聖書:イザヤ書53章1~12節・マルコによる福音書8章31~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マルコによる福音書8章31~33節)

 

先週の水曜日、2月22日は、昔から「灰の水曜日」と呼ばれている特別の日です。教会の暦では、この日から「レント・受難節」が始まります。主が十字架についてくださった、その苦しみと贖いの恵みを覚えて過ごす日々が「レント・受難節」です。それに合わせたかのように、今日、マルコ福音書第8章の受難予告の物語が開かれました。これは、とても象徴的と言いますが、偶然ではない導きを覚えます。まず、何を措いても、そこを読んでみたいと思います。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」

教え始められた、となっています。これは、じつは継続を意味する言い方でありまして、主イエスは、ここに始まって、御自分の受難を繰り返し教え始められた、ということです。エルサレムに向かって歩みながら、ご自分が殺されることを、繰り返し教えられたのです。

なぜ、繰り返し、教え始められたのか? それは、ペトロを始めとする弟子たちの心が、あまりにも頑迷と言いますか、頑なだったからです。ここを解き明かすためには、主イエスが受難を予告なさったその状況を、もう一度、振り返り、確認をしておく必要があります。

フィリポ・カイサリアでの出来事です。イエス様が改まった口調で、弟子たちにお尋ねになりました。

「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」

この問いかけに、他の弟子たちが沈黙する中、ペトロが答えました。

「あなたこそ、メシアです。」

この「メシア」というのは、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」で大変有名になりまして、その場合「救世主」とレコードジャケットにも付記されることが多かったものですから、私たちは「メシア」と言えば「救世主」のことだと思っています。しかし、じつは「メシア」という言葉ほど、時代と共に大きな変遷を遂げた言葉も珍しいのです。

もともと、「メシア」というのは「油注がれた者」という意味のヘブライ語です。その「油注がれた者」というのを、ギリシア語に移しますと「クリストース」という言葉になるのです。この「油注がれた者」というのは、旧約聖書に出て来ますが、王が即位する際に、高価な香油を頭に注いだのです。サウルが王に即位するとき、またダビデが即位する際にも、祭司サムエルが彼らの頭に香油を注いでいます。

しかし、その後、この「メシア」という言葉の意味は、人々の期待と共に大きく変遷していきます。

まず、この言葉は「油注がれた王」だけでなく、王に加えて、預言者と祭司の務めを全部併せ持つ救い主という意味を持って来ました。王であると同時に預言者であり、祭司でもある。そういうメシア像が、人々の中で出来上がっていったのです。しかし、そこまでなら、まだ良かったのです。と言いますのは、ここまでメシア像が膨らんで来ますと、あとは、もう、膨張の一途をたどるしか道はありません。と言いますのも、この時代、ユダヤの人々は外国、特にローマ帝国の圧制に苦しめられていましたから、人々の期待は、嫌が上にも、メシア像を膨らませて行きました。そして、メシアという言葉のイメージは、ついに、宗教的な意味合いを超えまして、政治的な意味をも持つようになっていったのです。

どうして「メシア」という言葉が、よりによって、政治的な意味合いを持つのかと、皆さんの多くは怪訝な思いを抱かれるかも知れません。しかし、人々は期待したのです。あのローマ帝国のような巨大な政治的な権力をも打倒する、力あるメシアの到来を期待した。主イエスがお生まれになる頃、ユダヤの人々が思い描いていたメシア像とは、そういうものだったのです。

ペトロも、そういう時代の波の影響を蒙っていたことは、大いに想像のできることでありまして、ペトロが見事に「あなたはメシアです」と答えた。これは、確かに見事な信仰の告白ではありますが、ペトロがイエス様に期待していたのは、やはり同時代のユダヤの人々と同じことだったのであり、そういうものを期待して、「あなたこそ、私たちが待ち望んでいたメシアです」と彼は答えた、ということです。ペトロが期待していたのも、ローマ帝国の圧制を打倒するような政治的に偉大な指導者であり、いかなる王にもまさる、偉大な王だったのです。

だから、ペトロは、主イエスの口から、受難を予告する言葉を聞いた時、どうしたか。32節に、極めて興味深い言葉が記されています。

「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」

これの、いったい、どこが興味深いのかと言うと、この「いさめ始めた」というところの「いさめる」という言葉と、このあと、イエス様がペトロを叱ったというところの「叱る」という言葉は、全く同じ言葉なのです。ですから、ペトロはイエス様を「叱った」というふうにも翻訳が出来るわけです。でも、ペトロがイエス様を叱るというのは、いくらなんでもおかしいので、「いさめ始めた」と訳したのでしょう。

