聖書:列王記上8章27~30節・使徒言行録4章1~12節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿など、なおさらです。わが神、主よ。あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕が御前に献げる嘆きと祈りを聞き入れてください。夜も昼も、この神殿に目を向けてください。ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。」(列王記上8章27~29節)
「皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストによるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石』です。この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章10~12節)
私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は前回(10月5日)に引き続いて、第三の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の7節を読んでみたいと思います。
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」
いかがでしょうか。戒めの言葉は今読んだ箇所の前半部分です。そして、後半は戒めではなく、警告の言葉です。こういう警告を伴う戒めというのは、読み方が難しいのです。私たちも幼い頃、身に覚えがあります。小さい子供を躾ける時に「そんなことしたら、罰が当たるよ」と言われたこと。また長じて、逆に子供に向かって同じことを言っている自分に気が付くことがあります。「罰が当たるから」と警告を発して、戒めを守らせようとするのです。このやり方ですと、表面上は子供は素直に戒めを守っているように見えますが、それは心からの従順をもって守っているのではない。怯えているから守っている。罰が当たるのが怖いから守っている。そういうことが、よくあるものです。
十戒の第三の戒めも、そうです。ユダヤ教の歴史の中で、罰を恐れるあまり、主なる神様の名を口にしない時代が長く続きました。その結果、どうなったかと言うと、いつの間にか、神様の本当の呼び名が分からなくなってしまったのです。ここにあるのは、神様への愛と信頼ではなく、恐れです。奴隷が主人を恐れる心です。恐れがあると、神様を呼ぶことも、祈ることも出来ません。神の名を呼ぶことが出来なくなったら、誰が愛と信頼をもって神様に祈ることが出来るでしょうか。神様の名を呼ぶことが出来るというのが、何よりも大事です。主なる神の名を呼ぶことが、礼拝の根拠であり、祈りの第一歩だからです。
それでは「神の名」ということが、聖書の中に、どのような形で出て来るか。とてもそのすべてを取り上げることは出来ませんが、代表的な箇所を挙げて、ご一緒に検証していきたいと思います。神様の名が出て来る箇所の、旧約の代表格として、今日は列王記上の8章の御言葉を読みました。ソロモン王が神殿を建設した際に、その神殿を主なる神様におささげする「神殿奉献」の祈りです。この祈りを、キリスト教はそのまま引き継いで、今でもキリスト教の会堂が新しく建てられた時、献堂式で必ずこの祈りをささげます。ソロモンは、こう祈っているのです。
「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿など、なおさらです。わが神、主よ。あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕が御前に献げる嘆きと祈りを聞き入れてください。夜も昼も、この神殿に目を向けてください。ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。」
今読んだところの最後に「そこに私の名を置く」という言葉が出て来ました。神様が神殿にご自分の名を置いてくださる、ということです。「名を置く」とは、どういうことなのでしょうか。順を追って考えてみますと、神ご自身は地上に住まわれることはない。これはハッキリしていることです。神様は、その名において、地上に現実となってくださる。ですから、神様は御自分の名を、この神殿に置いてくださった。何のために置いてくださったかと言うと、信じる者たちにご自分の名を呼ばせるためなのです。「名を呼ぶ」というのは、「祈ること」「礼拝をすること」だと言っても良いでしょう。ですから、神の名が置かれる所は、祈りと礼拝が成り立つところです。イエス様がエルサレムにお入りになって、神殿の商売人たちを追い出した際に言われたお言葉を思い出します。あの時、イエス様は
「私の家は祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。
新約聖書に移りますと、まず第一に読むべきなのは、やはりヨハネ福音書の17章の6節。ここは主イエスが十字架に付けられる前の晩に弟子たちに語られたお言葉の最後に位置する「大祭司の祈り」と呼ばれている祈りの言葉です。主イエスは、こう祈っておられるのです。
「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現わしました。」
この「御名を現す」というのは、平たく言えば、イエス様が弟子たちに父なる神を紹介してくださった、ということです。さあ、イエス様が紹介してくださった神の名とは、どういう名だったでしょうか。もうお分かりの方も、おられると思います。そう、父なのです。ここだけではありません。主イエスというお方は、生涯を通じて父としての神を指し示してくださいました。「主の祈り」が、まさにそうですね。主イエスが教えてくださったから、私たちは「天にまします我らの父よ」と呼び掛けて祈ることが出来るようになったのです。
もう一つ、これと併せて読みたいのが、マタイ福音書の18章が伝える主イエスの約束のお言葉です。主は私たちに、こう約束してくださったのです。
「よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」
生まれたばかりの教会は、まことに小さな群れでした。それこそ「二人または三人」が集まっただけの小さな礼拝です。その小さな群れにとって、この御言葉は、大きな励ましであり、慰めでもあったでしょう。しかし、これは人数のことを言っておられるのではありません。たとい小さな群れであっても、私の名によって集まっているなら、私もその中にいるという約束です。何のために集まっているのでしょうか。主の名を呼ぶためです。主の名によってのみ成立する集まりを造るために、集まっている。私たちが主の名によって集まり、主の名によって祈り、礼拝をする時、主はそこにおられます。これは先ほど読みました旧約の列王記上が伝えるソロモンの神殿奉献の祈りが実を結んだ形です。あのソロモンの祈りは千年の時を経て、キリストの教会の中に実を結んだのです。教会の歩みにとって、主の名がいかに大きな意味を持つか。それを雄弁に語っている物語を最後に読んでみたいと思います。使徒言行録が第3章から第4章にかけて、力を込めて語っている論争の物語です。
