聖書:詩編16編1~11節・ローマの信徒への手紙10章1~13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」 (ローマの信徒への手紙10章8~10節)

 

2024年の1月から始まった旧約聖書による説教を一旦終えて、今日から新たに使徒信条による説教が始まります。使徒信条による説教と言いましても、使徒信条そのものを説教のテキストにするわけではありません。使徒信条が語る信仰箇条の言葉を一つ一つ取り上げていきますが、説教テキストにするのは、その信仰箇条の言葉を生み出した聖書の御言葉です。あらゆる信仰告白の源泉は聖書だからです。

では、実際に使徒信条を見てみたいと思います。さあ、どこを探せば使徒信条を見ることが出来るでしょうか。そう、交読詩編の見開きページに、私たちが毎月第一主日に告白している日本基督教団信仰告白がありますが、その教団信仰告白のいちばん終わりに出て来るのが使徒信条です。皆さんが、これから使徒信条を学んで行くに当たって、使徒信条を実際にご覧になるには、この交読詩編の見開きページが文字が大きくて、便利かもしれません。

そして、もう一つ、使徒信条を見ることが出来るのが、「讃美歌21」です。「讃美歌21」の93番に「礼拝文」というページがあります。この93番の4番に「使徒信条」が置かれています。この「賛美歌21」が有益なのは、使徒信条のとなりのページにニケア信条が掲載されていることです。このニケア信条はキリスト教の歴史の中で大変に重要な意味を持つ信仰箇条です。説教の中でも取り上げますので、最初は目を通していただいて、使徒信条との共通点や相違点を確認されるのも、良いことだと思います。

日本基督教団を見ていただくと分かると思いますが、教団信仰告白は使徒信条をその最後に配置しています。これはどういうことかと言いますと、教団信仰告白は使徒信条を「主文」としているということです。使徒信条はカトリックを含めて世界中の教会が告白している世界信条なので、この主文に福音主義プロテスタント教会が大切にしている事柄を追加して、それを使徒信条の前に置いた。つまり、日本基督教団信仰告白は使徒信条を主文とする福音主義教会の信仰告白なのです。

もう一つ、教団信仰告白を御覧になって、というより実際に教団信仰告白を告白してお気づきのことがあると思います。教団信仰告白は「我ら」で始まっているのに、どうして使徒信条は「我」で始まるのか。「我は」と言うより、「我らは」と言ったほうが、なんとなく厳かで、なにより「我ら」のほうが教会らしい響きがする。なのに、どうして使徒信条は「我は」で始まるのかと、疑問に思われる方もあるかと思います。なぜ、使徒信条は「我」なのでしょうか。

これについては、使徒信条がどういう場で用いられたかが深く関わっています。使徒信条は、礼拝でも用いられましたが、どちらかと言うと、礼拝で全員が告白するのに用いられたのは、先ほどご紹介したニケア信条のほうでした。ですから、ニケア信条は「我ら」で始まっているわけです。それに対して、使徒信条が用いられたのは、もう一つの大切な場、洗礼式だったのです。

今は洗礼式は礼拝の中で短時間で行いますが、古代の教会では洗礼式はイースター礼拝の前日の夜から朝にかけて、徹夜で行っていました。聖書が夜を徹して読み聞かされます。そして夜明け前に、礼拝堂の外にある洗礼堂という建物に導かれて、洗礼が授けられました。洗礼志願者は水の中に入って、三度、信仰を問われます。最初は父なる神への信仰が問われます。そこで志願者は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白します。そして次にキリストへの信仰が問われ、最後に聖霊への信仰が問われます。こうして、信仰告白の言葉を父と子と聖霊の三つに分けて告白し、三度、洗礼の水を受ける。こうして初めて信仰の告白が完成し、洗礼が完成する、そして皆が待つ礼拝堂に戻って、主のご復活を祝う礼拝が始まったのです。

今日の説教題を「我信ず」と致しました。古代の教会では洗礼志願者は皆、「我信ず」と最初に言って、父と子と聖霊への信仰を言い表したのです。「我信ず」。これをラテン語で言うと「クレド―」となります。これが使徒信条の最初の言葉です。

