聖書:詩編1編1~6節・ローマの信徒への手紙13章8~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「幸いな者。悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。」(詩編1編1~3節)

「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな』、そのほかどんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマの信徒への手紙13章8~10節)

 

これまで、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を学んできました。ずいぶん長く学んできたと思いますが、その学びも先週で最終回となりました。そこで次は何を読もうかと、あれこれと思案しましたが、つながりを考えて「十戒」を読むことに致しました。

どうしてつながりを考えると「十戒」になるかと言いますと、使徒信条と十戒、そして主の祈りという順序で信仰の学びを深めていくという伝統が、日本のプロテスタント教会にはあったからです。そういう事から、使徒信条と十戒、主の祈り、この三つを「三つの要の文書」と書いて「三要文」と呼ぶ伝統が日本のプロテスタント教会で培われました。キリスト教の教会が使徒信条と主の祈りを重んじるのは、理解が出来ます。しかし、なぜ日本のプロテスタント教会はそれに旧約の十戒を加えたのかと、不審に思われた方もあるかもしれません。

じつは、こういうことがあったのです。日本で初めてのプロテスタントの礼拝がどのようにして行われていたか。興味深いことですが、残念なことに、今やその詳細は分かりません。ただ分かっているのは、横浜の宣教師の家で、小さな集会がひそかに行われていたこと。歌うべき賛美歌も持たない中で、若者たちが守った礼拝の中で、主の祈りがなされ、十戒が唱えられていたことです。なぜ彼らは十戒を唱えたのか。それは、十戒が礼拝と生活を結び合わせる要の役割を果たしていたからです。当時は、キリスト教は認められたとはいえ、まだまだキリスト教に対する理解は浅く、地域社会の中でも、家庭においても、キリストを信じる信仰を持って生きていくのは、大変だった。陰に陽にキリスト教への反発や無理解、いじめがあった。そういう生きづらさを抱えた時代に、十戒は信仰を持って歩むための杖であり、支えだったのです。だから、キリスト者の若者たちは十戒を愛し、日々、心から十戒を唱えたのです。

この横浜と並んで、最初のプロテスタントの礼拝が行われたのは、北海道の札幌でした。有名なクラーク博士が札幌農学校で伝道しました。その時に生まれた若者たちが母体となって建てられたのが現在の札幌独立キリスト教会です。クラーク博士は一年しかいなかったのですが、滞在中に、生まれたばかりの若い日本人キリスト者のために「イエスを信じる者たちの誓約」という冊子を遺しました。これは大きく二部に分かれておりまして、前半は正統的なキリスト教の教理が記されています。それに対して、後半は十戒が詳細に述べられています。若者たち、その中に新渡戸稲造や内村鑑三、宮部金吾といった人たちがいたのですが、この青年たちがそれぞれ署名をして、誓約をしている。十戒は、生きづらさの中で、まさに信仰者の生活を支える杖だったことが、ここからも分かります。

このように、歴史を振り返ってみるだけで、日本のプロテスタント教会の黎明期に、十戒が大きな意味を持っていたこと、そしてそれは信仰と生活をつなぐ重要な役割を持っていたことが分かります。

そこで、私たちも、これから十戒を取り上げていくわけですが、その前に、どうしてもクリアしておかなければならないことが、一つあります。俗っぽい言い方をして恐縮ですが、十戒はどうして人気がないのか、ということです。人気がないなんて、聖書や信仰の事柄を述べるのに、ふさわしくない言葉かもしれません。しかし、私たち日本のプロテスタント教会には、十戒の大切さを弁えつつ、どこかで十戒を重んじない気風があると思います。なぜなのでしょうか。

日本のプロテスタント教会の多くは、旧約聖書の信仰は新約聖書によって乗り越えられて、もはや不要のものになったと考えているところがあると思います。加えて、パウロの手紙などを読みますと、福音の立場から旧約の律法を批判した部分が多くありますから、十戒を重んじることは、福音に反する律法主義になるのではないかという恐れが、心のどこかにあるのではないかと思います。我々は律法によってではなく、信仰によってのみ義とされ、信仰によってのみ救われると、パウロも言っている。そうであるならば、我々にとって、十戒を始めとする律法は、もはやあまり重要ではなくなっていると、心のどこかで決めてかかっているのではないでしょうか。私は思うのですが、私たち日本のプロテスタント教会は、律法に対するいわれなき偏見を取り除いて、キリストに贖われた者として、もっと自由に、おおらかに十戒や律法を読むべきではないかと思います。

おおらかに、自由に律法を読む、その心を学ぶために、今日は詩編の第1編を読みました。この詩編は、全部で150ある詩編の冒頭に置かれた詩編という見方も、もちろん出来ますが、もう一つの見方は、詩編第1編をこれから始まる詩編の世界の幕開けを告げる序文として読む。そういう理解が今は有力になっています。その詩編の世界が、次のように語られています。

「幸いな者。悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。」

ここに「主の教え」という言葉が出ています。これを私たちは「神の言葉」というふうに理解をしていますが、正確に言えば、これは「律法」のことなのです。つまり、この詩編は、律法を愛し、律法の言葉を日々の生活の中で繰り返し唱える、そういう生き方が本当に幸いな生き方なのだと語っているのです。さあ、いかがでしょうか。この生き方こそ、あの明治の若者たちが大切にし、差別や偏見の只中で貫き通した生き方ではないでしょうか。彼らは十戒の言葉を杖とも支えとも頼んで、生きづらさに耐えて、キリストを信じる生き方を貫いたのです。

