聖書:出エジプト記20章1~3節・マルコによる福音書12章28~34節
説教:佐藤 誠司 牧師
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」(出エジプト記20章2~3節)
「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」 (ヨハネによる福音書16章33節)
私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学び始めて、今日が4回目になります。これまで十戒について理解を深める中で、少しずつ分かってきたことがあります。それは十戒は単なる規則集ではなく、契約なのだということです。今は日本でも契約ということが、ずいぶんと言われるようになりましたが、その多くは契約書を取り交わすというような人と人との契約、会社と会社の契約だと思います。これは英語で言うと<contract>です。相互の義務を確認し合う契約のことです。
それに対して、相互の義務ではなく、相互の信頼に基づく契約があります。これは英語で言うと、<covenant>です。十戒を始めとする聖書が語る契約は、ほぼほぼ、このカヴェナントの契約です。残念ながら、このカヴェナントの契約は、日本社会ではほとんど知られていない、と言うより、知られる機会が、あまりにも少なかったのです。日本の社会で、かろうじてカヴェナントの契約を体現しているのは、キリスト教の教会とキリスト教の結婚式だと思うのですが、いかんせん、教会も結婚する本人たちも、その自意識がほとんど無いのが現状です。
カヴェナントの契約は、言葉を替えると互いに向かい合う契約と言うことが出来ます。結婚の場合は結婚する二人が互いに向かい合います。教会の場合は当然、神様と私たちが向かい合うわけです。神様と私たちが向かい合うのは、いったい、どこでしょう。そう、礼拝なのです。十戒は、礼拝において神と向かい合い、神様を礼拝しつつ、神から与えられる契約です。ですから、十戒は当然、神がご自身を現わす自己紹介の言葉から始まります。それが出エジプト記20章の2節の言葉です。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」
お気づきでしょうか。「私とあなた」の関係が、ここにあります。これが「向かい合う」関係です。真正面から向かい合っているから、「私とあなた」の関係になる。相手を「あなた」と呼ぶことが出来るわけです。十戒を読み進める上で、いちばん大切なのは、一つ読み進めるたびに、この「私とあなた」の関係、向かい合う関係を確認し、そこに立ち続けることです。このように、私たちが神と向かい合うところ、それは礼拝以外にはあり得ません。礼拝に於いて、共に神を賛美し、共に祈る。そこで私たちは繰り返し、神との契約を思い起こさせていただきます。礼拝から送り出されてからも、神との契約を忘れることのないように、心を傾けます。そのために語られるのが、十戒だったのです。
神との契約に生きる。これは言い換えますと、神への服従に生きるということです。神様を知るということは、自分が主人ではないことを知ることです。その意味で、神様を知ることは、新しい主人を得ることでもあります。先々週、先週と続けて、横浜と札幌に誕生したプロテスタントの集会でキリスト者となった若者たちの話をしました。彼らの多くは元士族であり、明治維新で主人を失った階級の若者が多かったのです。この人たちの福音を感じ取る感性というのは、まことにユニークかつ鋭いものがありまして、彼らは福音の中にまことの武士道の心が生きていると直感したのです。主人に心からお仕えするとは、こういうことなのかと、彼らは感じ取った。そして、主イエスとその父なる神に心からお仕えする志を明らかにして、そこから困難な状況に耐えて信仰を生活の中に貫き通す誠実な歩みが生まれたのです。私は、福音の伝道のために命を賭けた宣教師たちと、主人への忠誠を本分とする武士道に養われた若者たちとの出会いが、その後の日本のプロテスタント教会の性質を、ある意味決定づけたと思っています。そして、彼らの信仰を決定づける上で、大きな影響力を持ったのが十戒だったのです。
この信仰は、明らかに戦いの信仰です。これは、日本におけるプロテスタント・キリスト教の信仰が「戦いの信仰」の側面を当初から持っていたことを示しています。これは私たち現代のプロテスタント教会が弁えておくべき点であると思います。十戒は私たちに戦いを促す言葉であると思います。戦いと言っても、武力で敵をやっつける戦いではありません。では十戒が求める戦いとは、どういう戦いなのか。それは出エジプト記の32章の1節以下を読むと、よく分かります。
