聖書:詩編16編10~11節・コリントの信徒への手紙一15章35~58節

説教:佐藤 誠司 牧師

「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を与えられることはありません。あなたが蒔くものは、後にできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(コリントの信徒への手紙一15章35~38節)

「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(コリントの信徒への手紙一15章42~44節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいますが、その学びも終わりに近づいてきました。使徒信条は父なる神を信じる信仰と御子イエス・キリストを信じる信仰を語ったあと、聖霊を信じる信仰を語りました。そして、使徒信条は聖霊を信じる信仰の中身を、一つずつ丁寧に挙げて行きました。まず初めに「聖なる公同の教会」を信じる信仰を語り、次に「聖徒の交わり」を信じる信仰を語り、「罪の赦し」を信じる信仰を語りました。そして、あと残すところは、二つだけ。「身体のよみがえり」と「永遠の生命」を信じる信仰。この二つが残りました。

さあ、ここまでお聞きになって、皆さん、お気づきでしょうか。「聖なる公同の教会」も「聖徒の交わり」も「罪の赦し」も、既に起こったこと、既に存在するものです。ところが、「身体のよみがえり」と「永遠の生命」は、どうでしょうか。これらはまだ起こっていないこと、未だ与えられていないことです。こうして、使徒信条は最後に、まだ起こっていないこと、未だ与えられていないことを信じる信仰を求めてくる。そういう構造になっているのです。

しかしながら、この二つは、確かに「まだ起こっていないこと」「未だ与えられていないこと」ではありますが、宙ぶらりんのまま放置されているのではありません。確かな約束に裏打ちされているのです。その約束とは、キリストを信じる信仰を語った使徒信条の第二部の次の言葉です。

「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」

キリストの再臨なのです。これは、イエス様ご自身が語ってくださった約束です。「あなたがたを迎えに来る」「あなたがたを私のおる所に迎える」と約束してくださった。「身体のよみがえり」と「永遠の生命」は、この約束に裏打ちされて、私たちに提示されているのです。

でも、どうして「身体のよみがえり」なのでしょう。ただの「よみがえり」「復活」でも良かったはずなのに、敢えて「身体のよみがえり」と言うのは、なぜなのか。

これは「よみがえり」に限らず、聖書そのものに関することなのですが、聖書が私たちに語る救いというのは、魂や心にだけ関係するものではない、ということです。魂や心だけの救いを重んじる考え方を聖書は持たなかったのです。魂や心だけでなく、体も救われる。丸ごと救われることを、聖書は救いと考えたのです。これが聖書の思想であるヘブライ思想の特徴です。

アレクサンダー大王の大遠征によって、古代ギリシアの文化が広く地中海世界に広まりました。そのギリシア思想の根底にあったのが、魂と体を分けて考える霊肉二元論です。人間は体と魂の二つから出来ている。魂は高尚な哲学や修練によって神に近づくことが出来る。しかし、それに対して体は救いとは関係がない。だから極端な場合、魂さえ救われるなら、体は罪を犯したって構わない。そのような極論を言う人々まで現れました。

コリントの教会で、この霊肉二元論の主張をする人々が現れました。礼拝で魂が救われているのなら、体で娼婦と交わったって救いに関係ないなどとうそぶく信徒が現れたのです。それに対してパウロは、次のように言いました。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

パウロは、この体も神が造ってくださったものであり、聖霊が住んでくださることによって神のものとされているのだと言うのです。パウロにとって、体は決して卑しいものではない。これを読むと、パウロ自身、魂も体も丸ごと救われるというヘブライ的な信仰に立っていたことが解ります。

旧約聖書のいちばん初めに、天地創造の御業が語られています。神の祝福の内に、すべては造られたのです。人間も、そうです。人間は、いわば丸ごと、神のものです。丸ごと神のもの。だったら神様は丸ごと救ってくださる。心も体も全部、贖い取ってくださる。これがパウロたちの信仰なのです。

ところが、やっかいなことが起こります。霊肉二元論が、倫理的な事柄に留まっているなら、まだしもなのですが、事が復活信仰に及ぶと、どうでしょうか?

パウロたち伝道者は、キリストが肉体を伴って死者の中から復活してくださったことを宣べ伝えました。ところが、霊と体とを分けて考える人々は、ここが信じられない。いや、彼らとても、キリストの復活は一応は受け入れていたのですが、それに続く死者の復活が信じられないのです。特に体の復活が信じられない。どうしてでしょうか。

彼らは日常生活の中で見て知っているのです。当時はみな土葬です。亡くなった人の体を土の中に埋葬する。すると、土の中で体が朽ちていく。もろくも無くなっていくではないか? どうして体の復活など信じられようか? だったらパウロ先生にお尋ねしましょうか。あなたは死者の復活と言うが、死者はどのような体で復活すると言うのか? そこでパウロは言います。

「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を与えられることはありません。あなたが蒔くものは、後にできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」

コリント教会の人たちは自分の常識を出発点にしているのです。体の復活など信じられないという、あり合わせの常識です。しかし、パウロはあくまで神の御心を出発点にして語る。神は御心のままに新しい体をお与えになる。必ずそうしてくださる、と、パウロはそう言うのです。パウロの強調点は、36節でしょう。

「あなたが蒔くものは、死ななければ命を与えられることはありません。」

これは種のことを言っているのではありません。あなたが蒔くものとは、あなたの人生のこと、労苦を伴う人生のことではないでしょうか? 私たちの人生は、種を蒔く人生です。詩編126編に、こう書いてあります。