今日は使徒信条の成立と深い関わりのあるローマの信徒への手紙10章の御言葉を読みました。中でも10節の言葉は、おそらく、多くの人に知られている御言葉であろうと思います。

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

有名な言葉です。しかし、この有名な言葉は、しばしば誤解をされてきた言葉でもあります。その誤解とは、こういうものです。まず始めに「心で信じて」とあります。ここから、ああ、信仰というのは、まず心に始まるのだと理解をする。まず、自分の心の中で「ああ、そのとおりだ」と納得するところから始まる。しかし、ただ心で信じているだけでは駄目なのであって、それを口に出して言わなければならない、と。

まあ、これは信仰のことだけでなく、一般的なことについても、よく言われることですね。ただ心の中で「ボクも、じつはそう思っていた」などと、今ごろ言っても、もう遅い。思っていたことは、ちゃんと、その時に口に出して言わなければ駄目なのだと、そういうことがここに言われているのだと、理解をされてきたのです。しかし、それはハッキリ言って間違いです。

どうして間違いか。じつは、このパウロが言っている「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」というのは対句の表現でして、一つのことを別の言葉で言い表したものです。どういうことかと言いますと、心で信じることと口で言い表すことは、別々のことではなくて、一つのことなのです。そうでないと、「義とされる」ことと「救われる」ことがバラバラになってしまいます。心で信じたから義とされるところまでは行ったけれど、まだ救われていないなんてことは、あり得ないわけです。

しかし、それなら、どうして私たちは、誤解をしてしまうのでしょうか? それは、おそらく、私たちが信仰について考える時に、まことに日本人的な考えを持ってしまうからではないかと思います。私たち日本人は、神を信じることを自分の心の問題だと考えます。それは、ある意味で間違ってはいないのですが、信仰というのは、そこに留まるものではない。そこに留まってしまいますと、信仰というものが、結局、心の持ち方とか、心の状態といった情緒的なものになってしまいます。しかも、その信仰を、口で言い表す信仰の告白と分けてしまいたがる。そういうところがあると思います。特に私たち日本人は、言葉というものを軽んじる傾向があると思います。言葉で言い表す信仰よりも、態度で、行いで表す信仰のほうを尊んだりもします。

しかし、聖書が重んじているのは、やはり言葉です。しかも、それは私たちの心の思いを述べる言葉ではなくて、教会が大切に伝えてきた信仰の言葉なのです。その信仰の言葉を聞いて信じ、口で言い表すことが大事なのだとパウロは言うのです。では、その信仰の言葉とは、具体的には、どういう言葉なのでしょうか? パウロはそれを9節に、こういう仕方で述べております。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

ここに二つのことが言われております。一つは「イエスは主である」ということ。そして二つ目は「神がイエスを死者の中から復活させられた」ということです。この二つの言葉を、パウロは特に重要視しているわけですが、どうしてこの二つを重要視しているかと言いますと、この二つの言葉が、当時の教会で洗礼式が行われる際の信仰告白の言葉として大事にされたからです。当時はまだ使徒信条のような整えられた信仰箇条はありませんから、洗礼を授ける際に、受洗志願者に向かって「あなたはイエス様を主と信じますか」と問う。すると志願者は「ハイ、信じます」と明確に答える。次に「あなたはそのイエス様を神が死者の中から復活させられたと信じますか」と問う。すると志願者は「ハイ、信じます」と答える。そこでこの二つの信仰の告白に基づいて、洗礼が授けられたのです。

ですから、この二つの言葉は大変に大切な言葉です。確かにこの二つの言葉は、素朴です。使徒信条などに比べたら、素朴過ぎて、むしろ単純だとも言えるでしょう。しかし、代々の教会が大事にしてきた信仰の言葉というのは、素朴なのです。単純で良いのです。高い学歴や知識が無くても言い表すことが出来る言葉。子供でも言い表せる優しい言葉。信仰の言葉とは、そういうものです。

