聖書:詩編23編1~6節・ヨハネによる福音書10章11~15節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り、恵みと慈しみは、いつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23編1~6節)

 

今日は旧約の詩編の第23編を読みました。今一度、1節の言葉を読んでみたいと思います。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」

いかがでしょうか。大事なことを一気に言い切ったという感じです。ここに、この詩編23編のすべての思いが凝縮されています。しかしながら、残念なこともあります。それは冒頭の「主は羊飼い」という翻訳です。ここは昔の文語訳聖書ですと「主は我が牧者なり」となっていました。次の口語訳聖書でも「主はわたしの牧者」となっていました。さらに最新の聖書協会共同訳聖書も「主は私の羊飼い」となっている。「我が」と「私の」の違いはありますが、いずれも主なる神様と私の関係を明確に打ち出している。そういう翻訳になっています。

ところが、新共同訳聖書は、神様と私の関係を明確に打ち出す要の言葉を落として「主は羊飼い」と訳してしまったのです。これは、ちょっと問題な翻訳です。「主は羊飼い」と訳してしまいますと、神様と私の関係がぼやけてしまって、どこか他人事のような響きになってしまいます。やはり「我が」「私の」というのは落とせない要の言葉だと思います。

こんなふうに、日本語というのは響きがデリケートで、たった一文字でニュアンスがガラリと変わってしまう。例えば「てにおは」の問題があります。今日の詩編の冒頭の言葉も「主は私の羊飼い」と訳しても「主が私の羊飼い」と訳しても良いのですが、ニュアンス的には、この二つはかなりの違いがあります。どういうふうに違うかと言いますと、「主が私の羊飼い」というのは「あなたの羊飼いはいったい誰なのですか」という質問に答えて「主が私の羊飼いです」と答えている。そういうニュアンスです。

それに対して「主は私の羊飼い」というのは、「主なる神様はどういうお方で、あなたとどのような関係にあるのですか」という質問に答えて「主は私の羊飼いです」と答えている。そんな感じです。どちらも、文法的には正解なのですが、この詩編の全体が主なる神様と私たちとの関係を語っていますので、やはりここは「主は私の羊飼い」というふうに訳すのが良いと思います。

羊というのは本当に無力な動物らしいです。敵に襲われても反撃出来ない。道に迷っても自分で道を捜せない。迷った先でめえめえと泣くだけ。その鳴き声を狼が聞きつけたりすると、もうおしまいです。しかし、そんな弱い羊にも、一つだけ、他の動物には見られない力がある。それは羊飼いの声を聞き分ける能力なのです。ですから、羊と羊飼いの関係は、守り守られる関係であり、生かし生かされる命の関係です。

ですから、詩編23編が、その冒頭で「主は私の羊飼い」と言い切った時、次の言葉が自分の人生に対する結論として自然に出て来ます。

「わたしには何も欠けることがない。」

これは凄い言葉だと思います。自分の人生に対して、こういうことが言えること自体が、素晴らしいことだと思います。ところが、「私には何も欠けることがない」というのは、一種微妙なところがありまして、取りようによっては大変に傲慢な響きが致します。今、大河ドラマで注目されている藤原道長という人が位人臣を極めた時、こんな歌を詠んだそうです。

「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたる事もなしと思へば」

ここにも自分の人生への結論として「欠けたることが無い」と言われています。その意味では詩編23編と変わりが無いのですが、皆さん、どうでしょう。読んだ感じは、ずいぶんと違いますね。いったい、どこが違うのでしょうか。道長も詩編23編も、共に自分の人生への結論を語っているのですが、道長の歌は相手がいないのです。相手がいないと、どうしても自分の方にしか目が行かなくなります。そこに生まれる歌は当然、自分の人生への賛美、自画自賛の賛美になってしまいます。

それに対して、詩編23編はハッキリした相手がある。しかも、その相手が主なる神様なのですから、そこには自分への賛美が入り込む隙が全くない。あるのはただ神様への感謝と賛美のみです。ですから、この詩編の詩人が「私には何も欠けることがない」と言っているのは、道長のような自分の人生に対する豪語ではなく、神様への賛美なのです。道長のほうは、今は欠けたるものが無くても、将来はどうなるかは分からない。それに対して、詩編の詩人はどう言っているか。4節を見ますと、こう書いてあります。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」

これは今のことではない。いつの日か、自分が死の陰の谷を歩むような、真っ暗な道を行かねばならない。そのような日が来ることを、この詩人はちゃんと心に留めています。これと同じことが、5節にも出ています。詩人はこう歌っているのです。

