聖書:エレミヤ書28章1~17節・ルカによる福音書21章32~33節
説教:佐藤 誠司 牧師
「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」 (エレミヤ書31章33~34節)
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカによる福音書21章33節)
今日はエレミヤ書第28章の御言葉を読みました。少し長いかとも思いましたが、ここはどうしても途中で切ることが出来ない、緊迫したやり取りが記されています。預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤの対決です。対決とは言え、これは相手を倒す対決ではありません。真理はどちらにあるのか。神の真理が明らかになるための対決です。
この出来事の意味を知る上で大切なのは、この対決が行われた時代背景です。28章1節に「ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第4年の5月」と書いてあります。これは紀元前594年のことです。第1回のバビロン捕囚から、もう4年が経過していました。
バビロン捕囚というのは、ユダ王国が北方の大国バビロニアに攻められて、首都エルサレムが陥落し、主だった人々がバビロンに捕虜として連行された大事件のことですが、もう少し詳しく言いますと、捕囚には第1次と第2次の捕囚がありました。第1次の捕囚は、比較的穏やかなものでした。エルサレム神殿の宝物は持ち去られたものの、神殿は破壊されることなく、王様も捕虜というよりは人質のように監禁されただけで、エルサレムに新たな王が即位することも許されました。
ところが、このことに気を良くしたユダの王ゼデキヤがエジプトと同盟を結んで、バビロニア帝国に反旗を翻しました。これにバビロニア帝国のネブカドネザル王は激怒して、大軍を率いてユダに攻め上り、エルサレムは陥落します。ゼデキヤ王は捕らえられて、目の前で王子たちが殺されるのを見せられたあげく、両目をえぐり散られて、捕虜としてバビロンに連行されました。これが第2次バビロン捕囚です。
さて、ユダの王ゼデキヤの治世の4年目、第1次バビロン捕囚から、4年が経過した頃、エレミヤは「軛」を自らの首にはめて、王の前に現われ、国はやがてこのようになると預言しました。バビロンによる支配が長く続くことを預言したわけです。しかし、このエレミヤの預言を喜ばない王や民が多くいました。エレミヤの預言に耳を傾けたくない民の心情を察して、それにおもねるように語ろうとする一人の預言者が現われました。それがハナンヤです。ハナンヤは、エレミヤの預言に真っ向から対立し、異を唱える預言をしました。
ハナンヤは、三世代、70年に及ぶバビロンによる捕囚の時代が続くと語ったエレミヤの預言に対して、2年のうちに主はバビロン王の軛を打ち砕くと語りました。そして、エレミヤの言葉を打ち消すように、バビロンに奪われた主の神殿の祭具類も、バビロンに連行された捕囚の民もユダの地に帰って来る、とハナンヤは語りました。
結果的に言いますと、ハナンヤの語ったことは、人間の思いにおもねった偽の預言であることが明らかになりました。エレミヤが語った厳しい言葉が正しい預言であり、ハナンヤの言葉は預言ではなかった。露骨に言えば、エレミヤが勝って、ハナンヤは敗れたのです。
しかし、このエレミヤ書の28章は、それだけで終わっているのではありません。もっと大きなことを問いかけている。それは、私たちは神様の言葉を聞いて、それに従って生きることが出来るだろうか、という根本的な問いかけです。私たち信仰者は、神様の言葉を聞いて、それに従って生きるべきだということは、一応は分かっています。皆さんも、そうすべきだということは、分かっておられると思います。しかし、実際に信仰生活をしていく中で、じゃあどうしたら人間の思いではなく、神様の御言葉に従うことが出来るのか。これが、このエレミヤ書28章を読んで、私たちが出会う大きな問題です。
ところが、この問題に対して、エレミヤ書の28章がどう答えているかというと、何も答えていない。問いかけてはいるのですが、答えてはいないのです。じつは、これは、エレミヤ書だけではない、旧約聖書の一つの限界なのです。旧約聖書というのは、そこまでは言うけれども、そこから先は言わない。そういう一線が確かにあると思います。私たちは、この一線で、はたと立ち止まってしまうわけです。
さあ、この問いの答えは何でしょうか。私たちは、どうすれば神様の言葉に聞き従うことが出来るか。この問いの答えは、もう薄々気付いておられる方もおられると思います。イエス・キリストなのです。旧約聖書って、こんなに分厚いでしょう。歴史が書かれているからです。かつて、旧約の時代には、こういう過ちや誤りを犯して来た。神様の言葉を直接に聞くということは、特定の預言者にしか出来なかった。いや、預言者の中にも、ハナンヤのように、人間の思いや願いにおもねる預言者がいたのです。いったい、どっちが本物か、聞いている側は迷うわけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章14節に、こう言われています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
神様の御言葉が人間となって私たちの所に来られた。そして、直接、私たちに「神の御心はこうだ」と言って御心をハッキリ示してくださった。それがイエス・キリストです。このお方が「私を見た者は、父を見たのである」と言われました。「私があなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私の内におられて、御業をなさっておられるのである」とも言われた。イエス・キリストこそが神の言葉である、というのがキリスト教の出発点なのです。
エレミヤの時代、確かに神様はユダをバビロンの軛から解放してくださるのですが、それはハナンヤが言ったような2年のうちなんていうのではなく、数十年がかかっている。どうしてこのように長い年月が必要だったのでしょうか。これがもし、ハナンヤが言ったように、2年くらいで解放してくださっていたら、神様の恵みも解りやすいし、神様の力も、人々によく解るから、そうしてくだされば良さそうなものだと私たちは考えます。しかし、ずっと後になって振り返ってみますと、じつはこの数十年のバビロン捕囚こそ、イスラエルの人々に深い深い神様の御心を学ばせる大事な機会であったということが分かります。