イスラエルの人たちは、モーセが山から降りて来るのが遅いので不安に駆られて、モーセの兄弟アロンに「私たちを導く神を造ってくれ」と頼み込みます。アロンはこのとんでもない願いを聞き入れて、女たちの金の耳輪を持って来させて、それで金の子牛の像を造り、これこそ我々をエジプトから導き出した神であると宣言した。そして人々はこの金の子牛に犠牲をささげて、飲み食いをしたとあります。
ここに、十戒が戦いを促す言葉だということの根拠が記されています。戦いとは敵の存在が前提ですが、意外や意外、その敵は外部にあるのではなかった。十戒が語る戦いの本当の敵は、信仰者の心の内にあったのです。しかもこれは、最も手ごわい敵です。なにせ、モーセが民の代表として山の上で神の前に立ち、契約を結び、十戒を与えられていたときに、こともあろうに、その山のふもとで、神様への裏切が同時進行していたのです。人の心は、かくも容易に、まことの神と偶像の神を取り違えてしまうのです。しかも、その先頭に立っていたのはモーセから留守を託された兄弟アロンだったというのですから、これはもう、申し開きは出来ません。こうして、ユダヤの民の歴史は、その最初から、まことの神に対する裏切りの歴史となりました。
しかし、旧約聖書が本当に語っているのは、裏切りの歴史でもなければ、民の不信仰のていたらくでもない。この裏切りと罪の歴史の中から、ただお一人の神に対する信仰がいかにして芽生え、育っていったか。その一点を目指して、まさに天を仰ぐようにして語っているのが旧約聖書なのです。これは私たちにとっても、他人事ではありません。私たちの日々の戦いが、そういうものだからです。礼拝は、そのような戦いの場所であり、また戦いの拠点でもあります。礼拝に集まること自体が、すでに戦いです。若い頃は、体も丈夫で、行こうと思えば、すぐに礼拝に行くことが出来ます。しかし、年を重ねるに連れて、体の節々が傷んでくる。今日の礼拝に来られた皆さんの中にも、礼拝に出ることが戦いになっているという方もおられると思います。
十戒は戦いを促す言葉です。その意味で、戦いはこれから始まるわけですが、この戦いは神が既に戦いに勝利してくださっているから可能になることでもあります。主イエスが弟子たちに語られた言葉が思い起こされます。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」
神様は、ご自分の民に次のように語りかけてくださいました。
「私は主、あなたの神。」
この「主」というのは、ただ主として支配しているという意味ではありません。あなたの救い主、あなたの慰め主、それは私である、という意味です。旧約聖書には、神様が「私は主」と改めてご自身を告げる言葉が、しばしば出て来ます。「私があなたの主だ」と告げておられるのです。これは私が主人なんだから、黙って聞けということではありません。私があなたを選んだ。私が今、あなたを守っている。そして私がこれからもあなたを導くという、過去から現在、未来に渡って救いを告げる言葉です。ですから「私は主、あなたの神」というのは、神の民の救いと将来を保証する恵みの言葉なのです。
ついでの説明のようで申し訳ないのですが、十戒に出て来る「あなた」というのは、文法的には単数なので、個人を指していると思われがちですが、これは個人のことではなく、神の民イスラエルをあたかも一個の人間に向かい合うように語っておられる、神の人格的な語りかけを現す表現です。あなたを奴隷の身分から導き出し、解き放ったのは私であると、いわば戒めの言葉に先立って、神の救いの出来事を思い起こさせているのです。これが、当然ながら、この神様のみを神として礼拝する姿勢を生み出します。これが十戒の土台です。
このように、神の民イスラエルを奴隷の身分から引き出して、神の民の過去、現在から未来へと至る救いを保証してくださった神の愛が、やがて時満ちて御子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださいました。主イエスが私たちにしてくださったことも、これと同じです。同じではありますが、さらに深く、さらに確実に、私たちを罪の奴隷から引き出してくださいました。そのことによって、神様と私たちの間に確かな絆が出来ています。十戒が語る「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」というのは、あなたはこの絆に生きていきなさいという宣言です。ですから、十戒の第一の戒めを唱える私たちは、それによって、私はこの絆に生きていきますと約束をしているのです。