私たちの教会では、洗礼に先立って必ず試問会を行います。そこに洗礼志願者に来ていただいて、洗礼を志すに至った経緯と、現在の気持ちを率直に述べていだだくのです。それはもう、人によって様々です。教会員の友人に声をかけてもらったとか、伝道集会に誘われたのがきっかけになったとか、三浦綾子さんの作品に心開かれて、キリスト教に引かれるようになったとか、ミッションスクールで学んだのが今になって実を結んだとか、いきさつや経緯、事情というのは人それぞれですし、また人それぞれで良いと思うのです。

しかし、その試問会で最後に問うのは、そうした、いきさつや経緯、事情ではない。最後の最後は、「あなたはイエス様を自分の救い主と信じますか」ということ。そして「あなたは神様がイエス様を死者の中から復活させられたと信じますか」ということ、この二つです。これは事情でもなければ、いきさつでもない。どんな信仰体験をしたかでもなければ、誰に導かれたかでもない。何を信じるかということです。何を信じて生きていくかということです。大事なのは、自分がどんなに大きな信仰体験をしたかということではない。どれほど劇的な体験をしたかということでもない。教会が大切に伝えてきた信仰の言葉を、あなたも言い表しますか、という、その一点を問うのです。

信仰の告白というのは、自分独自の言葉で自分の信仰を言い表すことではありません。自分がどれだけ深く、真剣に信じているかを言い表すのではないのです。独自の言葉ではなくて、同じ言葉で言い表す。面白いことに、教会が大事にしております信仰告白の「告白」という言葉。これには「同じ事を言う」という意味がある。「イエスは主である」ということ。「神がイエスを死者の中から復活させられた」ということ。この二つの言葉と同じ事を言う。それが信仰の告白なのです。

自分が先にあるのではなくて、教会が大切に伝えてきた信仰の言葉を、自分も喜んで告白する。それが大事なのだとパウロは言うのです。告白という言葉は、キリスト教会が特に大切にしてきた言葉ですが、いかんせん、日本では誤解されることの多い言葉であると思います。日本で「告白」と言えば、十中八九「愛の告白」か「罪の告白」です。特にテレビなどでは「愛の告白」が9割を占めていると言っても良いでしょう。その場合の「告白」とは、どういう意味かと言いますと、秘めていた心の思いを相手に伝えるということでしょう。つまり、日本で「告白」と言うと、それは心の問題、情緒の問題なのです。それに対して聖書が言う「告白」には、そういう情緒的な意味合いは少しも無いのです。

聖書が言う「告白」というのは「同じ事を自分も言う」という意味がある。もう少し言葉を補って説明しますと、自分独自の言葉で信仰を言い表すのではなくて、教会が大切に伝えてきた信仰の言葉がまずあって、それと同じ事を私も言う。それが信仰の告白なのだと聖書は教えるのです。私はこんなに深く神様を信じていますとか、私はこれほど大きな経験を通してイエス様を信じるようになりましたとか、そういういきさつや、心の状態ではない。教会が大切に伝えてきた信仰の言葉を、2千年前、パウロやペテロが告白したのと同じ信仰の言葉を、私も告白する。それが大事です。この大切なことがぎゅっと凝縮されたのが、使徒信条です。パウロやペトロまで遡ることが出来る、この信仰の言葉を、これからご一緒に学んで、私たちの信仰の中身を確かなものとしていきたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

1月19日(日)のみことば

「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(旧約聖書:詩編23編6節)

「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」(新約聖書:コロサイ書3章15節)

今日の新約の御言葉にある「一つの体」というのは教会のことです。教会がキリストの体だということは、私たちはよく聞きますし、言葉の上ではよく承知しているところです。しかし、現実の教会を見ますと、どうでしょう。現実の教会は罪人の集まりであり、いさかいがあったり、あの人とはどうもウマが合わんというようなことも、しょっちゅうある。そういう現実の姿を見るにつけ、うちの教会はちっとも教会らしくないとか、世間の集まりのほうがよっぽど教会的だとか、不平・不満が出てきます。

しかし、「教会はキリストの体だ」というのは現実の姿を言い表しているわけではない。事実を言っている言葉です。現実というのは目に見えるのです。しかし、事実というのは必ずしも目に見えるものではありません。「信仰とは見えない事実を確認することだ」という御言葉があります。時に「事実」は目に見えないのです。その事実を信じることが大事です。それを信じて教会に生きる。それが出発点です。