聖書:エレミヤ書1章1~10節・ルカによる福音書5章1~9節
説教:佐藤 誠司 牧師
「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。』」(エレミヤ書1章4~8節)
今日はエレミヤ書第1章の御言葉を読みました。若者エレミヤが預言者に立てられる召命物語です。エレミヤという人は、人間的に言えば大変に悲劇的な人生を歩んだ人です。紀元前587年に、祖国であるユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされました。そして国の主だった人たちが捕虜としてバビロンに連行された。有名なバビロン捕囚の事件が起こるのですが、エレミヤはそれよりも少し前から、預言者として活動するようにと、神様に命じられるのです。今日読んだところが、その出来事を伝えていますが、そのやり取りが変わっています。
神様がエレミヤに「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われます。その時に、エレミヤは喜んで預言者としての役目をお受けしたかというと、決してそうではなかった。躊躇している、と言うより、次のように断っているのです。
「ああ、主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
ところが、神様はこれをお許しにならない。主なる神様は、エレミヤに、こう言われるのです。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」
いかがでしょうか。なんだか尋常ならざる雰囲気が漂っています。エレミヤは、他の預言者では考えられないような、激しい預言を語ることを余儀なくされるのです。エレミヤが語ることを命じられたのは、「国が滅びる」というメッセージだったのです。誰でも自分の国が滅びるなんてことを聞かされたら、いい気持ちはしません。ましてユダヤの国は、かつてイザヤの時に、それはエレミヤの時代よりも150年ほど前になりますが、アッシリヤ帝国が攻めて来た時に、恐れおののく人々に向かって、イザヤが「神様が守ってくださる。必ずエルサレムは守られる」と預言を語って、その通りになったという歴史を持っています。「神の都エルサレムは滅びることがない」というのが、ユダ王国の人々の常識になっていたのです。また、神の民であるユダ王国を神様が滅びに導くはずがないというのは、信仰的に見ても、至極まともな考えです。異教徒であるバビロンが勝って、神の民であるユダが滅びるなんてことは、常識的にも、信仰的にも考えられないことだった。ですから、「ユダの国は滅びる」というエレミヤの預言は、国民感情から言っても、信仰の上から言っても、誰にも相手にされなかった。受け入れられなかったのです。
その結果、エレミヤはほぼ完全に孤立してしまいます。非国民とののしられ、井戸の中に投げ込まれたこともありました。まさに命がけの預言をエレミヤは語ったわけですが、彼はそれを決して自ら望んで語ったのではない。強いられて語ったのです。
こんなこともありました。ある時、エレミヤは北方からスキタイ人という強力な民族が攻めて来ることを人々に預言したのですが、どうしたことか、スキタイ人はユダまで来ることなく、通り過ぎてしまった。これはヨナの物語などにも出て来ますが、時に神様は途中で思いを翻されるのです。そうしますと、エレミヤが語ったことは実現しなかったことになる。まあ、ヨナの場合は、むっとむくれて、神様に文句を言うのですが、エレミヤはそういうことはしない。彼は人々に嘲られ、嘘つき呼ばわりされました。これにはエレミヤ自身も深く傷ついて、もう神の言葉を語るまいと決心をした。ところが、彼は、こういうことを言っております。エレミヤ書の20章9節です。
「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れました。わたしの負けです。」
エレミヤがいかに「もう主の名によって語るまい」と決心しても、神様の言葉がエレミヤの中で火のように燃え上がって、ほとばしり出る。それをエレミヤは押さえつけることが出来ないのです。
先にも言いましたように、エレミヤという人は、悲劇的な人生を歩んだ人でした。ほんのひと時も、楽な時は無かった。私たちは、神様を信じたら、初めは辛くても、終いには良くなるだろうと、常識的に期待します。最後は良くなるというのが、私たちの常識です。ところが、エレミヤの人生は、そうではなかった。最後の最後まで、不幸の連続だった。普通だったら、もうこんな人生、やってられないと、そう思って信仰を捨ててしまうかもしれません。ところが、エレミヤは、最後まで神様を信じ抜いた。なぜなのでしょうか。
こんなことがありました。ある時、エレミヤは神様に示されて、陶器職人の働く場所に行きました。陶器職人が手の中の粘土をこねて、彼が造ろうと思う器を作っている。そうしますと、きっと職人が作りそこなったのでしょう。手の内にある器をぎゅっとつぶして、別の器を作り始めたのです。その時に、エレミヤは神様の語られる声を聞くのです。
「粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたはわたしの手の内にある。」
陶器職人が主人であって、粘土が主人なのではない。陶器職人が「こういう器を作ろう」と思ったら、粘土が何を言おうが、職人は自分の意思のままに器を作る。粘土は職人の手の内にあって、握られている。これは、ある意味、恐ろしい言葉だと思います。全く自分に主体性が無いと言いますか、自分というものを主張することが出来ない。神様が私の運命を握っておられる。そのように考えますと、これはもう、たいそう恐ろしい言葉になるでしょう。
ところが、私はここがエレミヤの凄いところだと思うのですが、彼はこの陶器職人の手の内にある粘土に、自分の姿と、自分の本分を見出したのです。粘土がつぶされた姿を見て、つぶされたと感じるのではなく、また別の形に造られるのだと。捨てられるのではない、もう一度用いて頂けるのだと。ご用のために用いていただける。その一点に思いが至った時に、エレミヤの人生は決まったと私は思います。
よく私たちは「使命」ということを言います。「これが私の使命です」というふうに使います。使命という言葉は、教会以外でも通じると思います。ところが、教会には使命のほかに、もう一つ、大事な言葉があります。「召命」です。「命が召される」と書いて「召命」と読ませる。これは教会以外では通じない言葉です。使命と召命。確かに似てはいます。しかし、決定的な違いがある。いったい、どこが違うのでしょうか。
