聖書:イザヤ書35章5~6節・マルコによる福音書10章46~52節

説教:佐藤 正幸 神学生

「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、また見えるようになることです』と言った。イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」 (マルコによる福音書10章50~52節)

「何をしてほしいのか」。イエスさまに、そう尋ねられたなら、私たちはなんと答えるでしょうか。けさ与えられた新約聖書の箇所は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のすべてに収められている、主イエスが盲人「バルティマイ」を癒した物語です。3つの福音書のうちマルコだけが、この盲人が「バルティマイ」という名前であることを記しています。マルコが名前を記録するのはとても希であることに加えて、内容も詳しく書かれていて、この出来事がマルコにとってとても重要だったことが分かります。

この物語は、イエスさまがエルサレムに入る直前に置かれています。エルサレムへの道、それは主イエスさまの十字架への道です。その途上で立ち寄ったのがエリコという町でした。エリコは、エルサレムから25キロほど北東にある交通の要所で、エルサレムに礼拝に向かう人たちや商人たちであふれ、多くの人でにぎわっていました。

「一行はエリコの町に着いた。」「一行は」とあります。イエスさまには12人の弟子のほかに多くの人々が従っていました。彼らはイエスさまのことを何と呼んでいたのでしょうか。

8章28節を見ると、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、預言者の一人だ」などと言っていたことが分かります。

バルティマイは盲人で、道端に座って施しを受ける「ものごい」でした。彼は、イエスさまがやってきたと聞いて大声でこう叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」まわりにいる群衆とは全く異なる呼びかけでした。「ダビデの子、イエスよ。」この言葉が示すのは、「ナザレのイエスはメシアである。」待ち望んでいた救い主、キリストである。」ということです。これはバルティマイの信仰告白です。8章29節でペトロが告白した「あなたは、メシアです」と同じ信仰告白なのです。

信仰告白とは、周囲の人々があわてて「そこまで言ってはならない」と言うものです。

「イエスは主です」と告白するとき、周囲の人たちは驚きあわてて、そうさせまいとするのです。黙らせようとするのです。現在の私たちも同じような経験をしているのではないでしょうか。その時、私たちは黙っていないでしょうか。

しかし、バルティマイは叫びました。「ダビデの子イエスよ。」人々がどんなに𠮟りつけてもバルティマイは叫ぶのをやめませんでした。やめるどころか、ますます叫び続けました。

「救い主、イエスよ。わたしを憐れんでください。」何が彼にそうさせたのでしょうか。

彼はずっと取り残されていました。自分の力ではどうすることもできない境遇に置かれていたのです。万策(ばんさく)尽きていたのです。イエスさまに叫ばざるを得なかったのです。このバルティマイの叫びを聞き、イエスさまは立ち止まり、目を向け、人を介して彼を呼ぶようにと人々に命じました。「安心しなさい。立ちなさい、お呼びだ。」ここで「安心しなさい」と訳されている言葉には「元気を出しなさい」、「勇気を出しなさい」という意味もあります。ヨハネによる福音書16章33節の『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。』という箇所で使われている

「勇気を出しなさい」と同じです。

バルティマイは、上着を脱ぎ捨ててイエスさまのところへ来ました。上着は彼にとって大切なものです。夏は強い日差しを、冬は寒さをしのぐかぶり物であったでしょう。施しを受けるために地面に広げて使うこともあったでしょう。上着は彼にとって唯一の財産だったと言ってよいのです。しかし、彼は上着を脱ぎ捨てました。そして、躍り上がってイエスさまのもとへ向かったのです。

けさ与えられているもう1つの聖書箇所、旧約聖書イザヤ書の35章5節と6節にはこうありました。「その時、見えない人の目は開けられ 聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように飛びはね 口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が 砂漠にも流れが沸き出る。」イザヤ書35章は、救いの到来を待ち望む思いをうたった代表的な箇所です。神の到来によって起こる出来事の預言です。苦難の中にあってもバルティマイは神の御業を待ち望んでいました。回復の希望を失ってはいなかったのです。

イエスさまはバルティマイにお尋ねになります。「何をしてほしいのか」。バルティマイの苦しみは明らかです。して欲しいことは明らかです。しかし、イエスさまはあえて問われます。「何をしてほしいのか」。けさの箇所の直前に置かれた10章35節以下で、イエスさまは弟子のヤコブとヨハネに全く同じ言葉で問いかけています。

「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。』これは、自分たちを弟子の中で最高の地位につけてほしい、という願いです。

