聖書:出エジプト記20章12節・ローマの信徒への手紙13章8節
説教:佐藤 誠司 牧師
「あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。」(出エジプト記20章12節)
「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(ローマの信徒への手紙13章8節)
私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は第五の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の12節を読んでみたいと思います。
「あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。」
十戒は二枚の石の板に刻まれたことが出エジプト記に記されています。そこで、これは私たちの想像に基づくことですが、一枚目の石には主なる神様との関係が記されており、二枚目の石には隣人との関係が記されているというふうに解釈されてきました。真偽のほどは分かりませんが、なかなか説得力のある解釈だと思います。そして、もしこの解釈が正しければ、父と母を敬えと語る第五の戒めは、神との関係と隣人との関係を結ぶ懸け橋の位置にあることになります。それだけ、古代イスラエルにおいては、父と母は神の恵みを子どもに伝える教師として重んじられたのです。
しかし、この第五の戒めは読み方に注意が必要です。この戒めは日本においては、教会学校やキリスト教幼稚園で取り上げられることが多かったので、子どもたちに向かって、お父さんお母さんを大切にしなさいと語っていると理解されることが多かったと思います。しかし、十戒の他の戒めを見てみると、どうでしょう。どの戒めも、子ども向けではない。むしろ、成人して一家を構えているような人が対象であることが分かります。ということは、この「父と母」というのは、子育ても終わり、とっくに第一線を退いている年老いた父と母であることが分かってきます。これは、裏を返せば、こういうことを言わなければならないほど、年老いた父母を軽んじ、厄介者扱いする風潮があったということでもあります。例を挙げますと、旧約の箴言の19章26節に、こんな御言葉があります。
「父に暴力を振るい、母を追い出す者は、恥をもたらし、辱めを招く子。」
今は70代、80代であっても、自立して暮らしていける人が多いですが、当時は今よりもはるかに早く生活能力を失って、息子、娘の世話にならなくては生きていけない人が多かったに違いありません。その時に、もう親なんか要らないと。重んじることを止めて、捨ててしまう。そういうことが、やはり、あったのです。同様のことは新約聖書にも出て来ます。マタイによる福音書の15章4節以下に、こんなイエス様の言葉があるのです。
「神は、『父と母を敬え』と言い、『父や母を罵る者は、死刑に処せられる』と言っておられる。それなのに、あなたがたは言っている。『父または母に向かって、「私にお求めのものは、神への供え物なのです」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。」
イエス様の時代にも、ずいぶんと酷いことが行われていたのです。どうして年老いた父母を軽んじてしまうのでしょうか。
十戒の御言葉に併せて、今日はローマの信徒への手紙第13章の御言葉を読みました。短い箇所ですが、人が生きていく上で、欠くことの出来ない、いわば人生の急所とでも言うべき真理が語られた箇所です。
「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」
人と人とが一緒に生きていくとき、そこに必ず生じるのが貸し借りの関係です。お金の貸し借りだけではありません。お世話になったり、お世話をしたり、心配をかけたり、心配したり。そういう有形無形の貸し借りの中で、人間関係が形作られていくのだと、そう言っても過言ではないでしょう。誰でも誰かに借りがあるのです。その意味で、パウロは借りを作ってはならないと言っているのではありません。借りたままでいるな。必ず返せとパウロは言うのです。ここを、原文のニュアンスを補って訳すと、次のようになります。
「誰に対しても、借りがあってはならない。ただし、愛し合うことだけは、別だ。」
