聖書:詩編139編1~6節・ルカによる福音書11章1~13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください。」』」(ルカによる福音書11章1~4節)

 

これまで私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条と十戒を連続して学んできましたが、十戒の学びが先週で終わりました。そこで本日からは主の祈りの学びに入ります。どうしてこの三つを取り上げるかと言いますと、おそらくこれは明治時代の初めに日本で伝道した宣教師たちが教えたのでしょう。日本のプロテスタント教会には、使徒信条と十戒、主の祈りを三つの要の文書「三要文」と呼んで、特別に重んじる習慣が培われたのです。

そこで主の祈りですが、この祈りは主イエスが教えてくださった祈りです。その時の有様を伝えているものの一つがルカ福音書です。ルカ福音書は、これまでも、要所要所に、祈る主イエスの姿を描いてきました。弟子たちは、しばしば、その姿を見てきました。つい先ほどまで一緒におられた主イエスがおられない。弟子たちが探し回ると、主イエスは一人、寂しい所で祈っておられる。そういうことが幾度もあった。おそらく、弟子たちは、祈る主イエスの姿に心打たれたでしょう。どのように祈っておられるのか、その点にも彼らは心引かれていたことでしょう。そういう思いが積もりに積もったところで、今日の物語が幕を開けます。1節に、こう書いてあります。

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』と言った。」

弟子の一人と書いてありますが、おそらくこれは全員の正直な思いであり、心底からの願いであったと思います。祈りを教えてほしいのです。でも、どうしてなのでしょう。弟子たちもユダヤ人ですから、当然、日々祈ってきたはずです。それなのに、どうして弟子たちは「祈りを教えてください」と言ったのでしょうか。

確かに弟子たちも日々祈ってきたでしょう。しかし、こういうことは考えられるのではないでしょうか。弟子たちも一般のユダヤ人と同様に、普通に祈ってきたのです。ところが、祈る主イエスの姿に圧倒されて、祈れていない自分に初めて気がついた。祈っていない自分を発見して、愕然としたのです。それだけに主イエスに向かって「祈りを教えてください」と頼み込んだ弟子たちの思いは、切実で真剣なものがあったのです。

主イエスがここで言っておられるのは、祈らない信仰というのは、有り得ないということです。その上で、主イエスは祈りの言葉を教えておられるのです。だから、上っ面の言葉だけを整えても、それは祈りにはなりません。逆に、言葉にならない思いをも、すべて神様はご存知ですから、拙い言葉や、言葉にすらならない思い、さらに人知れず流す涙をも、神様は祈りとして聞いていてくださいます。

今日の箇所は三つに区分されますが、ここに一貫して言われているのは、祈りとは「願い」だということです。神様に向かって、どうか神よ、ああしてください、こうしてくださいと、願い事を畳み込むように祈っています。主の祈りにしても、そうです。「御名があがめられますように、御国が来ますように、日毎の糧を与えてくださいますように」と、ひたすら願い事を神様に申し立てている。主イエスは、ここで祈りとは神様に遠慮なくお願いをすることなのだと教えておられるのです。

しかし、これは日本の教会でよく言われることに反しているのではないでしょうか。日本の教会では、教会生活が始まって、しばらくすると、「もう願い事ばかりの祈りを卒業しなさい」とよく言われます。私も洗礼を受けたばかりの頃、言われたことがあります。祈りは願い事ばかりではいけない。むしろ祈りは、感謝であったり、賛美であったりすべきなのだと教わります。祈りの中で願い事ばかりするのは、日本的な「願掛け」のようで、願い事の多い祈りは御利益信仰のように思われるのでしょう。

確かに、祈りの中で神を賛美し、感謝をささげることは、とても大切なことです。信仰の成長と共に、感謝と賛美の祈りを学んでいくことも大切でしょう。願い事ばかりの祈りであってはならないというのも、その意味では、間違いではない。しかし、祈りが願い事であってはならないと警戒するあまり、私たちの祈りは神様にとって、よそよそしいものになってはいないかと思います。

弟子たちは、祈る主イエスの姿に触れて、祈れていない自分に初めて気付きました。しかし、そこで終わったのではありません。主イエスに向かって「私たちに祈りを教えてください」と願ったのです。主イエスの祈りを、主イエスから教えて頂きたいのです。主イエスはこの願いを受け入れて、一つの祈りを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。

「父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを試みに遭わせなでください。」

主の祈りは「父よ」という短い呼びかけの言葉で始まります。願い事ばかりの祈りです。神を父と呼ぶ祈りです。しかも、この「父よ」という呼びかけは、厳かな言い方ではありません。厳かと言うより、むしろ、親しい響きのする愛らしい呼びかけです。

私たちも、日常生活の中で、相手にお願いがあるときは、相手をどう呼ぶかに気を遣います。名前で呼ぶのは失礼かなと考えたり、それなら肩書きや身分で呼ぼうかと考えたりします。名前で呼ぶときも、名前のあとに「先生」を付けたりして、最大限の敬意を払います。相手をどう呼んだらよいのか。その一点に心を砕くわけです。

それに対して、主イエスは神を「父」と呼べと言われる。父とは何か? 身分でしょうか? それとも肩書きでしょうか? 違います。絆なのです。私たちとの絆です。あなたにとって神は父なのだと主イエスは言われる。だったら、絆で呼んだらいい。「父よ」と親しく呼びかけたらいいのだと言われるのです。父なのだから、どう呼んだらよいのかと、あれこれ思案する必要は無い。子どもがお父さんを呼ぶときに、この父をどう呼ぼうかなどとは考えません。父は父です。「お父さん」と呼べばよいのです。大事なのは幼子が父親を信じ切って「お父さん」と呼ぶように、すべてを委ねて父なる神を呼ぶことです。