しかし、イエスさまが「栄光をお受けになるとき」、それはどのような時なのでしょうか。

その時とは、イエスさまが十字架におつきになる時のことです。この時の二人には想像できないことでした。イエスさまはおっしゃいました。『あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない。』ヤコブとヨハネは12人の中でも有力な弟子です。ずっとイエスさまに従ってきた弟子でした。しかし、的を外していました。ヤコブとヨハネは十字架に向かわれる「イエスさまの道」を理解していませんでした。「その時」、それは、イエスさまが栄光をお受けになる時。十字架の時なのです。肉の目は見えていても実は何も見えていませんでした。イエスさまはバルティマイにも同じように尋ねました。『何をしてほしいのか。』

バルティマイの答えは「見えるようになること」でした。主イエスだけが頼りでした。必死だったに違いありません。

実は、ここで描かれていることは私たち自身の問題なのです。思い起こしてみましょう。私たちが「神さま!」と叫んだのは、自分の力ではどうにもならない時、ただ助けを求めるしかない時ではなかったでしょうか。イエスさまはバルティマイにこうおっしゃいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そして、バルティマイの目は見えるようになったのです。

「あなたの信仰があなたを救った。」ここで言われている「信仰」とは何でしょうか。同じマルコによる福音書の5章34節に十二年間、長血を患っていた女性の物語があります。

イエスさまはおっしゃいました。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。』」女性は、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけでした。大勢の群衆に阻まれながらも、女性は「イエスさまの服にでも

触れればいやしていただける」と思い、必死にそのようにします。そして、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話しました。

信仰という言葉の意味を辞書で調べると「深く信じ、疑わないこと。経験や証明といった根拠を必要とせず、信じる対象への絶対的な確信に基づいていること。その対象に一方的に自己を委ねること」とあります。私たちはどうでしょうか。自分の力に頼るのではなく、神に、イエスさまに全面的に頼ること。これが信仰なのではないでしょうか。

では、どうすれば信仰を持つことができるのでしょう。いいえ。信仰は持つものではありません。与えられるものなのです。自分の頑張りではない。神の側からの一方的な恵み。

私たちを愛し抜かれたイエスさまを通して与えられるものなのです。

私たちはバルティマイが盲人だったということを人ごとと考えてはならないと思います。

マタイによる福音書の15章14節でイエスさまは「彼らは盲人を手引きする盲人である」とおっしゃいました。また、ヨハネによる福音書9章41節では「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だからあなたがたの罪は残る。」とおっしゃっています。わたしたちは大切なことが見えていないのです。

イエスさまは、マタイによる福音書7章2節でこうもおっしゃいました。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にあるハリに気づかないのか。」わたしたちが人よりもよく見えると誇るとすれば、その見えるところは人々の欠点でしかないでしょう。

よく見えるとは、実はそれだけ盲目であるのです。イエスさまの前に立つとき.わたしたちは自分の目が見えていないことを知らなければならないのではないでしょうか。

私はこの夏、伝道実習生として四国の高知教会に派遣され1か月間学びました。夏期伝道実習は、神学生が全国各地の教会へ派遣され、説教をはじめとするさまざまな奉仕を行うとともに伝道者の生活について学ぶものです。実習が始まる前、私は、夏期伝道実習が「良い牧師になるための学び」の場だと思っていました。良い先生に指導をしていただき、きれいに証を語り、上手に説教を語る方法を学ぶのだと思っていました。ところが、始まってみるとうまくいきません。悩みました。その考えが間違いだということがわかったのは実習が終わる直前でした。

私は、自分の力で自分を変えようとしていたのです。私は分かっていませんでした。神さまがどんなに私たちを愛してくださっているのか。よき賜物を与えてくださっているのか。そして、愚かで罪深い私のためにもイエスさまが十字架についてくださった、そして復活なさったのだという福音が見えていなかったのです。信仰は、努力し、頑張って得るものではない。信仰は神さまの側からの一方的な恵みである。それは、私たちを愛し抜かれたイエスさまを通して、すでに与られているものだということを示されました。聖書を教科書のように読んでいたこと、イエスさまの言葉を「こうしなければならない、と律法的に受け止めていたこと御言葉から聞いて語るのではなく、自分の経験を御言葉にあわせようとしていたこと、本当に大切なことが、私には見えていなかったのです。