先ほど、私は「これが私の使命です」という例文を挙げましたが、使命というのは「これが私の使命」という具合に、指し示すことが出来る。つまり、使命というのは、私たちがなすべきこと、あるいはなそうとすること、そんなふうに「事柄」を中心にして考えるのが使命です。だから「これが私の使命です」と言い切ることも出来るわけです。
それに対して召命というのは、そういう事柄よりも、私を召してくださった神様との関係を重視している。事柄ではなく、関係なのです。神様が私を召して、「このことをやりなさい」とお命じになった。「こういう人生を歩みなさい」と言われた。私はその御命令に従いますと、これが召命です。詩編の23編に、こんな言葉があります。
「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
主なる神様が共におられるから、私は災いを恐れない。これが召命の原点であり、召された人の姿だと思います。7月に、一人の牧師が天に召されました。この人は私の同級生で、2年前の中高生キャンプに講師として東京から参加してくださいました。久しぶりの再会で、懐かしく、嬉しい時を過ごしました。ところが、キャンプから帰って、左肩に違和感がある。病院で見てもらって、病気が見つかりました。飾らない、寡黙な人で、普段は「ああやりたい、こうやりたい」ということは言わない人ですが、入院する時、この人は「証しになる闘病生活を送りたい」と言いました。
その言葉のとおりに、この人は歩みました。最後は酸素ボンベを講壇に上げて、杖に寄りかかって歩み、座って御言葉を取り継ぎました。6月の終わりまで、講壇のご用を務めました。そして、7月の半ば、牧師館で次の礼拝の準備中に、とうとう力尽きて、召されました。召命という言葉を、その生き方でハッキリと指し示した人だと思います。
召命というと、私たちは伝道者や預言者だけのことだと思ってしまいますが、本当はそうではない。信徒であっても、召命というものがあると私は思っています。2023年2月に天に召された城之橋教会のIさんのことが、やはり思い起こされます。彼女は城之橋の皆さんの聞き取りに、こう答えておられました。
「夫の信念というのも私の信念も同じですけど、絶対神様はいらっしゃる。そして私たちを見ていてくださるというのが私たち夫婦の信念。今でも、昔も変わらず。絶対どんな時でも神様が守っていてくださる。だから、今も私は落胆していないんです。」
夫婦で神様を信じ、神の愛を土台として家庭を築き、子育てをなさいました。
しかし、やがて夫が天に召され、続いてお二人のお子さんが、天に召されます。これ以上は無いとさえ思える悲しみと嘆きの中を、Iさんはそれでも落胆することなく、歩まれた。この人が愛唱聖句に挙げられたのが、次の御言葉です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
愛する家族に立て続けに先立たれたIさんが、なおもこの聖句を愛唱されていたことに、私は正直、驚きを禁じ得ませんでした。しかし、I さんが耐え抜いた悲しみの底には、やはりこの御言葉が地下水脈のように流れていたのではないかと思います。この「どんなことにも感謝しなさい」というのは、正確に言うと、「どんな境遇にあっても、そこに神の恵みを見る」という意味です。打ち続く不幸の中に、なお神の恵みを見て生きた。だから、「私は落胆していません」と、この人は言うことが出来た。私はここに、信徒の召命というものが確かにあると思います。
召命というのは、私たちの使命を達成するとか、目標を立てて頑張るとか、人生を充実させるとか、そういうことのために信仰をすることではありません。神様の御手に自分を本当に託する。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とパウロは言いました。「神様、この体と魂をあなたの御手に委ねます。御心のままにあなたの器としてお用いください」と言い得た時に、私たちは本当に信仰生活を歩むことになると思います。エレミヤは、まさにそういう召命を受けて歩みました。
エレミヤという人は、何もかも分かった上で、神様に自分を委ねたのではない。むしろ、何も分からない時に、彼は信じ、委ねたのです。信仰生活というのは、何もかも分かって計算をして、「ああ、信仰生活はいいもんだなあ」と納得ずくで行うものではない。分からないことだらけだと思います。分からんことだらけだけれど、ただ一つ、言えることは「私を召してくださったお方は真実なお方である」ということです。そのお方への信頼に自分を託して生きて行く。そして神様は、その時その時に必要な御言葉を与えて私たちを導き、私たちを力づけ、行き詰まった時に道を開いてくださいます。その一歩一歩の歩みの中で、私の召命が養われて行く。そういう信仰生活をご一緒に送っていきましょう。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月1日(日)のみことば
「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。」(詩編67編2~3節)
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3章17節)
当時のユダヤの人々は皆、メシア・キリストが来られるのは世を裁くためだと信じていました。どんな宗教でも救われる人と救われない人を分けてしまいます。分けた上で、皆さんも救われるように頑張りましょうと言うわけです。しかし、そういうことは人間が言うことであって、神様の御心はそういうところにあるのではない。神様がイエス様をこの世に遣わしてくださったのは、これは悪い人間だから滅ぼしてしまおう、これは良い人間だから救ってやろう、と、そういう裁きをするためではない。
全部の人が、キリストによって救われるために、遣わしてくださった。どんな悪人でも、どれほどの落ちこぼれでも、そんなことは問題ではない。イエス・キリストが私を救ってくださる、そのことを信じてキリストにすべてを委ねさえすれば、キリストが全部を解決してくださる。だから、神様はキリストを世に遣わされたのだと。これが「信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」ということです。