聖書:イザヤ書52章7~10節・ローマの信徒への手紙10章14~18節
説教:佐藤 誠司 牧師
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10章17節)
先週から使徒信条による説教が始まりまして、今日が二回目です。使徒信条は最も古い信仰告白であると言われます。また使徒信条は、多くの教派に分かれたキリスト教会の多くがこれを告白しているという点で、世界信条と言われます。私たちも日本基督教団信仰告白の中で使徒信条を告白しています。つまり、私たちは使徒信条によって信仰を言い表して、洗礼へと導かれたわけです。
日本人にとって、信仰というのは、本来、馴染みが薄いものではないかと思います。日本人にとって、馴染み易いのは、信仰ではなく、むしろ信心ではないかと思います。
信仰というのは、読んで字のごとく、信じて仰ぐことです。仰ぐのですから、これは相手がいるのです。しかも、仰ぐと言うのですから、この相手は自分よりも高い所におられる。つまり、神様という絶対他者が相手となってくださる。それが信仰の信仰たる所以です。
それに対して、信心というのは、信じる心と書くことからも分かるように、必ずしも相手を必要とはしない。自分の信じる心が最優先される。「鰯の頭も信心から」という諺もあるように、極論をいえば、相手は鰯の頭だってかまわない。大切なのはどなたを仰ぐかではなくて、私たちの主観的な信じる心です。ですから「どの宗教も言ってることは同じだ」などという乱暴な言い分も、この国では、幅を利かすようになるわけです。どなたを仰ぐかではなく、どれほど熱心に信じるか、日本人の信心は、まさにそこに比重が掛かってくるわけです。
こういうところから、日本では、しばしば、救いと悟りを混同することが起こりました。日本人は昔から、救いを求める時に、山へ籠ったり、出家をしたりします。それは、世間との交わりや雑念を一度断ち切り、世の心遣いを離れて、本当に一人になりたい。一人になって深く瞑想し、悟りを得たい。悟りの境地に達したいと考えるわけです。その悟りを、多くの日本人は救いと考え、悟りの境地を信仰と考えている。
しかし、聖書が私たちに指し示している救いは、悟りのことではありません。悟りというのは、とどのつまり、自分の中にあるものを見つけることです。しかし、救いは私たちの中にはない。救いは外から来るのです。神様が私たちに語りかけてくださる。「私はあなたと共にいる。あなたを決して見捨てない。私はあなたを救い出す」と、そう語りかけてくださる神様のお言葉を聞いて、「ああ、そうだったのか」と、それを信じて受け取ることが、聖書の教えている救いであり、信仰です。
ローマ書の10章の御言葉を読みました。ここには、有名な御言葉が出て来ます。17節の言葉です。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
信仰とは聞くことによって始まるのだとパウロは言うのです。同じパウロが書きましたガラテヤの信徒への手紙の3章23節に、こんな言葉があります。
「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視されていた。」
面白い言い方をしています。「信仰が現れる」という言い方をパウロはしているのです。しかも、この「現れる」という言葉には、もう一つ「やって来る」という意味がある。つまり、パウロはここで、信仰とは現れるもの、やって来るものというふうに位置付けていることになります。これは、私たち日本人には想定外のことではないでしょうか。私たち日本人は、信仰とは私たちの中に生まれて、私たちの中で育まれるものだと考えます。だから日本人は、自分が信仰を持ったり、捨てたり出来るものと考える。「私の信仰」という言い方に、何の違和感も感じない。
しかし、パウロは「そうではない。信仰は外から来るのだ」と断言しています。外からと言っても、どこでも良いということではありません。神様のもとから信仰は来る。それがパウロの真意です。
では、信仰は神様のもとから、私たちのところに、どういう形でやって来るのでしょうか。この問いに答えているのが、今日読んだローマ書10章17節の言葉です。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
信仰は聞くことによって始まる。何を聞くのでしょうか。福音を告げる言葉を聞くのです。では「福音」とは何かという疑問が、次に浮かび上がってきます。ローマ書10章の15節に「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という言葉があります。このカッコで閉じられた部分は、今日読んだイザヤ書52章7節の言葉をパウロが引用して語っているところです。この「良い知らせ」というのが「福音」のもとになった言葉です。この言葉は「良い知らせ」のほかに「良いおとずれ」「勝利の知らせ」という意味もあった言葉で、これはキリスト教会が使い始めるまではギリシアの世俗社会で使われていた言葉です。
当時のギリシアはポリスといって、都市の一つ一つが国家を形成していて、お互いの間に戦争がしばしば起こった。戦場で激しい戦いが続いている。それを、じっと見守っている人がいる。この人の役目は、戦うことではなくて、戦いの結末を本国に知らせる伝令でした。彼は戦況をはらはらしながら見守っている。そしてついに、自国の軍隊が勝利した。その勝利の事実をしかと見届けて、彼は脱兎のごとくに駆け出します。本国を目指して、野を超え、山を越えて、彼は休むことなく駆け抜ける。
そして彼は勝利の知らせを本国の人々に告げ知らせたのです。これが福音のもとになった出来事です。一方に勝利の事実があって、もう一方には、その事実をまだ知らない人々がいる。これはまさにキリストの十字架と復活の御業のことではないかと、キリスト教会がこの言葉を受け入れた。そして「福音を宣べ伝える」という言い方で、福音という言葉を用いた。これが定着して、福音という言葉は、いつしかキリスト教の専売特許のような用語になりました。
パウロが「信仰は聞くことによって始まる」と言ったのは、この福音を聞くということです。キリストの十字架と復活において起こった神の勝利を事実として聞くのです。勝利という言葉は戦争と結び付いた言葉でしたから、これに抵抗を覚える人々もいたようです。しかし、これは、勝利と言っても戦争の勝利ではありません。罪と死の力に対する勝利です。主イエスも勝利を語っておられます。
「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネ福音書16章の言葉です。主イエスも勝利を語っておられるのです。確かにこの言葉は戦争と不可分に結びついた言葉です。しかし、主イエスは、むしろ大胆に勝利を語っておられる。なぜなのでしょうか。戦利品の存在があるからです。イザヤ書53章の「苦難の僕」の歌に、こんな一節があります。
「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」
私たちは勝利がもたらす戦利品としてキリストに属する者、すなわちキリスト者とされたのです。これが罪と死の力に対する勝利の中身です。
ここでパウロは、私たちに一つの問いかけを投げかけております。14節です。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」
外から語りかけられる言葉を聞くのです。語りかけられること無しに、私たちは信仰を持つことは出来ません。信仰は悟りではないからです。では、その「神様の御言葉を聞く」ということは、どのようにして起こってくるのか?