そして、もう1つ見えてきたことがあります。高知教会の牧師先生がおっしゃいました。「都会に住んでいる人たちは「地方の教会は大変だ」とばかり言っていますが、そんなことはありません。確かに、四国教区には、小さな教会、無牧の教会がたくさんあります。高齢化が進んでいます。礼拝出席の数が少なくなっています。子どもの数も減っています。財政的にも厳しい。でも、それだけを見て「大変だ」と言うのは間違いです。元気に、喜んで、神さまに仕えています。」本当だろうか、と思いました。しかし、実習を通してそれが正しいことが分かりました。信徒ひとりひとりの表情が生き生きとしているのです。すべてを委ねているのです。信頼しているのです。神さまが導いてくださることを確信しているのです。

イエスさまに癒され、バルティマイは見えるようになりました。では、そのあと、彼はどうなったのでしょうか。バルティマイは、イエスさまから「行きなさい」と命じられました。しかし、彼はそこから立ち去りませんでした。目が見えるようになったら、行ってみたい、やってみたいという願いが数多くあったに違いありません。しかし、バルティマイはイエスさまに従いました。バルティマイはイエスさまに押し出されて、歩み出したのです。

エリコからエルサレムまでは急な登り坂です。十字架への道です。彼はイエスさまに従いました。この物語は奇跡物語であると同時に「召命物語」でもあります。バルティマイの「献身」の物語でもあるのです。バルティマイは、十字架に向かうイエスさまに招かれ、エルサレムに向かいました。彼は残された生涯をイエスさまに献げ、エルサレムヘ行き、初代教会の一員となったのに違いありません。だからこそ、バルティマイという名前が残ったのです。

では、私たちはどうするのでしょうか。何を見て生きるのでしょうか。私たちも「イエスは主です」と告白することを許されました。しかし、このあわただしさとさわがしさの中で、私たちの信仰は埋もれてしまい、そのことを忘れそうになります。自分のおろかさ、罪の大きさに押しつぶされそうになります。苦しくてたまらなくなる。私という人間がつくづく嫌になります。多くの苦難が押し寄せます。望みを失いそうになります。この苦しみはいつまで続くのでしょうか。

しかし、コリントの信徒への手紙二の4章8節にはこうあります。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」パウロは、どんな困難に直面しても、決して希望(のぞみ)を失わずに伝道しました。すべてを投げ出したくなったことが何度もあったことでしょう。なぜ、望みを失わなかったのか。神さまが愛してくださっていることを確信していたからです。すべてを委ねていたからです。私たちは心から、素直な思いで神に願うこと、祈り続けること、叫び続けることをやめてしまいます。しかし、イエスさまはそんな私たちのために必ず立ち止まってくださるのです。そして、私たちの心のなかにある思いを明らかにしてくださいます。私たちを「見える」ようにしてくださいます。それぞれが与えられた道を新しく歩ませてくださるのです。私たちは招かれているのです。そして、イエスさまに問われています。

『何をしてほしいのか。』

教会のシュウメイギク

 

 

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月26日(日)のみことば

「古くからの通り道に尋ねてみよ。『幸いの道はどこにあるのか』と。その道を歩み、あなたがたの魂に安らぎを見いだせ。」(旧約聖書:エレミヤ書6章16節)

「実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」(新約聖書:ローマ書10章10節)

今日のローマ書の御言葉は有名です。しかし、この有名な言葉は、しばしば誤解をされてきた言葉でもあります。その誤解とは、こういうものです。まず始めに「心で信じて」とあります。ここから、ああ、信仰というのは、まず心に始まるのだと理解をする。まず、自分の心の中で「ああ、そのとおりだ」と納得するところから始まる。しかし、ただ心で信じているだけでは駄目なのであって、それを口に出して言わなければならない、と。しかし、その理解はハッキリ言って間違いです。

じつは、このパウロが言っている「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」というのは一種の対句で、一つのことを別の言葉で言い表したものです。どういうことかと言いますと、心で信じることと告白することは、別々のことではなくて、一つのことなのです。そうでないと、「義とされる」ことと「救われる」ことがバラバラになってしまいます。心で信じたから義とされるところまでは行ったけれど、まだ救われていないなんてことは、あり得ないわけです。しかし、それなら、どうして私たちは、誤解をしてしまうのか。それは、おそらく、私たちが信仰について考える時に、まことに日本人的な考えを持ってしまうからではないかと思います。私たち日本人は、神を信じることを自分の心の問題だと考えます。しかし、信仰というのは、そこに留まるものではない。そこに留まってしまいますと、信仰というものが、結局、心の持ち方とか、心の状態といった、多分に気分的・情緒的なものになってしまいます。