聖書:詩編100編1~5節・エフェソの信徒への手紙4章1~16節
説教:佐藤 誠司 牧師
「こうして、聖なる者たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を造り上げ、ついには、私たちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなくなり、人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすることなく、愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。」(エフェソの信徒への手紙4章12~15節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第一部です。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第二部で、ここが使徒信条の中心になります。
そして、その次が第三部になります。ここは「我は聖霊を信ず」という言葉で始まることからも分かるように、聖霊を信じる信仰を語っています。そして、使徒信条は続いて、聖霊を信じる信仰の中身を語り始めます。その中身の最初に置かれているのが、「聖なる公同の教会を信ず」という言葉です。使徒信条は教会を信じることを、聖霊の働きのトップに据えているのです。
そうお聞きになって、違和感を抱かれる方も少なからず、おられると思います。第一部の父なる神を信ずというのも、第二部のイエス・キリストを信ずというのも、よく分かる。第三部の「我は聖霊を信ず」というのも納得が出来る。しかし、「教会を信じる」というのは、どういうことなのだろうと、おそらく多くの人がお感じになると思います。
それをお話しする前に、この「教会」という言葉について、少しお話ししておいたほうが良いと思います。「教会」という言葉は、元々、日本には無かったもので、おそらく中国の古い歴史的文書から借りて来た言葉であろうと言われます。どうしてそんな手の込んだことをしたのかと言いますと、教会のようなボランタリーな組織が、それまでの日本には無かったからです。それまでの日本にあったのは、だいたいが上意下達の組織だったのです。そこで、これは日本人の知恵と言っても良いと思うのですが、それまで自分たちの中には無かったものを言い表す時に、中国の古い文書から字面だけを借りて来て、これに充てたのです。
では、その日本には無かったものとは、どういうものであったか。それは、教会と訳された元の言葉を見ると分かります。新約聖書には「教会」という言葉が何度も出て来ますが、これの元になったのは「エクレーシア」というギリシア語です。この「エクレーシア」というのは「呼び集められた者たち」という意味のある言葉です。これはユダヤ教の会堂を表すシナゴーグが「共に集まる」という意味なのに対して、正反対の意味がある。どこが正反対なのかと言いますと、シナゴーグというのは「共に集まる」という意味ですから、自分たちの意思で集まるのです。それに対してエクレーシアは誰かに呼び集められて、その結果、集まる。自分たちの意思で集まるのか、それともどなたかの意思で集められるのか。これは存外に大きな違いです。同じ「集まる」でも、意味が正反対なのです。
このエクレーシアという言葉は「古代ギリシアの市民集会」から生まれた言葉です。この集会はギリシアの都市国家で行われていた市民参加の最高議決機関でありまして、この集会が招集される時に、招集人が鐘を鳴らして市民を呼び集めたのです。そこから、この市民集会はエクレーシアと呼ばれるようになったのです。
そういう言葉が「教会」を表す言葉になったことには、やはり大きな意味があると思います。教会というのは、熱心な人たちが自分の意思で集まるのではない。呼び集められて、集まっている。ただの招集人が呼び集めるのではない。キリストが呼び集めてくださる。ですから、今日、この礼拝に集うている私たちは、自分の意思でやって来たように見えますが、じつはそうではない。キリストに呼び集められて、集まっている。そのことを明確に示すために、キリスト教会の礼拝の冒頭には「招きの言葉」が置かれている。司式者が「招きの言葉」を高らかに朗読する時、あれは司式者がキリストの代理人となって、私たちを礼拝へと招き、呼び集めているのです。
この教会を言い表すのに、使徒信条は二つの言葉を連ねます。「聖なる」という言葉と「公同の」という言葉を連ねることによって、教会を説明していると、そのように理解しても良いと思います。では「聖なる」とはどういうことか。「公同の」とはどういうことなのか。それが問題になってきます。そこで順序が逆になるようですが、まず「公同の教会」とは何なのか。そこからお話をしてみたいと思います。「公同」という言葉は、日本語ではありますが、おそらく教会以外では通じない言葉だと思います。キリスト教の用語で、しかも教会を言い表す場合にのみ使われる用語です。教会以外でも通じる言葉にするなら「普遍的」という言葉がいちばん近い意味を持っているでしょうか。使徒信条の原文はラテン語ですが、ラテン語で「公同の教会」は「エクレーシア・カトリカ」といいます。これを英語にしますと「キャソリック・チャーチ」となります。もうお気づきの方もおられると思います。「公同」というのは「カトリック」ということだったのです。ただ、私たちプロテスタント教会が「カトリック」という言葉を使う場合、あのローマ教皇を頭とするカトリック教会という意味よりも、もっと広い意味で使います。それが「普遍的」ということです。具体的に言いますと、私たち日本基督教団の教会は使徒信条を告白することによって、カトリック、すなわち公同の教会に連なっているわけです。くだけた言い方をすると、教会はどこへ行っても本質的に同じだということです。アメリカに行っても同じ、韓国に行っても同じです。どうして、そんなことが可能になるかといえば、教会はキリストが呼び集めてくださる群れだからです。
次に「聖なる教会」とは、どういうことなのか。「聖なる」とか「聖」という言葉は、先ほどの「公同」に比べれば、一般社会でも、はるかに通じやすい言葉であると思います。しかし、分かりやすい半面で、この言葉は多くの誤解を受けてきた言葉でもあります。足羽山にキリスト教会の共同墓地があります。名前は「聖徒之墓」と言います。この「聖徒」というのは、「聖なる人」という意味でありまして、キリスト者のことなのです。キリスト者でない一般の人に「聖なる人」と聞いて、あなたはどんな人を連想しますか、と訊いてみると、ほぼ百パーセント「聖人君子」という答えが返ってくるでしょう。キリスト者であっても、「あなたは聖なる人ですね」と訊いたら、ほぼ百パーセント「いやいや、私はそんな立派な人間じゃないですよ」という答えが返ってくると思います。日本では「聖」とか「聖なる」というのは、その人が持っている性質や値打を言い表す言葉だったのです。