「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」

彼には敵があるのです。しかも、それは命を脅かすような強敵です。それを彼はちゃんと心に留めて、それでもなお「私には何も欠けることがない」と言い切った。これが、この詩編の大事なところです。

そして、2節から後に、どうしてそうなのか、1節で言い切ったことが、いったい、どういう内容を持っているのか、ということが語られていきます。

「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」

私たちは、自分で計画を立てて、うまく立ち回っているようですが、そういう人生は結局、思い煩いしか生み出さない。ところが、自分の思いや企てを捨てて、「神様、一切をお委ねします」と言い切った時に、私たちはそれまでとは全く違う道に立っている。そのことを、この詩人は「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」と言い表しています。この「正しい道」とは、神様に祝福された生き方ということです。

その「祝福された生き方」に神様は導いてくださるのですが、それをこの詩編は「主は御名にふさわしく」導いてくださるのだと語っています。この「御名にふさわしく」というのは、神様が御自分の名にかけて私たちを正しい道に導いてくださるということです。

旧約聖書を見ますと、要所要所に「私は主である」という言葉が出て来ます。この「主」と訳された所には、じつは神様の名前が入っております。ところが、ユダヤの人々は「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の戒めを固く守って、神様の名前を読むことを決してしなかった。そのために、いつしか、神様の名前をどう読むのか、読み方が分からなくなってしまったのです。現在では、この神様の名前は「ヤーウェ」と読んだのだろうと、ほぼ確実視されていますが、昔の文語訳聖書はここを「エホバ」と訳していました。これは間違いです。しかし、神様の名前を軽々に呼ぶのは、憚られるということで、口語訳聖書も新共同訳聖書も、最新の聖書協会共同訳聖書も、ここを「ヤーウェ」とせずに「主」と訳したのです。

ですから、旧約聖書を読んでいて「主」という言葉に出くわしたら、そこは神様が御自分の名を表にさらしておられる。ご自分の名にかけて、大きなことを成し遂げようとしておられる、ということなのです。それは、この詩編についても言えることです。

「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」

主なる神様はご自分の名に賭けて、「私はあなたを正しい道に導く」と言い切っておられるのです。ですから、私たちの歩む道がいかに険しく、死の陰の谷を行く時も、災いを恐れることはない。これは「災いが来ない」と言っているのではありません。災いは来るのです。しかし、その災いを恐れることが無いのだと詩人は語っている。なぜなのでしょうか。その理由が、次に示されています。

「あなたがわたしと共にいてくださる。」

主なる神様が私と共にいてくださる。これが一切の秘訣です。死の陰の谷を行く時も、災いが降りかかる時も、私は恐れることが無い。そう言い切ることが出来る、その根拠は、じつにここにある。

私たちの信仰は、弱いものです。悩み事に出会ったり、困難に遭遇したりしますと、途端に戸惑います。信仰がぐらぐらと揺れます。祈りが止まってしまいます。しかし、祈りが止まってしまった、そのことを真正面から受け止めて、それを言葉の無い祈りとして聞き届けてくださるのが、「神は私と共におられる。インマヌエル」ということです。だから、止まってしまった祈りが、もう一度、産声をあげるように、よみがえる。深い憂いと悩みから、立ち直ることが出来る。これが「神様が共におられる信仰」の秘密です。

この一点が分かった時に、次の言葉が出て来ます。

「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

鞭や杖というのは、羊飼いが持っているものです。狼が襲って来た時に、狼を追い払うものですが、それ以外にも、道をそれた羊を連れ戻す時にも、鞭と杖は使われました。鞭や杖で叩かれるのは、羊にとって、決して心地よいものではないでしょう。鞭でたたかれ、杖で引っ張られたりすると、なんでこんなひどい目に遭うのかと、憤ってしまうでしょう。

私たちの人生も、これと似ています。日々の生活の中で、鞭が体を打ち、杖が心をくじきます。「なんでこんな目に遭わなきゃならないのか。いくら考えても分からない」ということが、実際、起ってきます。鞭や杖は痛みを伴います。しかし、その痛みは、ただの痛みではない。ちゃんとした目的がある。羊飼いの鞭や杖には明確な目的があるのです。それは迷い出た羊を群れに戻す。そのために羊飼いは鞭や杖を使うのです。