この約束が、私たちを信仰の戦いに押し出します。先にも言いましたように、この戦いは武力で相手をやっつける戦いではありません。静かな、しかし、粘り強い戦いです。1937年から1944年までの7年間、青山学院の緑岡幼稚園の教師として働いた田村忠子というキリスト者がいます。当時はあらゆる場所で宮城遥拝と言って、皇居の方角を向いて天皇を拝礼することが国民の義務とされ、御真影という天皇の肖像写真を拝むことが教育現場で強制された時代です。その中で、この人は、まことの神様だけを拝む本来のキリスト教保育を行い、当時の幼稚園を振り返って、次の文章を残しています。
「1941年、いわゆる大東亜戦争となり、日本は軍部の世の中になってしまいました。そうして、天皇は神となり、すべての団体は毎日天皇遥拝を強制されるようになりました。もちろん、緑岡幼稚園でも、当然これをやらねばならなくなったのですが、私自身は自分が天皇を神と思わないのに、これを子供らにさせる事はできません。しかも私共は、キリスト教主義をもって教育している青山学院の幼稚園です。天の神以外の者を礼拝する事は、私には絶対できません。もしこの事が軍部に知れて、牢獄に入ったとしても……私は天皇より神を恐れました。私は、子供らに天皇礼拝をいたさせませんでした。いつものごとく平和に楽しく、子供らは何も知らずに、喜々としていました。私は何度もダニエル書を読み、ダニエルが王を拝さないために獅子の穴に入れられた箇所を読み、そして、神の御守りを心から祈りました。」
私がこの人の文章に心引かれたのは、この人は反対運動をしたとか、抗議活動をしたというのではなく、むしろ淡々と、キリスト教保育の「当たり前」を貫いたことなのです。「いつものごとく平和に楽しく」という言葉が、彼女の姿勢を象徴しています。いつものごとく平和に楽しく、子どもたちと神様を礼拝した。いつの時代にも変わらないキリスト教保育の姿が、ここにあります。しかし、これは紛れもなく戦いであったと思います。その姿を支えていたのは、やはり十戒の御言葉だったと私は思います。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」
この御言葉は私たちに戦いを促す言葉です。しかし、この戦いは平和に徹する戦いです。この御言葉を高く掲げて歩む者でありたいと切に願います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月31日(日)のみことば
「私があなたを遣わす相手が誰であろうと、赴いて、命じることをすべて語れ。彼らを恐れてはならない。」(旧約聖書:エレミヤ書1章7~8節)
「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、きょうだいたち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(新約聖書:使徒言行録6章2~3節)
今日の新約の御言葉は、初代教会で起こった配給をめぐるトラブルの解決を語っています。教会の内部にも葛藤や対立は起こります。しかし、それら交わりの危機を本当の意味で打開し、新しい道を開くのは、祈ることと御言葉を一緒に聞くことです。使徒たちは、そこに気付くことが出来た。だから、使徒たちは、神の言葉をないがしろにして制度改革に励むのではなく、むしろ、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念し、ふさわしい働き手を立てることにしたのです。
教師・伝道者は祈りと御言葉の奉仕に専念することが大事です。さらに言うなら、教師を祈りと御言葉の奉仕に専念させる意志と気風が教会に求められると思うのです。牧師が「こんなことまで」と思うような下働き・雑用に専念している教会があります。専念させられているのです。これは教会論が弱い教会に多く見受けられます。教会論が弱いと、教会的な筋道よりも、熱心さや活気が重んじられて、教会が一種のムーヴメントになってしまいます。そのムーヴメントの維持・活性化のために牧師が雑用に走る。いかに活気に満ちていても、これは「好ましくない」姿です。