そして、それは、この詩編を書いた詩人の生き方にも通じます。この詩編は、言葉の上辺だけを読むと、まことに幸いな信仰生活が語られているように見えますが、じつを言うと、この詩人は、あのバビロン捕囚のさなかで、この詩編を歌ったのではないかと言われます。バビロニア帝国によって国が滅ぼされ、主だった者たちはバビロンに捕囚として連れ去られた。捕虜の生活の生きづらさの中で、残されたのは、律法の言葉だけ。御言葉だけが残ったのです。その言葉を、この人は遠い異国で繰り返し唱えた。そして、そこにまことの幸い、敵が奪うことの出来ない幸いを見出して、その喜びを一編の詩に託して残したのです。

以上のことを顧みますと、十戒の言葉というのは、順風満帆の生活の中というより、迫害や捕虜や奴隷生活という、生きづらい生活の中でこそ光を放ち、支えとなる。そういう御言葉ではないかと思います。あの明治の若者たち、横浜の若者も、札幌の若者も、十戒を支えとし、杖とも頼んで信仰生活を貫きました。詩編の詩人も、そうです。バビロンの川のほとりで、故郷に思いを馳せながら、律法の言葉を繰り返し口ずさんだのです。

では、新約聖書は律法を、十戒を、どのように見ているでしょうか。まず、律法に対して反対の立場をとっていると見られがちなパウロの手紙ですが、その代表格であるローマの信徒への手紙に、こんな御言葉があるのです。ローマ書の3章31節です。

「それでは、私たちは信仰によって、律法を無効にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」

こういうところは、丁寧に読まないといけません。「律法」という言葉が二度、出て来ますが、二度目の「律法を確立する」というのは、言葉を補って言えば「律法の心を確立する」ということなのです。これに通じることを、主イエスも語っておられます。マタイ福音書の第5章の17節です。

「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

イエス様も「律法を完成する」と言っておられるのです。では、いったい何が律法を完成するのでしょうか。ヒントとなる言葉が、ローマ書の13章にあります。13章の8節から読んでみます。

「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな』、そのほかどんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

律法の心は、詰まるところ、隣人を自分のように愛することなのだとパウロは言うのです。そして、愛は隣人に悪を行わない。だから、愛は律法を全うするのだとパウロは言う。しかし、パウロの言う愛とは、いったい、誰の愛なのでしょうか。

私たちは、他者と一緒に生きる中で、絶えず傷つきます。また逆に人を傷つけてしまいます。時には、人を傷つけることによって、自分も深く傷ついてしまう。そういうことがあるものです。私たちの愛は、不完全なのです。しかし、主イエスは私たちの不完全な愛を嘲笑ったりはなさらない。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない」という言葉があります。主イエスというお方は、傷ついて折れかかっている葦を大切に癒し、もう一度、立ち直らせてくださる。ほの暗い灯心を、ふっと炎をかき消すのではない。消えかかった炎をもう一度燃やしてくださる。そのために、主イエスは来られたのです。主イエスがいてくださったから、立ち直ることが出来た。そういう人が、たくさんおられる。私も、そうでした。

愛は隣人に悪を行わない。愛は律法を全うするのだとパウロは言いました。この愛は、誰の愛でしょうか。私たちの愛でしょうか。違います。主イエス・キリストの愛なのです。キリストの愛というのは、理念でもなければ、観念とか教えでもない。私たちを生かす愛のことです。だから、主イエスの愛は人に悪を行わない。人を立ち直らせて、もう一度生かす。私たちは、このお方に愛の負い目を負うているのです。

「あなたがたは、互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」

私たちは本当に大きな負い目を、このお方に負うております。決して返し切ることの出来ないほどの、大きな大きな借金です。心疼く思いがいたします。申し訳ない気持ちで一杯になります。けれども、私たちは一人で生きているのではない。隣人と共に生きている。家族と共に生きている。その隣人と私との間に、キリストがおられる。キリストの恵みが我々のうちに生きていることを知る。だから、私たちは隣人と共に生き、家族と一緒に生きる時に、キリストの恵みに応えることが出来る。それだけが出来る。キリストの恵みにお応えをする、その時に、十戒の心、律法の心は全うされる。だから私たちは、あの横浜の若者たち、札幌の若者たちが、そうしたように、信仰と生活をつなぐ杖として、今日から十戒を学びます。福音の光の中で、十戒をご一緒に学んでいきましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月17日(日)のみことば

「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。」(旧約聖書:イザヤ書12章4節)

「わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によって、あなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」(新約聖書:ローマ書1章9~10節)

異邦人伝道に生涯を賭したパウロにとって、異邦人とユダヤ人がキリストを信じる信仰によって共に教会形成をしているローマ教会は、一つの理想であり、だからこそ、パウロはローマへ行くことを切望しました。今日の新約の御言葉は、そんなパウロの切なる願いが鮮やかに現れています。

ローマにキリストの福音が、どのようにしてもたらされたか、それは分かりません。おそらく、複数の伝道者がローマに福音を伝えたのでしょう。そして、もう一つ考えられることは、奴隷の存在です。歴史的に見ますと、キリストの福音は、主人階級ではなく、奴隷たちにまず浸透したという経緯があります。奴隷たちはしばしば売り買いされましたから、あの家からこの家へ、家から家へとキリスト者の奴隷が福音を伝えて、それが伝道者たちの働きと相俟って、ここローマにもたらされたのでしょう。教師と信徒が共に福音伝道に携わっていたのです。