旧約聖書にヨブ記という書物があります。ヨブは大変に辛い目に遭いました。「自分は何も悪いことはしていないのに、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか」と、ヨブは神様に食ってかかりました。しかし、その苦しみ、煩悶の果てに彼が得たものは何であったかというと、ヨブは神様の臨在に触れて、その言葉を聞いた。そして、その時に初めて、ヨブは、今まで自分はちゃんと神様を信じてお従いしてきたと思っていたけれど、本当は神様を知らなかった。ただ頭の中で神様はああだ、こうに違いないと勝手に思い描いていただけだ。こうしてヨブは、自分の不信仰を嫌というほど思い知らされて、「今、初めてあなたにお目にかかりました」と言って、悔い改めました。このヨブが、生けるまことの神様に出会うまでには、あの理不尽で納得のいかない苦しみを味わうことが、どうしても必要だったのです。

私たちの人生も、そうではないかと思います。苦しみや悩みというのは、いつも理不尽です。納得のいかないものばかりです。詩編の119編に、次の言葉があります。

「苦しみに遭ったことは、わたしに良い事です。これによって、わたしはあなたのおきてを学ぶことが出来ました。」

苦しみに遭うというのは、決して好ましいことではないでしょう。悩みや苦しみは、無いほうが良いに決まっています。しかし、苦しみの中には、目的のある苦しみがある。それを、今日の詩編は「羊飼いの鞭」「羊飼いの杖」と呼ぶ。迷い出た羊を導き返すための鞭、杖です。

次の5節からは、これまで語って来た羊と羊飼いの譬えを一旦離れて、別の譬えが始まります。

「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」

これはゴージャスな宴会の譬えです。しかも、この宴会は敵の前で繰り広げられる宴会です。普通、敵を前にしたら、余裕が無くなります。うろたえます。慌てふためきます。誰だって、そうです。ところが、神様が共にいてくださることが分かると、事情は一変します。うろたえるどころか、宴会の主賓のように香油を頭に注がれ、杯を満たされる。なぜ、そんなことが可能になるのか。それが最後の6節に書かれています。

「命のある限り、恵みと慈しみは、いつもわたしを追う。」

後ろから恵みと慈しみが追って来るというのです。旧約聖書というのは、出エジプトの出来事を原点に持っている書物ですから、前は海、後ろは敵の軍隊という絶望的な光景を知っているのです。それが、この詩編ではどうでしょう。前には確かに敵が迫っている。しかし、主なる神様は敵の前で宴を設けてくださる。さらに後ろからは神の恵みと慈しみが追って来る。この「追って来る」というイメージは、ほぼ間違いなく、エジプト軍の戦車隊の逆バージョンでしょう。恵みと慈しみは私を捕らえ、両脇を挟むようにして、私を連れて行く。いったい、どこに連れて行くのでしょう。それを語っているのが6節の最後の言葉です。

「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」

主の家なのです。恵みと慈しみは、私を主の家に連れ帰る。ここに至って、全く別の事を語っているかに見えた羊飼いの譬えと宴会の譬えが、一つに重なってきます。羊飼いの鞭と杖は、命の道からそれた私たちをもう一度群れに連れ帰すためのものでした。あの鞭と杖こそが、私たちを後ろから追って来る恵みと慈しみだったのです。

私たちの羊飼いは、主イエス・キリストです。そして、主キリストの恵み、慈しみが教会という主の家に私たちを導いた。この詩編はまさしく、私たちの上に起きた主の御業を語っている。この大いなる恵みに立ち続けましょう。

 

 

 

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月9日(日)のみことば

「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。」(旧約聖書:列王記上8章29節)

「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17章24~25節)

神様は人が手で造った神殿にはお住みにならない。これはユダヤ人なら誰でも知っている、あのソロモン王が神殿奉献の際にささげた祈りによるものです。今日の旧約の御言葉が、その祈りです。ソロモン王は神殿すらも神様を納めることは出来ないと言うのです。神様は神殿に住んでおられるのではない。ならば、神殿とは何なのでしょう。神殿とは、神様が、人への憐れみの故に、そこに眼差しを注いでくださるところです。だから、神殿は祈りの家と呼ばれるのです。

そして、ここから更に発展したところに「あなたがたが神殿なのだ」というパウロの言葉があるわけです。私たちの中に神様が住んでおられるのではないのです。神様は天におられる。その神様が私たち一人一人を憐れみ、慈しんで、私たちの心に眼差しを注いでくださり、心を向けてくださる。つまり、聖霊を宿してくださって、神様が聖霊として私たちの中に留まってくださる。だから、パウロは「あなたがたは神の神殿なのだ」と言うわけです。