深い味わいのある言葉です。お互いに、いつまでも何かを借りっぱなしということがあってはならない。借りたものは、返さないといけない。しかし、愛だけは別だ。愛の負い目、愛の借りというのは、ずっと残る。いつまでも消えることがない。そう聞いて、私たちが思い至るのは、愛の負い目、愛の借りというのは、お金の貸し借りと違って、無限だということです。これがお金の借り、借金なら、いくらいくら借りていた額を、まあ利息は付いてくるかも知れませんが、全額、返し切ったら、もうそれでお仕舞いです。関係も、そこできれいさっぱり清算されます。
ところが、愛は、どうでしょうか。私は、あの人から百の愛を受けているから、百の愛を返せば、それで事足りると、そういうものでしょうか。私があの人に借りがあるのは、百までであって、その百を全部、果たしたら、もうその先は愛さなくても良い。もう私は、あの人を愛する義務から解放される。もう何の義理も無い。やれやれと、そのような期限付きの愛、計量カップでキッチリ測ったような愛が、果たして、本当の愛と言えるのか、はなはだ疑問です。愛というのは、本来、測れないものでしょう。
私の父と母は、すでに亡くなりましたが。父母の死後、事あるごとに、私は、そういう愛の負い目の記憶が甦ってきます。あんなに愛されて、大事にしてもらって、本当に身を削って育ててもらった。その愛に自分は応えただろうか、と、そう思いますと、愛というのは、到底返しきれない負い目なのだと、つくずく思います。
なぜ、愛の負い目というのは、いつまでも返し切れないで残るのでしょうか。私たちが、多額の借金をしていて、それを返し切れなかったら、どうでしょう。やはり、いつもそれが気になると思うのです。自分にお金を貸してくれている人に、偶然、町で会ったりしますと、本当に申し訳なく思う。心が落ち着かない。相手をまともに見ることが出来ないほど、恐縮してしまいます。
しかし、愛の負い目は、どうでしょうか。不問のまま、誰にも言うことなく、自分でも問うことなく、心の奥底に返し切れないまま、心の痛みとして、残されている。それが愛の負い目ではないかと思います。愛は負い目なのだとパウロは言いました。しかも、この負い目は、返し切れない借金のような負い目です。心痛む負い目と言っても良いかもしれません。もちろん、パウロがそのように言ったのは、私たちを責め苛むためではなかったでしょう。しかし、それを承知の上で、パウロは私たちに問うています。あなたは愛の負い目を返しているか、と、パウロは、そう問いかけているのではないでしょうか。
パウロは、このローマの信徒への手紙の中で、繰り返し、私たちが神様に負い目を返し切れていない罪人であることを語ってきました。律法を守ることで自分たちは愛の負い目を神様にお返ししているのだと信じきっている人たちが、じつは、神様の御心を蔑ろにしている、侮っている。その事実を、パウロは厳しく指摘しました。
愛の負い目を果たすことが出来ない。愛の負い目を払い切れない。言い訳に言い訳を重ねて生きている。そういう姿で生きていかざるを得ない、そういう人間の、どうしようもない罪の真っ只中に食い込むようにして、神の愛が現されたのだとパウロは、この手紙で語ったのです。
律法の心と言いますか、律法の、いちばん大事なことは、詰まるところ、隣人を自分のように愛することなのだとパウロは語りました。そして、愛は隣人に悪を行わない。だから、愛は律法を全うするのだとパウロは言う。しかし、パウロの言う愛とは、いったい、誰の愛なのでしょうか。私たちの愛でしょうか。
私たちは、他者と一緒に生きる中で、絶えず傷つきます。また逆に人を傷つけてしまいます。時には、人を傷つけることによって、自分も深く傷ついてしまう。そういうことがあるものです。相手を一生懸命になって愛そううとしても、結局は相手を傷つけ、自分も傷ついてしまう。私たちの愛は、不完全なのです。しかし、そこへ主イエスが来られて、まことの愛を身をもって示してくださいました。その愛は罪の赦しとして、私たちに与えられたのです。
主イエスがいてくださったから、立ち直ることが出来た。そういう人が、皆さんの中にも、たくさんおられると思うのです。愛は隣人に悪を行わない。愛は律法を全うするのだとパウロは言いました。この愛は、誰の愛でしょうか。私たちの愛でしょうか。違います。では、誰の愛か。もう皆さん、お気づきのことと思います。主イエス・キリストの愛なのです。
