聖書:サムエル記上3章1~14節・ローマの信徒への手紙10章17節

説教:佐藤 誠司 牧師

「エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言いなさい。』サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております。』」(サムエル記上3章8~10節)

 

今日は旧約のサムエル記上の御言葉を読みました。ここにはサムエルという少年が神様の言葉を聞いたということが書いてあります。その有様が大変印象的に描かれていますので、この物語は多くの人に愛されました。また少年が主人公ということもあって、教会学校やキリスト教の幼稚園でも愛されて、子供たちのための賛美歌も作られました。先ほど、私たちが歌ったのも、その一つです。でも、少年サムエルは、どのようにして神様のお言葉を聞いたのでしょうか。

サムエルという人は、約束の子として誕生しました。お母さんはハンナと言いまして、子供が与えられなくて、大変辛い目に遭っておりました。それで、ハンナは神殿に行って、神様に「どうか男の子を与えてください。男の子が与えられたなら、その子を一生、神様におささげします」と、お祈りをした。この祈りが聞かれて与えられたのがサムエルだったのです。

ハンナは神様に約束したとおり、しばらくサムエルを手元に置いていましたが、サムエルが乳離れをした時、意を決して手元から離し、神殿の祭司エリに預けました。この時からサムエルは祭司エリの小さな僕として仕えるようになったのです。そんなある日、不思議な出来事が起こりました。それが今日読んだ箇所です。3節に、こう書いてあります。

「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。」

これが事の始まりです。エリは年老いて、もう目が見えなくなっていましたので、ほとんど自分の部屋で過ごしている。ですから、サムエルは神様の契約の箱が安置してある神殿で、おそらく不寝番のようにして横になっていたのでしょう。その時に神様が「サムエルよ、サムエルよ」とお呼びになった。突然のことでしたから、サムエルはそれが神様のお声であるとは分からなかった。

7節を見ますと、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」と書かれています。とは言え、神殿の不寝番を任されるのですから、サムエルは神様のことはエリから聞いて知っていたでしょう。しかし、聞いて知っているというのは、まだ本当の体験ではない。まだ神様を実体験としては知らなかった。サムエルは、そういう状態だったのです。

ところが、神様は、何もかも知っているエリにではなく、何も知らないサムエルに語りかけられた。ここがこの物語の眼目です。しかも、その時、神様は名前を呼んでおられます。「おい、おい」とか「もしもし」ではなく、「サムエルよ、サムエルよ」とハッキリ名を呼んでおられる。なんでもないようで、これは大きなことです。神様が名前を呼んでくださるというのは、神様がその人を一人の人格として御心に留めてくださる、目を注いでくださるということです。神様は、今初めてサムエルのことを心に留めて、目を注いでおられるのではない。ずっと前から、サムエルのことを心に留め、目を注いで、そして今日、時が満ちて、サムエルの名を呼ばれたのです。

ところが、サムエルはどうかと言えば、神様のことは聞いて知ってはいましたが、自分に語りかけてくださるとは、思ってもみなかった。御言葉を聞く備えが出来ていなかったのです。となると、当然、この声はエリ先生が自分を呼んでおられるのだろうと思った。

ここは、何気ない表現ですが、じつは私たちにとっても意味深長なことが言われております。どういうことかと言いますと、御言葉を聞く備えが出来ていないと、御言葉が語られた時に、それが神様の語る御声だと分からずに、誰かほかの人の声だと思ってしまう。気のせいだと思ってしまう。そういうことって、あると思うのです。

さて、サムエルはエリのところへ急ぎ向かいます。エリ先生がお呼びだと思ったのです。サムエルが「お呼びになったので参りました」と言うと、エリは「私は呼んでいない。戻ってお休み」と言う。こういうことが三度あったと聖書は語っています。ここらへんの語り口は大変に鋭いものがあると思います。私たちは、神様が語りかけられた時に、それが神様のお言葉であることに、なかなか気が付かないのです。神様は人を通してお語りになる。時に複数の人を通して語られることもある。しかし、その人と人とのやり取りを通して神様が語っておられることに、私たちは気が付かない。これはあの人が言っていること、この人が反対していること、あの人とこの人が言い合っていることだと、どこまで行っても人と人との交渉だけで、この世を渡り歩いてしまう。このことが3章のはじめのところに、こう書いてあります。

「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」

これは意味深長と言いますか、よくよく注意して読まなければならない御言葉だと思います。確かに、当時、神様の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれだったでしょう。その意味で、この言葉は、額面通りの読み方をして良いのです。ところが、この御言葉は、それだけでは終わらないことまで語っている。どういうことかと言いますと、神の言葉も、幻も、共に人の心に示されるものでしょう。ならば、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれだったというのは、神様が語られるのが少なく、幻を示されることもまれだったというだけではなくて、主の言葉や幻を受けるべき人の心が荒れすさんでいたのだと、この御言葉は、そこまで語っているわけです。

だからこそ、3回も神様がサムエルの名を呼んでおられるのに、エリは気が付かない。エリの心も、すさんでいたのです。そんなすさんだ時代の中で、神様は幼子サムエルに語りかけられたというのが、この物語の主題です。

さて、三度目に主がサムエルの名を呼ばれ、サムエルがエリのもとに来た時、エリはやっと事の次第を見て取ります。ああ、これは神様がサムエルを呼んでおられるのだと悟って、こう言います。