聖霊降臨によって教会が誕生した。その直後の出来事です。教会が誕生したと言いましたが、ペトロたちは、当初、自分たちがキリスト教だという意識はなかったようです。せいぜいユダヤ教の一派のようにしか思っていなかったのです。だから、使徒たちは神殿礼拝に参加することを止めなかった。
ところが、その神殿で事件が起こります。午後3時の祈りのために、ペトロとヨハネとが神殿に行こうとすると、神殿の東の正門である「美しい門」の前に、足の不自由な一人の男が運ばれてきて、まるで物のように置かれていた。ペトロは彼に言います。
「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そう言って、ペトロが彼の右手を取ってやると、彼は躍り上がって立ち、歩き出したのです。この出来事に集まってきた人々に向かって、ペトロとヨハネは事の次第を語って聞かせます。ペトロたちは、こう言うのです。
「イエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒したのです。」
主イエスの名ということが繰り返し言われております。主イエスは生前、弟子たちに繰り返し、こう言っておられました。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」
こう言って、弟子たちがご自分の名を使うことを許してくださったのです。この事件は新しい時代の到来を示しています。主イエスは今や天におられて、確かにこの地上にはおられない。けれども、主イエスの御業が、主イエスの名によって歩む弟子たちによって行われる。そういう時代が到来したことを、この「美しい門」の事件は明らかに示していると思います。
この新しい時代の到来に、弟子たちよりも早く気がついたのは、意外にも、エルサレム神殿当局でした。ペトロとヨハネが、なおも人々に話していると、そこへ祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやって来て、彼らを捕らえ、翌朝まで牢獄に閉じ込めたのです。
その翌日、ユダヤの最高裁判所にあたる最高法院が召集されます。これを見ても、神殿当局がいかにペトロたちを警戒していたかが分かります。この人たちは、ほんの2ヶ月前、主イエスを十字架につけるために集まったのと同じ面々です。さて、彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、こう言います。
「お前たちは何の権威によって、誰の名によって、こんなことをしたのか。」
ペトロは聖霊に満たされて語り始めます。
「皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストによるものです。」
ペトロはハッキリと言い切っています。あなたがたが主イエスを十字架につけて殺したのだとハッキリ言い切っている。これがじつは初代教会が語った福音のメッセージの特徴なのです。あなたがたが主イエスを十字架につけて殺してしまった。その主イエスを神は復活させられた。つまり、あなたがたは神に背く者であったのだとハッキリ告げている。しかし、これは人々の罪を断罪しているのではない。そうではなくて、神に背く人々の罪を、赦すために、主イエスは十字架についてくださったのだと、そこまで一気に語っているのです。
さて、ペトロはさらに言葉を続けます。
「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石』です。」
家を建てる者というのは、大工さんのことではありません。家というのはハウスのことでなくて、神の民が集う神の家のことです。あなたがたは、エルサレム神殿こそ神の家だと思っているが、そのあなたがたが捨てた主イエスの命が、隅の親石となって、まことの神の家が建てられているではないか、と、そうペトロは言うのです。もちろん、それは教会のことです。教会こそ、まことの神の家なのだという主張が、ここにあります。キリスト教がユダヤ教から分かれていく。その過程で起こったのは、神殿礼拝との決別であり、またシナゴーグと呼ばれた会堂での礼拝との決別です。神殿から追放され、会堂からも追放されて、礼拝の場から完全に閉め出されたときに、礼拝とはどういうことなのかということが、かえってハッキリと浮かび上がってきた。礼拝とは場所のことではない。神殿がなくても、会堂がなくても、主イエスの名によって集まり、主イエスの名によって祈り、主イエスの名によって神をあがめるならば、そこにまことの神の家が建つのだと、彼らはハッキリと悟る。ですから、教会というのは建物ではない。むしろ出来事といったほうがよいと私は思います。その中心にあるのは主イエスの名です。ですから、ペトロの説教は、こう続きます。
「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
ハッキリと、私たちは主イエスの名によって救われるのだと告げています。これが生まれたばかりの教会が発した福音のメッセージです。初めにお話ししたように、弟子たちにはまだキリスト教という意識すらなかった。自分たちはユダヤ教の一派だと思っていたのです。しかし、彼らの意識ではなく、彼らが語った福音のメッセージが道を開く。主の名が道を開く。神を父と呼び、主イエスを救い主とあがめる道が開かれるのです。この福音のメッセージが開く道の果てに、私たち日本人キリスト者と日本の教会がある。そのことを忘れてはならないと思います。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月2日(日)のみことば
「最も小さな者が氏族となり、最も力のない者が力ある国となる。主なる私は、時が来れば、速やかにこれをなす。」(旧約聖書:イザヤ書60章22節)
「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」(新約聖書:ローマ書16章25節)
神様は、あなたがたを強めることがお出来になる、と言われていますが、この「強める」という言葉が、大切なキーワードです。じつは、この言葉は、新共同訳聖書は「強める」と訳していますが、多くの場合「力づける」と訳されることのほうが多い。パウロや、パウロの弟子であるルカが、特に好んで使った言葉です。その典型的な例がルカ福音書の22章32節に出て来ます。十字架につけられる前の晩に、最後の晩餐の席で主イエスが弟子のペトロに言われた言葉です。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
この最後に出て来る「力づけてやりなさい」という所にあの言葉が使われています。すべてを予見なさった上で、あなたは立ち直ったら、今度はあなたが兄弟たちを力づけてやりなさい、と、さりげなく使命を託しておられる。その使命が兄弟たちを力づけることだったのです。この「力づける」ことには、三つの大切な意味があります。一つは、いつもそばにいるということ、二つ目は、決して見捨てないということ、そして、三つ目は、絶えずその人のために祈る。これは、考えてみれば、イエス様がペトロのためにしてくださったことです。それを、あなたは立ち直ったら、兄弟たちにしておあげなさいと、主イエスは言われるのです。