ところが、聖書が言う「聖」には、そういう意味は全く無い。聖書が言う「聖」というのは「神のもの」という意味があるのです。旧約の律法には、こんなことが出て来ます。全く同じ器が二つある。片方は日常使いの器で、もう一方は神様へのささげものをする際に使う器です。言うなれば、神のために選び分かたれた器です。この神のために選ばれ、神のために使われる器を、旧約の人々は「聖なる器」と呼んだのです。決して金の器と土の器という値打の差があるわけではない。全く同じ器です。ただ違うのは、神様のために選び分かたれたという一点だけです。これが聖書が語る「聖」の本質なのです。ですから「キリスト者は聖なる存在です」と言われても、「私はそんな立派な人間ではありません」と言って謙遜する必要はない。キリスト者は神のために選び分かたれた存在だということです。
使徒信条は、そういう言葉を教会を言い表す言葉として用いているところに、大きな意味があると思います。教会は私たちのものではなくて、神様のものなのだという主張が、ここにあります。イエス様は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。神様に栄光をお返しするのです。また、パウロは教会のことを言う時、必ずと言って良いほど「神の教会」と呼びました。これは、教会は人のものではないということです。教会は神によって生まれ、神によって支えられ、神によって生かされている。そのことを信じるのが、「聖なる教会を信じる」ということです。教会を信じるというのは、同じ「信じる」であっても、「神を信じる」「キリストを信じる」というのとは違います。信仰の対象として信じるのではなくて、神が教会において働いておられることを信じる。それが教会を信じるということです。ですから、教会が聖なる存在であることと、教会が公同の教会であることは、別々のことではなくて、つながっていることです。これは、言い換えますと、教会が公同であることは、教会が聖であることに根拠を持っているということです。
「聖なる公同の教会」を信じる。このことを雄弁に語る御言葉として、今日はエフェソの信徒への手紙4章の御言葉を読みました。12節から読んでみます。
「こうして、聖なる者たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を造り上げ、ついには、私たちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなくなり、人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすることなく、愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。」
いかがでしょうか。じつに堂々たる教会の姿が語られていると思います。これを読みますと、私たちは、そんな立派な教会じゃないと言いたくもなりますが、パウロはそういう達成不可能な目標を掲げているのではありません。これは目標ではなく、現実の姿を述べている。教会とは、そういうものなんだよと、パウロは私たちを諭しているのです。
ここに「成熟した年齢」という言葉と「子ども」という言葉が対比されて語られています。私たちはもはや子どもではない。成熟した大人に成長しているのだとパウロは言うのです。しかも、この成長は私たち一人一人の個人のことではなく、教会のことなのです。
教会が成長するって、どういうことでしょうか。パウロはそれを次のようにハッキリ述べています。「人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすることなく、愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。」
どうして、このような成長が可能になるのでしょうか。頭であるキリストを仰ぎ見ているからです。そのヒントとなる物語が福音書に出て来ます。マタイ福音書の14章に、湖の上を歩くイエス様の物語があります。真夜中、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちが乗った舟のところまで来てくださった。それを見たペトロが「私も湖の上を歩かせてください」と頼み込む。すると、イエス様は、このとんでもない願いを聞き入れてくださって、たった一言、「来なさい」と言って、ペトロを招いてくださいました。招きに応えて、ペトロは舟から足を下ろします。すると、沈まなかった。沈まなかっただけではありません。手招きをしておられる主イエスに向かって、歩くことが出来たのです。
このあと、ペトロは、大きな風に驚いて、イエス様だけを見ていた視線をそらしてしまいます。すると、ペトロは沈み始める。主イエスだけを仰ぎ見る。頭であるキリストに向かって歩む。それが大事です。そこに私たちキリスト教会の歩む道はあると思うのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
7月6日(日)のみことば
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(旧約聖書:詩編22編1節)
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです。」(新約聖書:ルカ福音書23章34節)
これは十字架の上でささげられた主イエスの祈りの言葉です。執り成しの祈りです。父なる神の御心のままに、十字架についておられる。その父なる神の御心は、すでにゲツセマネの園で主イエスに示されていました。その御心を完全に成就させるために、今、主イエスは執り成しの祈りをささげておられる。父なる神の御心。それは罪のない御子イエスが人々の罪を一身に背負って十字架につくというものでした。私は、そこにパウロの弟子であったルカの、十字架に寄せる深い思いがあるのではないかと思うのです。
裁判でピラトは「十字架につけろ」と狂ったように叫ぶ群衆に向かって、「私はこの人に何の罪も見いだせない」と、三度に渡って宣言しました。三度というのは、完全を意味する回数です。ピラトは、主イエスには罪は無いのだと完全に宣言したということです。ところが、その罪の無い主イエスが十字架を背負われる。これは冤罪で死刑になるというのではない。無実の罪を着せられて死刑になるのではない。もっと意思的に、ハッキリとした意思を持って、主イエスは十字架を背負っておられるのです。