「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」

ここでエリは何をしているかというと、牧会をしているのです。牧会には様々な面がありますが、一つ大事なことは、その人が神様の言葉を聞けるように姿勢を整えて、手引きをしてあげるということ。それが牧会の大切な要素です。神様の言葉を聞くというのは、ただ単に聞こえているというのとは違います。あぐらをかいて、ふんぞり返って聞けるものではない。姿勢を整えて、心を傾けて聴く。そのことをエリは手引きをして教えてやったのです。

さて、神殿に帰ったサムエルは、エリに教えられたとおりにしました。そうしますと、また「サムエルよ、サムエルよ」と呼ぶ声が聞こえたので、サムエルは起き上がって姿勢を整えて、「僕は聞きます。主よ、お話しください」と言いました。そうすると、神様はサムエルに、やがて起こるべき大きな出来事をお語りになりました。この時にサムエルが神様に向かって言った事。「主よ、お話しください。僕は聞いております」という言葉は、私たちが礼拝に出ている姿勢と同じだと思います。もちろん、私たちは礼拝で賛美歌を歌ったり、お祈りをしたり、いろいろなことをします。しかし、結局のところ、私たちは礼拝に於いて、神様の前に出ている。神様と真向き合いになっているわけです。いつ、名前を呼んでいただけるか分からない。そして、この私に、ほかの人には出来ない御用を言いつけてくださる。

先週の礼拝で読んだ士師記のギデオンも、預言者のイザヤやエレミヤも、モーセもそうですが、神様に名前を呼ばれて御用が言いつけられた時、彼らは決まって、ためらっています。躊躇しているのです。ギデオンは「私はこんな役立たずの人間です」と言いましたし、エレミヤは「私はただの若者に過ぎません」と言いました。イザヤは「私は汚れた唇の者です」と言って会様の御用を固辞しました。モーセは口下手な自分を心から恥じて、尻込みしました。しかし、彼らは、その挙句に神様の御用を一身に引き受けている。なぜでしょうか。彼らは皆、神様の前に立ったから。「主よ、お話しください。僕は聞いております」という姿勢で立っていたからにほかなりません。

僕は聞きます。この「聞きます」というのは「聞こえます」というのとは全く違います。聞こえるというのは、何の準備もしなくても、聞こえてくるのです。真夜中、サムエルが寝ている時に「サムエルよ、サムエルよ」という声が聞こえてきた。あれが聞こえるということです。サムエルは何の準備もしていません。

しかし、「僕は聞きます」と言った時、事態は一変しました。神様が私に語ってくださると信じて、それを聞こうとしている。聞くというのは、単に耳で聞くということではない。生き方に関わることです。私たちの人生に関わることです。

ですから、私たち一人一人が、自分の人生というものを本当の意味で考え始めるのは、この「主よ、お話しください。僕は聞いております」という姿勢に立った時からです。それまでは、ただ聞こえている人生を歩んでいるに過ぎません。あの人がああ言った。この人はこう言っておる。世間はこう言っていると、人の声、世間の声だけが聞こえて、それに動かされ、惑わされて、右往左往している。そんな生き方は、もう止めにして、聞くべき言葉を聞き、それに従う生き方に身を任せたいと思います。

サムエルは、まさにそういう生き方に身を転じました。サムエルは、主に聞き従うことが何よりも大事なんだということを、死ぬまで人生の基本に置いて歩みました。神様に聞き従うことが、彼の生きる道になりました。そして、どうなったかと言いますと、あの小さな少年であったサムエルが、全イスラエルを一つにまとめるという、いわば第一人者になったのです。イスラエル全体を代表して神様に仕えるという大きな役割を、彼は担った。よく知られているように、サムエルはサウルをイスラエルの最初の王に立て、次の王にダビデを立てます。しかし、注意してみますと、サムエルが立てた王は、サウルにしてもダビデにしても、絶対王権を持つ王ではなく、神の言葉に聞き従う神の僕としての王だったことが分かります。二人の王だけではありません。サムエルはイスラエル全体を神の言葉に聞き従う、神の僕として立てようとした。そのすべての原点が、あの言葉でした。

「主よ、お話しください。僕は聞いております。」

この言葉は、じつはサムエルだけではない。主の日に礼拝をする私たち一人一人の原点です。礼拝というのは、私の行為ではありません。相手があって初めて成り立つ営みです。神様が相手になっていてくださる。相手という言葉には、真正面にいるという意味があります。神様が私の真正面におられて、私たちの名を呼んで、声をかけてくださる。ですから、少年サムエルが言ったあの言葉が、そのまま、私たちの礼拝の原点になるのです。

「主よ、お話しください。僕は聞いております」

ここに、この原点に、ご一緒に立ちましょう。

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月12日(日)のみことば

「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」(イザヤ書53章5節)

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ福音書15章34節)

今日の新約の御言葉は十字架上で叫ばれた主イエスの最後のお言葉です。私たちが、この言葉によって深く心に刻まなければならないのは、父なる神様がご自分の独り子である主イエスを裁いておられる、見捨てておられる、ということです。なぜなのでしょうか。ここで私たちが思い至るのは、クリスマスの出来事の真相です。神の独り子が人として生まれてくださった。私たち罪人と全く同じ肉体を持つ人間となって、この地上に生まれてくださった。それがクリスマスの出来事でした。なぜ、神の子が人とならなければならなかったか。それは、このお方が、すべての罪人の代表として、神に見捨てられ、裁かれて死んでいくため。今日の旧約の御言葉が成就するためだったのです。

主イエスは、まさに私たちの代表者になってくださった。そして、身代わりになってくださった。神様に見捨てられて死ぬという、誰も耐えることが出来ない苦しみ、誰も担うことが出来ない重荷を、主イエスは負うてくださった。神に見捨てられて、惨めに死んでくださった。それが主イエスの十字架の真相です。