しかし、マルコ福音書の特徴や主張を思いますとき、案外、マルコは「ペトロがイエスを叱った」というニュアンスを込めていたのではないかと思います。「叱る」という行為は、あくまで、上に立つ者が下の者に向かってすることです。上司が部下を叱るわけです。ということは、どうでしょう。ペトロはこのとき、一時的にせよ、イエス様よりも上に立っていたということではないでしょうか。ペトロは、受難を予告なさるイエス様に向かって、「なんて愚かなことを言うのですか」と上から目線で叱ったのです。そのペトロに向かって、イエス様は、何と言われたことでしょうか。33節に、こう書いてあります。

「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

ペトロのことを「サタン」、つまり、悪魔と呼んでおられる。しかも、「弟子たちを見ながら、ペトロを叱られた」と書いてあります。ペトロだけではなかった。弟子たち全員の心に、神のことよりも人間のことを優先するサタン的な思いが忍び込んでいるのを、イエス様は見逃してはおられない。

「サタン、引き下がれ」とイエス様は言われたのです。この「引き下がれ」というのも、興味深い言葉です。イエス様は「向うへ行け」と言っておられるのではないのです。そうではなくて、私の前に出るな、と言われたのです。先ほど、私は一時的にせよ、ペトロはイエス様よりも上に立っていたのだと言いましたが、その意味では、イエス様はペトロに「私の上に立つな」とおっしゃった。そう考えて良いと思います。あなたは私の下に立ちなさい。弟子としての立ち位置を取り戻しなさいとハッキリ、言われたのです。

でも、これは「引っ込んでろ」とか「でしゃばるな」とおっしゃったということではない。イエス様がペトロに「引き下がれ」と言われた。その背後には、やはり、大きな愛があると私は思う。また、イエス様がペトロを「サタン」と呼ばれたことの背後にも、私は同じ愛があると思っております。愛のある叱責なのです。親が子供を叱るときも、そうだと思いますが、叱責の言葉、叱る言葉に愛があるか、無いか、それは叱られた側にはすぐに分かる。愛のある叱責が、子供を立ち直らせる。そういうものでしょう。では、ペトロをお叱りになった、サタン呼ばわりされた、その背後にある愛とは、どういうものだったでしょうか。イエス様は、こう言っておられるのです。

「わたしの下に立ってごらんなさい。そうすれば、あなたの心の中に悪魔が住んでいるのが分かるだろう。あなたはそのサタン・悪魔を追い出さなければならない。」

心の中に住む悪魔・サタンとは何か? それは神様ではなく、自分が中心になろうとする思いです。イエス様に従うふりをしながら、自分がのし上がろうとする思いです。それはペトロのみならず、弟子たちすべての中の奥底に潜む思い・願望であったと私は思っています。これは、福音書が克明に伝えていることですが、弟子たちの間にしばしば起こった議論は、自分たちの中で誰が一番偉いかという議論でありました。

また、これはマタイ福音書が伝えていることですが、兄弟二人でイエス様の弟子となっていたゼベダイの息子たちの母親が、二人の息子と共にイエス様の前に進み出て、とんでもないお願いをした出来事がマタイ福音書の第20章に記されています。ステージママの走りとでも言うのでしょうか。母親はこんなことをイエス様に願ったのです。

「あなたが王座にお着きになる時には、わたしの二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください。」

とんでもないことを願い出たのです。しかも、面白いことに、ほかの弟子たちは、どうしたかと言うと、ゼベダイの息子たちに先を越されて皆、腹を立てたと書いてある。つまり、弟子たちの誰もが、ゼベダイの息子たちと同じ願いを隠し持っていた、ということです。それが、はからずも、ゼベダイの息子たちの母親の一件で明らかになったのです。イエス様も、それを見抜かれたのでしょう。イエス様は皆を呼び寄せて、こうおっしゃったのです。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

ここは、聖書の中でも、極めて大切な箇所です。なぜ大切かと言いますと、このお言葉が、じつはイエス様の生き方と、キリスト者の生き方を繋いでいる。キリスト教倫理の根底にある御言葉だからです。そして、この御言葉は、今日のマルコ福音書第8章の物語と併せて読まれることが多い御言葉です。今日の箇所で、イエス様は弟子たちに、こう言われました。

「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

命という言葉が出ております。命と聞くと、私たちは、生物的な生命のことを想像してしまいます。しかし、聖書は、もともと、そういうものに関心が無いのです。聖書が言う「命」とは、もっと根源的なもののことです。ですから、ここに言う「命」も、「魂」と翻訳することも出来るし、さらに言えば「まことの命」とも訳すことが出来る。そういう言葉です。自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。そうすれば、まことの命が得られる。そうイエス様は言っておられるのです。

