聖書:詩編139編1~4節・マタイによる福音書6章5~15節
説教:佐藤 誠司 牧師
「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」(詩編139編4節)
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ。』」(マタイによる福音書6章8~9節)
これまで私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条と十戒を連続して学んできましたが、十戒の学びが1月4日で終わりまして、先週からは主の祈りの学びに入りました。主の祈りは、その名のとおり、主イエス・キリストが教えてくださった祈りです。主の祈りが弟子たちに与えられた時の有様は、マタイ福音書とルカ福音書が伝えています。ところが、まことに興味深いことだと思うのですが、二つの福音書が伝えていることには、若干の食い違いがあるのです。食い違いなどと聞きますと、私たちは、つい「じゃあ、どっちが正しいんだ」と思ってしまいますが、聖書の記述の食い違いというのは、どっちが正しいか、どっちが間違いかというものではなくて、むしろ読み方に豊かさをもたらしてくれるものだと思います。
先週はルカ福音書の11章の御言葉を読みました。ルカ福音書は、要所要所に、祈る主イエスの姿を点描してきました。弟子たちは、しばしば、その姿を見てきました。つい先ほどまで一緒におられた主イエスがおられない。弟子たちが探し回ると、主イエスは一人、寂しい所で祈っておられる。そういうことが幾度もあった。おそらく、弟子たちは、祈る主イエスの姿に心打たれたでしょう。どのように祈っておられるのか、その点にも彼らは心引かれていたことでしょう。そこで弟子の一人が、こう言いました。
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
弟子の一人と書いてありますが、おそらくこれは全員の正直な思いであり、心底からの願いであったと思います。祈りを教えてほしいのです。この願いに応えて、主イエスが教えてくださったのが主の祈りであった、というのがルカ福音書の主張です。
これに対してマタイ福音書は、どのような主張があるのかというと、マタイは主の祈りのエピソードを「山上の説教」の中で伝えている。そこにマタイ福音書の大きな特徴があるように思います。「山上の説教」というのは、主イエスが弟子たちを連れて山の上に上られた。そこに主イエスを慕う多くの人々が集まって、主イエスが多くの御言葉をお語りになった。この珠玉のような一連のメッセージを「山上の説教」と呼んだのです。問題は、この「山上の説教」に於いて、主の祈りはどういう文脈の中で語られているかです。
主イエスが主の祈りを教えてくださったのは、偽善を戒める文脈の中なのです。偽善というのは、人から褒められたいとか、称賛を得たいという思いが言葉や行いになって現れることですが、こういう重いは、じつは小さい子どもから大人まで、誰の心にもある正直な思いです。ですから、決して責められるべきことではない。誰もが、褒められたいのです。ところが、それが信仰の営みに現れて来ると、どうでしょうか。
イエス様はここで、貧しい人々への施しについて語り、断食について語り、祈りについて語っておられます。施しも、断食も、祈りも、当時のユダヤ人が大切にしていた信仰の営みです。善行と言っても良いと思います。ユダヤの人々は、こういう善行を奨励して、それを信仰のバロメーターでもあるかのように、自らを信仰をチェックしたのです。まあ、これも解らないではありません。ところが、そういうところに、罪が忍び込んで来る。善行が、信仰の営みというより、人に見てもらうためのものになり、それが高じて偽善になってしまう。主イエスはそれを厳しく警戒しておられるのです。
さて、前置きが長くなりましたが、主イエスが祈りについて語られる第6章は、次の言葉で始まります。
「また、祈るときには、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」
人間の罪深さは、祈りという純粋な信仰の営みの中にも入り込んで来る。当時の指導者でありましたファリサイ派の人々は、午後3時の祈りに合わせて家を出て、ちょうど午後3時に大通りの角に来るように見計らって、多くの人々の前でとうとうと祈ったと言います。またその祈りの言葉も、美しい修辞法にいろどられ、祈りと言うより、舞台劇の台詞のようであったと言われます。
こういう祈りに対して、主イエスは何と言われたでしょうか。これは施しの偽善を戒められた言葉ですが、主イエスはこう言っておられる。
「右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。」
不思議な言葉でしょう。何を言っておられるのでしょうか。自分の祈りを自分で褒めるようなことをしてはならないと言われるのです。ああ、今の祈りは我ながら良かったなあとか、いまいちだったなあとか、そんなことは要らない。主イエスは続けて言われます。
「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
これは、必ずしも締め切った部屋で一人で祈れと言っておられるのではなく、要するに、人の目と人の耳を気にするような祈りをするなということです。父なる神と一対一になって祈れということです。「一対一」というのは「私とあなた」の関係ということです。私とあなたの間に、誰も入って来ないということです。そして、主イエスは「異邦人のように、くどくど述べるな」と言ったあとで、次のように言っておられる。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
これは大きい言葉です。父なる神様は、私たちが祈り求める前から、私たちに必要なものをご存じだと言われる。だったら祈る必要は無いではないかと、頭のいい人は言うでしょう。確かにそうなのです。祈る必要は、無い。しかし、だからこそ、主イエスは続けてこう言われる。
「だから、こう祈りなさい。天におられる私たちの父よ。」
