聖書:コリントの信徒への手紙一12章12~31節

説教:佐藤  誠司 牧師

「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい。」(詩編127編1節)

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」(コリントの信徒への手紙一12章12~13節)

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一12章27節)

降誕節の時が満ちて、今日、私たちは、四旬節の第一の主日を迎えました。使徒パウロは「今」という時を「教会の時」と名づけました。それはどういうことなのか? 復活のキリストが天に昇られたときのこと。主イエスは、もう一度帰って来るという約束を弟子たちに残して、天に昇られました。

しかしながら、主が弟子たちにお与えになったのは、約束だけではありませんでした。約束と共に使命をもお与えになりました。その約束と使命が、マタイによる福音書の最後に記されています。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

約束と使命が与えられています。この弟子たちの上に、やがて聖霊が与えられて、地上に教会が誕生します。それからの時をパウロは「教会の時」と呼びました。教会の時は、またの名を「中間時代」ともいいます。キリストがベツレヘムにお生まれになった降誕の出来事があります。これが第一のアドヴェントです。そして世の終わりにキリストがもう一度来られる。再臨ですね。これが第二のアドヴェントです。この二つのアドヴェントにはさまれた時を「中間の時」という意味で「中間時代」と呼びました。パウロはその中間時代を「教会の時」と呼んだのです。教会が、先のマタイ福音書28章で語られた約束を信じ、使命を果たしていく時代だからです。

でも、そもそも教会とは何なのか? この問いは、昔からキリスト者にとって大きな課題でした。なかなか核心を突く答えが見つからないのです。しかし、初代教会の人々はたいしたものだと思います。教会とは何か? この問いの答えを、初代教会の人々は詩編の中に見出したのです。それが詩編127編の中にあります。

「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい。」

主御自身が建て上げてくださる家がある。それこそ主の教会ではないかと初代教会の人々は考えたのです。これ以来、教会について語る際に、建築用語が使われるようになりました。もちろん、聖書が語る教会は建築物のことではないのですが、にもかかわらず、建築用語が使われたのです。土台の上に教会は建て上げられていくからです。パウロもこの第一コリントの3章10節以下で、次のように語っておりました。

「わたしは、神から頂いた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません。」

建物ではないにも関わらず、建築用語が使われている。それは土台の上に主の教会は建て上げられていくからです。その土台こそがイエス・キリストなのだとパウロは言います。

では、その土台の上に、どのような生ける交わりが教会として建て上げられていくのか? それが今日の箇所で語られています。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」

パウロは何を言おうとしているのでしょうか? ここは教会のことが言われているはずです。だったら「教会の場合も同様である」とでも言うべきなのです。それが常識的なものの言い方です。ところが、パウロは、そうは言わない。「教会の場合も同様である」とは言わずに、敢えて「キリストの場合も同様だ」と言うのです。どうやら、パウロの教会観の特徴は、こういうところにありそうです。キリストと教会がピタリと重なっているのです。

そしてもう一つ、パウロの言葉使いに注目してください。「多く」という言葉と「一つ」という言葉が鮮やかに対比されて語られています。「部分は多くても、体は一つ」という具合です。「多く」と「一つ」。いったい、どちらに重点が置かれているのでしょうか? それは続く言葉を読んでいけば、おいおい解ってきます。パウロはこう言葉を続けているのです。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」

これを見ますと、パウロの力点は明らかに「一つ」という言葉に注がれていることが解ります。多くのものがある。その多様性をパウロも認めているのです。しかし、その多様性は、あくまで一つのものを証しするためにある。パウロはそう言うのです。一つのものとは何か? それは一つなる聖霊であり、一つなる主の体です。そして一人なる神です。さて、パウロはそう言ってから、「体と部分」の譬えに入って行きます。

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいを嗅ぎますか。そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」

典型的な譬えです。何々のようなものだという仕方で、何かを別のものに例える言い方です。こういう言い方は、ある意味で解り易いのです。パウロは、このあとも、同じような譬えを語ります。

しかし、譬えというのは、それ自体に目的があるのではありません。何かほかのこと、ほかの大切な真理を解りやすく語るために、譬えは用いられる。その真理を伝えるために、譬えが用いられるのです。じゃあ、パウロが伝えたい真理とは、いったい何なのか? その一点を、心に留めていただいて、今しばらくパウロが語る「体と部分」の譬えに耳を傾けてみたいと思います。

「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」

いかがでしょうか? パウロは体と部分の譬えを語りながら、伝えたい真理を少しずつ小出しにしているのがお解かりでしょうか? その真理とは「一つの体がある」ということなのです。これ以降、パウロは「体と部分」の譬えを語っているかに見えつつ、じつは「一つの体」について語り始めています。パウロはこう言うのです。