私たちが神様の言葉を聞く。そこには必ず仲介になってくれた人がいます。14節の最後に、こう述べられています。
「また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことが出来よう。」
皆さんは今日、この日の礼拝に集うておられるわけですが、考えてみれば、これは不思議なことです。聖書も知らず、神様のことも知らなかった私が、今、神様を信じて礼拝している。どうして、そうなったのだろう。始めから神様のことを知っていたわけではありません。イエス様のことを求めていたわけでもない。しかし、今、振り返ってみますと、必ず、私たちに神様のことを語ってくれた人、教えてくれた人がいました。それは必ずしも言葉で教えてくれたとは限りません。生き方を通して神様のこと、イエス様のことを教えてくれたのです。
そもそも、この日本の国に福音が伝えられたのも、明治の初め、まだキリスト教、当時は耶蘇教と言いましたが、キリスト教が禁じられていたときに、はるばると故国を離れて日本に来た宣教師たちがいたからです。この人たちは、たった一人の日本人をキリストに導くために全生涯をささげてやって来た。一人の日本人を導くために、多くの祈りが積まれたのです。このように、私たちが今こうしてキリストを知って、神様を信じて礼拝をしているということの背後には、じつに多くの人の働きがあったわけです。パウロは「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことが出来ようか」と言いました。本当にそのとおりだと思います。今、私という人間が教会へ来て礼拝をしているということは、多くの人の祈りと働きに支えられていることであって、決して私事ではないのです。パウロは言いました。
「遣わされないで、どうして宣べ伝えることが出来よう。」
彼らは皆、「あなたは日本へ行ってこの福音を伝えなさい」と言われて、やって来た。そういう、多くの仲立ちをする人たちの労苦に支えられて、私たちは福音を聞いた。本当に有難いことです。
とまあ、ここで終わっておれば、美談となるのでしょうが、ここでパウロは、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と述べた後で、一つの重大な問題を提起しております。
「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、誰がわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」
確かにキリストの福音は、多くの人の献身的な働きによって日本に伝えられましたが、それを聞いた人が皆信じたかというと、そうではない。信じなかった。聞いても信じなかった。それが現実です。なぜでしょうか? ここで私が不思議に思いますのは、聞いても信じなかったという現実を示した上で、パウロが「信仰は聞くことによるのだ」と述べていることです。聞いても信じないのが人間の現実であるならば、今さら「信仰は聞くことによって始まる」などと言っても、空々しく響くだけではなかと、そう思われた方もあるかも知れません。そういう意味では、確かにここは矛盾していると言えるかも知れません。しかし、私はこの、一見矛盾にしか見えないところに、パウロの言いたいことはあると思うのです。パウロは言います。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
聞いて信じる。これがキリスト教信仰の肝心要です。聞かなければ、信じるという出来事は起こらない。しかし、聞いた人すべてが信じるわけではない。どうしてなのでしょうか? 福音の言葉を聞いて信じた人には、ほかの人には無い出来事が起こっているからです。何が起こったのか。聖書はそれを「主が心を開いてくださった」と述べています。
こうして、その人の中で、「心開かれて御言葉を聞く」ということが起こっていく。自分が頑張って心を開くのではない。主が心を開いてくださって、御言葉を聞くことが出来るようにしてくださる。
信仰は聞くことによって始まるのだ、とパウロは言いました。心開かれて御言葉を聞くのです。すると、まことに不思議としか言いようがありませんが、2千年前の言葉が、今の私の心に語りかける言葉として響き渡る。信仰は聞くことによって始まる。日々始まっていく。これは本当のことだと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
1月26日(日)のみことば
「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。」(旧約聖書:エレミヤ書1章9節)
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群集はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(新約聖書:マタイ福音書7章28~29節)
今日の新約の御言葉は、主イエスの言葉には権威があったと語っています。権威とは何でしょうか? 普通、権威ある言葉といえば、私たちは学者のような人が語る言葉を連想しますが、聖書はそうではないと言うのです。律法学者のような学識や知識、学歴に寄りかかった、見せ掛けの権威ではなく、主イエスはまことの権威を持ってお語りになったのだと聖書は言う。では、まことの権威とは何か?
「権威」というこの言葉は、もともと「人を支配する力」という意味のあった言葉です。暴力や権力による支配ではありません。神の支配のことです。神様は、いったい何によって人を支配されるでしょうか。神様は御自分の栄光をもって人を支配なさる。すると、その人は、自分の権威を振りかざすことが出来なくなります。そして、その人は、身も心も神様のご栄光を映し出す者とされる。そういう人間の暴力や権力が絶対に為し得ない支配力のことを聖書は「権威」と呼んだのです。これが「まことの権威」、主イエスの権威です。