私は思うのですが、父なる神は私たちに必要なものをご存じだと言われた、その「必要なもの」の第一は、この祈り、主の祈りではなかったかと思うのです。大きな大きな祈りです。私たちの全身全霊を包み込む祈りと言っても良いと思います。地上において包み込むだけではありません。私たちが、やがて、地上の歩みを終えて、父なる神の御前に立つときに、この祈りを祈る者として立つことが出来る。主の祈りに包まれて立つのです。だから、この祈りは、目の前におられる神を「父」と呼ぶ言葉で始まる。イエス様が語ってくださった「放蕩息子」の譬えで、ボロボロの身なりになった息子が「お父さん」と叫ぶように言った。主の祈りの心は、あれなのです。
「放蕩息子」の譬えは、主の祈りの心というものを、非常によく現わしているお話だと思います。父親から遠く離れて放蕩の限りを尽くして、父親の財産を使い果たした。すると、泣きっ面に蜂と言いますか、その地方に飢饉が起こって、彼は豚飼いにまで落ちぶれてしまった。そこで彼は初めて気が付く。自分にはお父さんがいることに気が付くのです。それと同時に、彼は、自分にはあの父親の息子と呼ばれる資格がないことにも気が付くのです。自分はあの父の息子だという自己認識と、自分にはあの父の息子と呼ばれる資格はないという自己評価。この二つの間に板挟みになって、大いに悩んだことでしょう。しかし、彼は帰って行く。父の元へと帰って行くのです。そして、父親の前に立った彼は、こう呼びかけたのです。
「お父さん。」
このあと、彼は、自分にはお父さんの息子と呼ばれる資格がないことを言葉を尽くして述べています。しかし、父親はその言葉を全く聞いてはいない。自己評価と反省の言葉には、聴く耳を持っていなかった。父親が聞いた、ただ一つの言葉は、あの「お父さん」という呼びかけの言葉だけだったのです。
主の祈りは「父よ」と呼び掛ける祈りです。主イエスが「そう呼べ」と言われたからです。私たちは「天にまします我らの父よ」と、厳かな文語で唱えていますが、主の祈りのもとの言葉は、厳かというより、もっと素朴な、幼子のような言葉遣いなのです。弟子たちに言われた主イエスのお言葉を思い起こします。
「よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」
主の祈りは幼子の心を持つ祈りだったのです。ここで問題になるのは、なぜ「我らの父」なのか、ということです。イエス様は主の祈りを教えるのに先立って、こうおっしゃったはずです。
「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
これは一人で祈ることを想定した言い方です。なのに、なぜ「我ら」なのでしょうか。なぜ「我らの父よ」と呼び掛けるのか。考えてみると、不思議です。これについて、私には一つの思い出があります。教会学校の生徒であったときに、ある先生が説教の中で「主の祈りは、絶対に一人では祈れない祈りだ」と言ったのです。皆さん、なぜだか分かりますか。その先生は、こう言われたのです。
「主の祈りは、イエス様が一緒に祈ってくださる祈りだ。だから、一人で祈る時も、それは独りじゃない。イエス様と一緒に祈るのだ。」
この説教が神学的に正しいかどうかは、私には分かりません。しかし、私は、とても力強い福音のメッセージだと思います。いまだに私の心に響いていて、主の祈りの度に思い出すメッセージだからです。というわけで、私は、この先生が語られたメッセージが正しいのかどうか、自信がないまま年月を送っていたのですが、嬉しい事に、これと同じメッセージを語っている神学者がいることを、最近になって知って、とても嬉しくなりました。その人は、この祈りは、私たちがやがて天に召されて、父なる神の御前に立たされたときに、私たちの傍らに主イエスが立って、一緒に「我らの父よ」と呼び掛けてくださる。その備えを、今、私たちは、この祈りをすることによって、地上でしているのだと言うのです。神の右に座しておられる主イエスが、その座から降りて、私の傍らに立ってくださる。私たちは主の祈りを祈ることで、その日のための備えをしている。
改めて考えてみますと、私たちキリスト者が地上でやっていることは、ほぼすべて、天の御国に移された時のための備えの営みです。礼拝も、祈りも、賛美も互いに愛し合う生活も、すべて備えの営みです。だから、私たちは「天にまします我らの父よ」と呼び掛ける。愛と信頼をもって、主イエスと一緒に呼びかけるのです。まことの幸いが、ここにあります。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
1月25日(日)のみことば
「あなたの名はもはやアブラムとは呼ばれず、アブラハムがあなたの名となる。あなたを多くの国民の父とするからである。」(旧約聖書:創世記17章5節)
「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証印として、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。また、彼は割礼の父ともなりました。割礼のある者にとってだけでなく、私たちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の足跡に従う者にとっても、父となったのです。」(新約聖書:ローマ書4章11~12節)
ユダヤ人の男性は皆、年齢に達すると割礼を受けました。神の民のしるしだからです。しかし、割礼というのは、それを受けたから義とされるというものではなく、また、それを受けている人でなければ義とされないという一次試験のようなものでもない。義とされることと割礼の有無は全く関係がない。「あなたは行いがなくても義とされた。良かったね」という、そのしるしとしてアブラハムは割礼を受けたのです。アブラハムは、割礼を受けたから義とされたのではなく、義とされたから割礼を受けたのです。
このように、パウロはアブラハムを例に引いて論証していくわけですが、どうしてアブラハムのことをこんなに言うかと言えば、アブラハムという人は、後に続く人たちの模範なのです。アブラハムのことを、よく「父アブラハム」と言うでしょう。あの「父」というのは「父なる神」の父ではなくて、模範としての「父」なんです。そして、アブラハムの後に続いて、アブラハムの祝福を受け継ぐ人のことを「アブラハムの子」と言いました。イエス様が人々に仲間外れにされるザアカイを「この人もアブラハムの子だ」と言ってくださった。あれは、この人もアブラハムの祝福を受け継ぐべき人だと言っておられるのです。