの息子ルフォスも洗礼へと導かれるのです。パウロはルフォスのことを「主に結ばれている、選ばれたルフォス」と述べていますが、ルフォスの父シモンは、まさに主の十字架に結ばれて、主に選ばれて、その十字架の重さを身をもって味わった人だったのです。

自ら進んでイエス様の十字架を背負ったのではありません。イエス様を自分の救い主と信じていたわけでもありません。偶然通りかかっただけ。しかも、無理やりかつがされただけ。ただそれだけの事が、シモンの生き方を変えたのです。なぜでしょうか。おそらく、シモンは、聞いたのだと思います。十字架の上で釘打たれ、生き絶え絶えの中、主イエスがおっしゃった言葉を、聞いたのだと思います。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。」

主イエスの執り成しの祈りです。この祈りを聞くことが出来たのは、ごく少数の人たちでした。主の十字架の近くにいた百人隊長と、主と共に十字架につけられた二人の犯罪人、そして主の十字架を背負わされてゴルゴタまでやって来たシモンも、その一人であったのでしょう。この出来事がシモンの生き方を変え、シモンの妻を救いへと導き、そしてシモンの子ルフォスをも導いて、彼ら家族をローマへと導いたのです。

このような人々が、それぞれが違う人生を歩みながら、主の十字架に贖われ、主の復活に新しく生かされて、今、ローマ教会の交わりの中で生かされているのです。ですから、この国籍も境遇もバラバラな人々を、一つにしているのは主の十字架であり、復活なのです。それが、パウロが何度も繰り返す「主に結ばれて」という言葉の意味です。パウロは挨拶の言葉に必ず「主に結ばれて」という言葉を付け加えました。

挨拶ですから「よろしく」という、挨拶らしい日本語に訳されていますが、じつは、この言葉はもっと重い意味を持つ言葉です。ここに使われている言葉の元々の意味は、相手を抱く、抱擁するということだったと言われています。相手をしっかりと抱きしめて「あなたに平和がありますように」と祝福を告げる。今でもユダヤの人々は「シャーローム」という言葉で挨拶を交わしますが、その意味は「あなたに平和があるように」という祝福の意味と、もう一つ、大事なことは、「あなたのことを覚えていますよ」という意味がある、ということです。

パウロは今、その両方の意味を込めて、ローマ教会の愛する人々に挨拶を交わしています。あなたにも、あなたの上にも、主の平和がありますように。平安がありますように。ここに名前が挙げられた人々は、皆、民族も違いますし、育ちも身分もバラバラです。ローマ書の14章を見ますと、食べ物や暦をめぐって、深刻な対立もあったようです。決して天使のような清らかな交わりではなかったのです。しかし、それでもなお、パウロは平和を告げる挨拶を交わす。なぜなら、この問題のあるローマ教会の人々を、主イエス・キリストは贖い取ってくださったからです。今日はイザヤ書53章の苦難の僕の歌を読みました。

「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らを投げ打ち、死んで、罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

一人の神の僕が、その死を通して多くの人々を贖い取ることが預言されています。これはまさしく主イエスの姿です。そして主イエスに贖い取られた人々に、パウロは平和を告げる挨拶を交わしています。あなたがたに平和があるように。このローマ教会の人々こそ、今の私たちの姿ではないかと思います。私たちも、互いに祝福を告げる交わりの中に、健やかに生きる、一緒に生きる。支え合い、励ましあって生きることが出来ますように。
今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

 

【予 告】
○次週の主日礼拝―福井地区交換講壇 8月18日 (日)午前10時半 聖霊降臨節第11主日
説教「和やかな食卓を囲む」 敦賀教会牧師 有岡 史季
聖書:コヘレトの言葉8章15節・ヨハネによる福音書21章1~14節
○どなたの来会も心から歓迎しています。