自分の十字架を背負って、イエス様に従う。イエス様のすぐ後ろを、付いて行くのです。そうすれば、何が見えるでしょうか。そう、私の罪を、私の身代わりとなって背負っておられる主イエスの背中が見えて来る。ここに立つことが大事です。ここに立って、赦された罪人として歩むのです。

ですから、私たちは、「自分の十字架を背負いなさい」と言われて、「はて、私の十字架は、どこにあるのかしら」と、周りを見回したり、探し回る必要は、無いのです。イエス様の十字架によって贖われた自分を、人目にさらして生きていけば良いのです。私たちが、イエス様のすぐ後ろを、着いて行こうと決心し、イエス様のすぐ後について歩もうと、その歩みを始めた時に、私たちは、すでに、自分の十字架を背負っている。家族のための心砕くときも、我が子を愛するときも、夫婦で助け合って歩む時も、周りの人たちに仕える時も、自分の十字架を背負っている。

十字架とは何でしょう。これは私たち人間の根源的な罪を全部背負うものです。私たちが背負わなければならなかった罪を、イエス様が身代わりになって担われた。それによって、私たちに本当の命を与えるものです。「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とヨハネ福音書は言いました。永遠の命とは、神様の御前で生きる。生かされて生きるということです。御前に清い者とされて生きる。使徒パウロがローマ書の中で言いましたように、神様の御前で清い人など、一人もいなかったのです。それが、今やこのお方の十字架と復活によって、汚れた人など一人もいないのだと、そう確信を持って言うことが出来る。赦された罪人とは、そういうことだと思うのです。

私たち人間は、自分のとんでもない性格や醜い性質を、忘れてしまおうとする性質があります。人に触れられたくないのはもちろん、自分でも触れたくない。そういうものが、どなたの中にも、あると思うのです。私の中にも、ありますし、皆さんの中にも、あると思います。普通、そういうものは、忘れて日々を過ごしています。忘れてしまうと、確かに楽なのです。しかし、そのことが本当の意味で解決されないと、本当の生き方が出来なくなる。ごまかした生き方しか出来なくなる。それで良いのですか、というのが、聖書の問いかけているところです。そういうときこそ、私たちは、主イエスのお言葉を聞きたいと思います。

「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

自分でも触れたくない自分、忘れてしまいたい自分の問題が、キリストの十字架と復活と、どういう関係にあり、どういう解決が成し遂げられているのか。そこをきちんと白日のもとにさらけ出し、始末をつけていただく時に、この御言葉の扉は開かれます、そこまで、とことん聞き続ける。自分の弱さや問題点をさらけ出して聞き続ける、そのことが大事なのです。

ですから、皆さんお一人お一人が、自分の本当の問題は何か、その問題のために、キリストは十字架にかかり、死者の中から復活をなさったということを、きちんと受け止めて、心に刻んでいただきたいと思います。そして、皆さんお一人お一人が、イエス・キリストの贖いの御業を他人事のように思うのではなく、キリストの御業によって与えられている自分の救いというものを、しっかりと確認していただきたいと思います。主は私たちのために十字架についてくださって、私たちが神様の子どもとなるうえで差し障りとなっていたものをすべて、取り除いてくださいました。そして、私たちが神の子として生きていくために、甦ってくださった。私たちの中にその命を与えてくださった。永遠の命とは、このことです。そして、この命をもたらすのが福音なのです。福音を信じ、感謝をもって受け取る。そこにご一緒に立ちましょう。

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

以下、本日のサンプルです。

愛する皆様

おはようございます。 今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月26日(日)のみことば(ローズンゲン)

「あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうするのをお許しにならない。」(旧約聖書:申命記18章14節)

「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(新約聖書:第二コリント書1章9節)

パウロといえば、大変に偉大な伝道者ですが、今日の新約の御言葉には、あのパウロが落胆したことが書いてあります。しかも、その落胆ぶりが半端ではないのです。パウロともあろう人が、どうしてこれほど激しく落胆するのかと思いますが、どうもパウロとコリント教会との間には、いつも問題があると言いますか、そもそもコリント教会という教会が問題を多くはらんだ教会であったようです。そういう大変な教会ですから、パウロもコリント伝道には本腰を据えて臨みました。

さらに一つ、コリント伝道について、心に留めておきたいことがあります。パウロがコリント教会との葛藤で大いに悩んで、それがやっと解決をみたあと、パウロはコリントの町に3ヶ月の間、滞在をするのですが、そのときに書かれたのがローマの信徒への手紙なのです。ですから、ローマ書にはパウロがコリントで経験した様々な苦悩や苦闘が、それとなく影を落としているのです。コリントでの労苦は無駄ではなかったのです。