例えば、皆さんがよくご存じのイザヤ書第53章の「苦難の僕の歌」とか、エゼキエル書とか、エレミヤ書の「新しい契約」というような、いわば旧約の信仰を乗り越えて、新約聖書の世界に橋渡しをするような、そういう深い理解が生まれて来たのは、この数十年のバビロン捕囚の時代なのです。創世記第1章の創造物語も、異国のバビロンでイスラエルの人々が徹底的な悔い改めをした、その果てに生まれたのが、あの天地創造の物語だったのです。
そういう苦難と試練を経て、今まで自分たちが理解していた神様の御心というものが、いかに自分勝手な理解で、浅薄なものであったか。本当の御心は、もっと深いものなのだと、自分たちは、この身勝手な神理解によって、どれほど神様を深く悲しませてきたことかと、そういうことが、だんだん分かってきたのです。
このように、神様はバビロン捕囚という不幸な出来事さえも用いて、私たちに御心を悟らせようとなさいます。そこには深い忍耐と慈しみがあるわけです。その忍耐と慈しみの果てに、神の御子の受肉という決定的な出来事が歴史の只中で起るのです。
このように、神様は私たちの思いを超えた計画を実行されるのですが、では私たちは、どのようにしてその神様の御心を知るのかという問題が、やはり残ると思うのです。この問題は、じつは、すでに答えが与えられております。イエス・キリストを知ることの中に、答えはある。それが旧約の人々には無い、私たちの強みであるわけです。
ですから、イエス・キリストを本当に繰り返し繰り返し、知っていくことが大事です。それは具体的には福音書に書かれているキリストのお言葉と御業を知るというのはもちろんですが、それだけでなく、パウロの手紙にあるようなキリストの受難の意味、復活の意味を知っていくことです。ヨハネ福音書が言うように、キリストを知れば、私たちは、父なる神様の御心を知ることになる。これは確かなことです。
一つ例を挙げますと、旧約聖書では罪を犯した者は裁かれる。これがほぼ絶対の前提でした。しかし、イエス・キリストは「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われる。これはまさに画期的な言葉であって、旧約の常識的な見方に比べますと、はるかに深い神様の御心が現わされています。罪人を見捨てない。不信仰な者を見捨てない。その罪を神様ご自身が引き受けて、解決をなさった。それがキリストの十字架です。そういう御心がイエス・キリストによって明らかにされたのです。
では、キリストを知るとは、どういうことなのでしょうか。これについて、エレミヤが示唆に富むことを語っています。エレミヤ書の31章。エレミヤが、やがて現わされる「新しい契約」について述べた部分です。33節から読んでみます。
「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」
何を言っているかと言いますと、エレミヤは全く新しい時代の到来を予告しているのです。主を知るということは、誰かに言われて知るのじゃなくて、主ご自身が私たちの中にいて、私たちにご自身を現わしてくださる。そういう時代が来るのだとエレミヤは言うのです。これは、まさに私たちのことです。
主イエスを殺す計画が現実味を帯びてきた頃、主イエスは弟子たちに、こうお語りになりました。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
私は、この言葉の持つ意味は非常に大きいと思います。意味が大きいだけではありません。この言葉が私たちを天へと導く。そういう御言葉だと思います。「滅びる」という言葉が二度、繰り返されています。この「滅びる」というのは、正確に言いますと「過ぎ去る」ということです。つまり、主イエスは、こう言っておられるのです。
「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去らない。」
過ぎ去るというのは、時間の中にあるということです。天も地も、そこに住むものも、被造物はことごとく時間の中にある。つまり、過ぎ去って行くわけです。それに対して、過ぎ去らないというのは、時間の中にないということ。つまり、永遠に属するということです。キリストは永遠に属する者として、創造の御業に参与されて、時が満ちるに及んで、乙女マリアから人として生まれてくださった。これが神の御子の受肉です。それを昔の学者は、次のように言い表しました。
「永遠ガ 時間ノ中ニ 突入シタ。」
これは決して目新しい言い方ではないのですが、永遠なる方が永遠のまま時間の中に突入した受肉の出来事を見事に言い表した言葉だと思います。ですから、イエス・キリストの言葉と御業は、2千年前に限定されることがない。語られた言葉も、十字架も復活も、2千年前の出来事であると同時に、今語られる言葉であり、今と未来を保証する御業です。このお方の十字架において、古い私たちは死んだ。このお方の復活によって、私たちも新しい命に復活させられた。そういうことが起こったのです。
ですから、このお方の言葉と御業に留まることが大事です。主の御言葉と御業に留まることが出来るのは、今、私たちが守っている主の日の礼拝なのです。礼拝を大切に、人生の土台として歩んでいきましょう。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月8日(日)のみことば
「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」(詩編63編8節)
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(ルカ福音書12章35~36節)
今日の新約の御言葉は主イエスが弟子たちに語られた遺言のような言葉です。ここで主イエスは、御自分を「主人」と呼んでおられる。私はあなたがたの主人なのだ、あなたがたは私の僕なのだと明確に位置づけた上で、あなたがたは主人の帰りを待っていなさい、と命じておられるのです。腰に帯を締めるというのは、主人の食卓に給仕として仕える僕の姿です。ともし火をともすのは、いつでも主人を迎えられるように備えをすることです。ここには主人と僕という、動かし難い関係があります。
ところが、主イエスは続けて、こう言われるのです。
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」
なんと、この主人は、僕たちに給仕させるのではなく、忠実な僕たちを御自分の食卓に招いて、席に着かせ、主人自ら腰に帯を締めて、僕たちに給仕として仕えてくれるというのです。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」という御言葉を彷彿とさせる姿です。