キリストの愛というのは、愛の理念でもなければ、観念とか教えでもない。私たちを生かす愛のことです。だから、主イエスの愛は人に悪を行わない。人を立ち直らせて、もう一度生かす。私たちは、このお方に愛の負い目を負うているのです。
「あなたがたは、互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」
私たちは本当に大きな負い目を、このお方に負うております。決して返し切ることの出来ないほどの、大きな大きな負い目です。いつまでも痛みがあり、心疼く思いがいたします。申し訳ない気持ちで一杯になります。けれども、私たちは一人で生きているのではないですね。隣人と共に生きている。家族と共に生きている。その隣人と私との間に、キリストがおられる。キリストの恵みが我々のうちに生きていることを知る。だから、私たちは隣人と共に生き、家族と一緒に生きる時に、キリストの恵みに応えることが出来る。それだけが出来る。キリストの恵みにお応えをする、その時に、私たちは愛の負い目を、心苦しいものとしてではなく、むしろ、喜ばしいものとして心に刻むことが出来る。イエス・キリストに対して私たちが負うている愛の負い目とは、そういうものではないでしょうか。
「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」
私たちは、イエス・キリストに大きな大きな負い目を持っている。愛の負い目を負うているのです。これは、心痛む負い目ではありません。申し訳ない負い目ではない。本当に喜ばしい負い目です。今、私たちは、イエス・キリストに対して負い目がある。借金が出来ている。借財があるのです。これをお返ししなければならない。
イエス様に返すのでしょうか。いや、そうではない。隣人と共に、生きる。健やかに、祈り合い、支え合って生きる。それこそが、主イエスに負い目をお返しするということです。だから、私たちは、礼拝において、愛の負い目を知らされて、喜んで我が家に帰り、家族と共に生きる。隣人たちと一緒に歩む。そのときに、年老いた父母を心から敬うということも、可能になると思うのです。
日本には「親孝行、したい時には親はなし」という格言があります。多くの人が納得する格言ではありますが、私はこれは、あまりに寂しい格言だと思います。親が亡くなれば、私たちは父母と親しく接することが出来なくなるのでしょうか。私は、そうは思わない。私は時に思うのですが、父母が天に召されたその後も、私たちは父母と親しく接することが出来る。いや、むしろ、生前よりも親しく、愛情深く、節度を持って接することが出来る。心の中に、幾度となく父母をよみがえらせて、「お父さん、お母さん、これで良かったのですか」と相談事までしている。私はこれも「父と母を敬う」ことではないかと思う。私はそこに愛の負い目を生きる生き方があるのだと思うのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月16日(日)のみことば
「主の望みは彼の手によって成し遂げられる。」(旧約聖書:イザヤ書53章10節)
「どうしようか。私の愛する息子を送ろう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」(新約聖書:ルカ福音書20章13節)
今日の新約の御言葉は主イエスがお語りになった「葡萄園の農夫」の譬えの一節です。葡萄園の主人が農夫たちを信頼して、葡萄園の管理と収穫を任せています。ところが、農夫たちは主人の信頼をよいことに、勝手きままのし放題。収穫の時期に主人が収穫を得ようと僕を送ると、農夫たちは僕を袋叩きにして手ぶらで帰らせます。しかし、主人は怒ることなく、次の収穫の時期に、もう一人の僕を送りました。ところが、農夫たちの僕に対する扱いは更にひどくなっていて、今度は僕を侮辱したと書いてあります。侮ったのです。これは、農夫たちが、もはや雇い人ではなく、主人になっているということです。
ところが、ここに至っても主人は農夫たちを信頼する。そして、愛する息子を送ろうとまで決心をするのです。ずいぶんお人よしの主人だなと思われたかも知れません。しかし、主イエスの譬え話に登場する主人というのは、概してお人よしです。気前が良いのです。しかも、人の心の腹黒さを見抜けないほど、底抜けにお人よしです。疑わないのです。なぜでしょうか。主イエスの譬え話に登場する主人や父親というのは、神様のことです。私たちは、ひょっとして父なる神様に、この農夫たちのように振舞ってはいないかという問いかけが、ここにあります。