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰って来る。」

農業を営む人なら誰にでも解ることです。しかし、ここから先が大事です。涙と共に種蒔く人が、やがて喜びの歌と共に刈り入れを迎える。泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負って、歌いながら帰って来る。これは、やがて起こることの先取りではないか? 私たちの種を蒔くような地上の人生が死によって終わったその後に、蒔いた種とは全く違う新しい命と体を神は与えて、御自分の前に住まわせてくださる。イエス様が言われたように、イエス様がおられるところに私たちを迎え入れてくださる。天を本国とすることを許してくださる。これが朽ちない命、朽ちない体ということです。パウロはそれを42節以下で、こう語っています。

「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

さあ、パウロの言葉遣いに注目してください。パウロは「霊の体」という言葉を使っています。霊と肉の二元論に走ったコリント教会の人たちは「霊と体」という言い方をしました。それに対してパウロは「霊の体を神は与えてくださるのだ」と言うのです。霊の体とは、何なのでしょうか? パウロはそれを、45節で次のように述べています。

「『最初の人アダムは生きる者となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました。つまり、霊のものではなく、自然のものが最初にあり、それから霊のものがあるのです。」

最後のアダムとは誰のことでしょう? 皆さん薄々感じておられると思います。そう、イエス・キリストなのです。パウロはここで、アダムと主イエスを対比させて語っています。少し前の22節でも、パウロはそういう語り方をしておりました。

「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。」

神の独り子が体を持った人間として、この地上に生まれてくださった。最初の人アダムと同じ死ぬべき体をもって生まれてくださったのです。そしてその体を十字架につけてくださった。無残に殺されるままに、死んでくださったのです。そして体を伴って死者の中から復活してくださった。そして、もはや十字架で殺された地上の体ではない、新しい体、朽ちない体を伴って、神の右に座しておられる。初穂として復活の体をもって神の右におられる。ここが、あなたがたの「住まい」なのだと言って、招いておられるのです。

「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになります。」

私たち朽ちるべき人間がキリストと同じ朽ちないものに変えられるためには、朽ちないものを着ることが大事なのだとパウロは言います。「着る」という言葉が出てきました。「着る」とか「着せる」という言葉が聖書に出てきたら、それは大抵、象徴的な意味を持っています。「資格の無い者に資格を与える」という意味を持っています。イエス様がお語りになった「放蕩息子」のお話に、それは出て来ます。放蕩に身を持ち崩して父親の財産を使い果たした息子が、ボロボロの身なりで帰って来ます。父親に合わす顔もない息子は「自分はもうあなたの息子と呼ばれる資格はない」と言います。ところが、父親はそんな息子の言葉を聞くそぶりも見せず、いちばん良い服を持って来させて、この息子に着せてやります。あれなのです。着せるという行為が象徴的な意味を持っているというのは、このことです。

では、私たちは復活のとき、いったい何を着せていただくことになるのでしょうか。私たちが着せていただく「朽ちないもの」「死なないもの」とは何なのか。そこが肝心要になってきます。さあ、よみがえりの時に私たちが着ることになるものって、何なのでしょうか。皆さんは、何だと思われますか。そう、キリストご自身なのです。私たちはキリストを身にまとって神の御前に立ちます。あの放蕩息子のように、ボロボロの身なりで帰って来るのかもしれません。しかし、それでよいのです。最良の衣であるキリストを着せていただくのですから。私たちはキリストを着て、御前で神の子とされる。それがキリストの復活によって引き起こされる私たちの復活です。

ここに立つときに、見えてくることあります。それは、地上での労苦に満ちた私たちの人生が決して無駄ではなかったということです。それをパウロは次のように語ります。

「わたしの愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」

私たちの地上の人生は、まさに労苦に満ちています。徒労に終わることがたくさんあります。誰にも認められない孤独な働きがあります。病に苦しむこともある。愛する人との悲しい別れもあるでしょう。しかし、キリストを着せていただいて判ることは、あの労苦や悲しみの中に、すでにキリストはおられたということです。誰も知らないと思えたあの労苦や悲しみを、主は共にいて知っていてくださった。私は丸ごとキリストのものとされている。ここに立つのが、復活を信じる信仰です。復活信仰が半信半疑であってはいけません。迷いを捨てて、ここにご一緒に立ちましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月3日(日)のみことば

「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(旧約聖書:詩編127編1節)

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(新約聖書:第一コリント書6章19~20節)

ここにはハッキリと「あなたがたは神のものだ」といわれています。「神のもの」というのは、神の奴隷・神の所有物ということではない。あくまで神様は私たちを愛し信頼して、任せてくださいます。私たちの体も、命も、人生も、任せてくださる。あたかも、私たちが私たちの人生の主人であるかのように振舞うことすら許しておられる。じつに心が広く、寛容なのです。しかし、そのときに、ああ、これは神から与えられた人生だ、神様から託された人生なのだと知って生きるのか、それとも、そういうことを顧みずに、我が物顔で自分が自分の主人になって生きるのか。そこで生き方が180度分かれてしまいます。

私には主人がおられる。神様が主人になっていて、私を我が子と呼んでくださる。そのことを知って生きるのです。そのことを弁えて、私たちは、私の体で、私の命で、自分の人生を生きて良いのです。神様は「お前の体も命も人生も私のものだから、私に返しなさい」とはおっしゃらない。これが、あなたの体だ、これがあなたの命だ、これがあなたの人生だ、そしてこれがあなたの信仰だと言って、送り出してくださる。背中をポンと押して、私たちを押し出してくださいます。そこから始まる人生、生き方こそ、パウロが言う「神の栄光を現す」生き方ではないでしょうか。