主イエスがしばしば弟子たちに教えてくださったことは、祈ることは信じることだという一点です。ヘブライ人への手紙の11章に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という有名な御言葉がありますが、主イエスご自身も、しばしば、次のようにおっしゃいました。

「あなたが信じたとおりになるように。」

これは私たちの祈りの屋台骨を揺るがす言葉ではないでしょうか? 私たちは信じて祈っているでしょうか? 先のヘブライ書の言葉を借りれば、私たちは望んでいる事柄を確信して祈っているでしょうか? 私たちは、確かに多くのことを望んでいます。ああなれば良いのになあ、こうなってくれれば良いのになあと、望んでいます。ところが、望むということが、信じるということになかなか結び付かないのです。そこに私たちの弱さがあるのではないかと思います。

そういう心に向けて、主イエスは一つの譬え話を語ってくださいました。それが5節から始まる不思議な譬えです。これは、うっかりすると訳の分からない譬えになってしまいますので、心して読んでみたいと思います。ここでイエス様は「あなたがたのうちの誰かに友達がいて」と言っておられます。つまり、これはあなたがたのことなのだよと、主イエスは最初に念押しをしておられるのです。他人事ではない譬えです。あなたがたのうちの誰かに友達いて、真夜中にその人の家を訪ねてこう言ったとしよう。

「友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅をして私の所に着いたのだが、何も出すものがないのです。」

すると、その人は家の中から、もう真夜中だし子供たちもそばで眠っているので、何もしてあげられないと答えるだろう。しかし、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、執拗に頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう。

不思議な譬えでしょう。パンを与えてくれる友達というのは、やはり神様のことでしょう。当時、炎天下の真昼を避けて、真夜中に、月明かりに照らされて旅をする人は珍しくはなかったようです。ですから、真夜中にパンを求めて、誰かの家の門をたたくということは実際にあったのです。この譬えの大事なところは、自分が食べるためのパンを借りに行ったのではないという点です。パンというのは命を養うものという意味でしょう。友人が命の養いを求めて、家にやって来た。しかし、自分には彼の命を養うものがない。そこで家を飛び出して友達を訪ね、友人の命を養うパンを三つ貸してほしいと頼み込む。執拗に頼み込む。そうしたら、必ず与えてくれるというのです。

私たちが途方に暮れるのは、友人や家族を助けたいのに、自分に力が無いときでしょう。家族を助けたい、困っている友人の力になりたい。しかし、肝心のその力が無い。全く無いのです。それなら、「私には力がないのです」などと言わないで、家を飛び出して力のある友達のところに行け。助けを求めに行け。力ある友である神様にすがったらよい。執拗に、信じて頼んだらよい。この「執拗に」というのは「恥も外聞もなく」「なりふり構わず」という意味です。相手を信じるとき、私たちは、恥も外聞もなくなります。なりふり構わなくなります。あなたがたが、傷ついた家族のため、倒れた友人のために、本当の意味で力になれるのは、神様を信じて祈るときではないのかと、主イエスは言っておられるのです。

だから、この不思議な譬えは、このあと、こう続いていきます。

「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」

これも願い事です。しかし、ただの願い事ではありません。漠然と心の中で願うのではなく、願う心をハッキリと父なる神に向けるのです。ここが日本的な願掛けと違うところです。

主の祈りは、私たちの祈りです。「私たち」とは誰と誰のことでしょうか? そう、私と主イエスなのです。だから、主の祈りは、一人で祈るときも「我ら」と祈る。主の祈りだけは、絶対に一人では祈れない祈りです。主イエスが一緒に祈っていてくださるからです。

主イエスというお方は、そこにしか立てない所に、私たちをしっかりと立たせてくださるお方です。一緒に立ってくださるのです。祈りは聞かれています。聞かれた祈りが、明日という日を開きます。この幸いに、揺らぐことなく立ち続けて、ご一緒に主の祈りを学んでいきたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

1月18日(日)のみことば

「だが私は虫けら。人とは言えない。人のそしりの的、蔑みの的。」(旧約聖書:詩編22編7節)

「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか。」(新約聖書:ルカ福音書22章48節)

ユダの接吻というのは、大変有名になりました。試しに英語の辞書で「ジュダズ・キッス」という言葉を引くと、そこには「信頼を裏切ること、友情を装ってするキッス」と書かれています。この接吻にまつわるお話は、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカが共通して取り上げるエピソードです。ところが、よく読んでみますと、マタイやマルコに比べて、ルカは明らかに異なる主張を、この接吻のエピソードに盛り込んでいることが分かります。マタイとマルコでは、接吻は合図として出て来るだけです。ユダは前もって「私が接吻するのが、イエスだ」と言って、接吻を合図にすることを決めているのです。

ところが、ルカは接吻を逮捕の合図にするエピソードを丸ごとカットしている。これは、おそらく、ルカが意図的にやったことでして、これによって接吻はただイエス逮捕のきっかけを作るための合図などでは決してなく、ユダの心そのものだったのだというダイレクトな描き方になります。私はこのルカの判断は間違ってはいないと思います。接吻とは愛の行為です。これはユダの正直な思いであったに違いありません。しかし、この愛は相手を支配する屈折した愛であり、この愛が裏切りを生むのです。