「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」

いかがでしょう? つい先ほどまで、耳だの目だのと体の部分を譬えに使っていたのに、様子がガラリと変わっていますでしょう? パウロがずっと語ってきた体の部分とは、目や耳や手足のことなどではなくて、人間のことだったのです。では、一つの体とは何のことなのか? そこが眼目になってきます。パウロはここで一気に結論を語ります。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

これこそ、パウロが最も伝えたい真理です。これまでパウロが語ってきた「一つの体」とは、ほかでもないキリストの体のことだった。しかも、あなたがたこそキリストの体なのだとパウロは言い切るのです。あなたがたとはコリント教会のことです。教会こそが地上に於ける「キリストの体」なのだとパウロは言うのです。

パウロの言葉使いに注目してください。パウロはこれまで譬えで語ってきましたが、ここではもう譬えは使っていません。パウロは「あなたがたはキリストの体のようなものだ」とは言っていない。「のようだ」ではなく、キリストの体そのものなのだと言う。そして、あなたがた一人一人はこの体の部分なのだとパウロは言うのです。「部分」という翻訳に抵抗を感ずる方もあるかも知れません。けれども、英語の聖書を見ますと、この「部分」という所に、どんな単語が使われているか、皆さん、お解かりでしょうか? メンバーなのです。

メンバーという言葉は、今ではもうすっかり日本語として通じる英語ですが、これはもともと聖書が生み出した言葉です。それも今日の箇所が元になって生まれた言葉なのです。メンバーと聞くと、私たちはつい「組織の一員」という意味に理解しがちですが、この言葉にそういう意味は元々はなかった。じゃあ、どういう意味があったかと言うと「体の部分」という意味があった。まさにパウロが語ったのと全く同じ意味の言葉だったのです。ここからこのメンバーという言葉は発展して、教会員という意味を持つようになったのです。ですから、メンバーの本家本元は私たち教会であり、教会員なのです。

さあ、ここから解ることは何でしょうか? 教会員とは「組織の一員」なんかじゃない。体の部分。しかも、キリストの体を形作っている尊い部分だということです。もう一度、27節の言葉をよくご覧になってください。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

ここのパウロの言葉使いを注意してご覧になってください。パウロは最初、譬えから語り始めたのでした。目や耳、手や足の譬えです。しかし、今やパウロは、もう譬えは使ってはいない。「あなたがた教会はキリストの体のようなものだ」とは決して言わないのです。もはや、そのような「ものの譬え」ではなくて、そのものズバリ、教会はキリストの体であり、一人一人はそのメンバーなのだと語っている。

そして、もう一つ、ここで言っておかなければならないことがあります。パウロは、ここで教会の理想像を語っているのではないということです。「教会はキリストの体であるべきだ」とは言ってはいない。パウロという伝道者は、目指す理想像を掲げて教会を改革しようなどということは、ただの一度も考えなかった人です。ですから、パウロが語るのは教会の目標や理想ではなくて、むしろ教会の現実なのです。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのです。」

これは信仰の目から見えてくる教会の現実の姿です。このキリストの体のメンバーになるための扉が「洗礼」です。パウロという人は、面白いことに「洗礼を受ける」という言い方をしません。どうしてしないか? 洗礼を受けるという言い方は、受ける人が主体の言い方だからです。だから、パウロは「洗礼を受ける」という言い方ではなくて「洗礼される」という受け身の言い方で通しました。キリストが主体なのです。キリストが、一人の罪人をご自分の体の中へとバプテスマしてくださる。罪人の体が、キリストの体の部分となって神の御前に恐れることなく立つことが出来るようになる。私はそれこそ信仰の奇跡であると思うのです。

今、私たちの教会にも洗礼を志す人たちがおられます。その方々が、自分が洗礼を受けるのではなく、キリストの中にバプテスマされる、そして新しい命に生きる者として、教会のメンバーとされていく。その幸いを私たちが共に喜ぶ者でありたいと願います。

今週も皆さんお一人お一人の上に主イエス・キリストの平和と祝福が豊かにありますよう祈ります。

 

 

 

 

【予 告】

○次週の主日礼拝 2月28日 (日)午前10時半 四旬節第2主日

説教「人を建て上げる言葉とは」 牧師 佐藤 誠司

聖書:コリントの信徒への手紙一14章1~19節

賛美歌(讃美歌21):83-1 171-1 55-1 28

○どなたの来会も心から歓迎しています。