聖書:詩編90編1~17節・コリントの信徒への手紙二5章1~5節

説教:佐藤 誠司 牧師

「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。それを着たなら、裸でないことになります。この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎ捨てたいからではなく、死ぬべきものが命に飲み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。」 (コリントの信徒への手紙二5章1~4節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。

「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、」

イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだられた。いわば人間が到達する底のまた底、どん底にまでくだって行かれた。そこから一転して、使徒信条はキリストの復活を語りました。そして、使徒信条は、キリストは天に昇られたと語ります。つまり、使徒信条は、キリストは天におられ、弟子たちは地上に残されたのだと語っている。

日本語にも「天と地の開きがある」という言い回しがあるように、天と地というのは、絶対に交わることのない両極端のことです。このまま天のキリストと地上の弟子たちは、もう二度と交わることは無いのだろうかと、ふと不安に思う。そんな私たちに向かって、使徒信条はこう語っています。

「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」

再び主イエスと会う日が与えられる。しかも、キリストのほうから来てくださる。そういう日が与えられるのだと使徒信条は語ります。しかし、それは今ではない。世の終わりの時です。ということは、それまで私たちはキリストと離れて地上に生きることになる。単なる分かれ分かれではありません。離れているけれど、希望がある。その希望を語っているのが、今日読んだコリントの信徒への手紙二の第5章の御言葉です。

この箇所に限らず、私たちが聖書を読む時に、一つ大事なことがあります。それは、その聖書の箇所が私たちの生活のどういう問題に関わりを持っているかということを、心に留めながら読むことです。では今日読んだ第二コリント第5章の御言葉は、私たちの、どういう問題について示唆を与えているでしょうか。

「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。」

まず最初に「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れる」と言われています。幕屋というのは家のことですが、もちろん、これは喩えでありまして、パウロは何も家が壊れる話をしているのではありません。パウロは何かを「幕屋」に譬えているのです。さあ、パウロは何を家に譬えているのでしょうか。皆さんは何だと思われますか。そう、私たちの肉体、今生きているこの体を「幕屋」に喩えているのです。若い元気な頃は、体が壊れると聞いても、ピンとこないのですが、病気をしたり、年を重ねたりしますと、本当に自分の体が幕屋のように壊れやすいものだとよく分かる。いつまでもしっかり建っている鉄筋コンクリートの家ではなく、風が吹けば飛ばされる幕屋のようなものだと、つくずく実感するわけです。

しかし、この「地上の幕屋」という言葉が、ただ単に私たちの体の事だけを言っているかというと、どうもそれだけではないという感じも致します。じゃあ、この「幕屋」とは何のことかと言いますと、この肉体にあって私たちが営んでいる生活・暮らし、さらに言えば、私たちの地上の人生そのものを表していると見ることが出来る。それに対して、天にある、人の手で造られたものではない、永遠の住まいが神様によって備えられている。そういうことがと言われているのです。

この二つの住まいを比べてみますと、まず第一に幕屋のほうは地上にあるのに対して、神様が備えておられる住まいは天にあります。「天にある」というのは、何か空の上にあるというような場所のことを言っているのではありません。この「天にある」というのは、私たちが直接見たり触れたりすることの出来ない存在を表している。ですから、神が備えてくださる住まいを私たちが見て確かめようとしても、それは出来るものではない。

そして、地上の幕屋は、ほんのしばらくの間、当座の用に使うものです。しかし、天にある住まいは、永遠の住まいです。現代は平均寿命が延びて90歳と聞いても、さして珍しくもなくなりましたが、今日読んだ詩編90編が語るように「健やかであっても八十年。瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る」のです。そう考えますと、たとい百年生きたとしても、地上の人生というのは当座のものであって、私たちの人生はまことにはかないものだと思います。

しかし、そんな私たちに「天にある住まい」「永遠の住まい」が約束されているとしたら、どうでしょうか。ヨハネ福音書が伝えていることですが、主イエスが十字架につけられる前の晩に、弟子たちに別れの言葉を語られたのですが、その中で、主イエスは「私の父の家にはすまいがたくさんある。」「私はあなたがたのために場所を用意しに行く。」「行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」と約束してくださいました。私たちは、この約束を信じて、そこに望みを持っていますから、この地上の人生がはかないものではなく、むしろ希望を持って生きることが出来る。

私たちにとって、地上の生活がすべてではなくて、これは天にある住まいに行くまでの当座の住まい、幕屋であると知っている。これが大事です。この1節の最後のところに「私たちは知っています」という言い回しが出て来ます。これはパウロが大変に好んだ言い方で、パウロは普通なら「私たちは信じています」と言いそうなところで、よく「私たちは知っている」という言い方をしています。どうして、そんな言い方をするのか。「私たちは信じている」というのは、私たちが信じるか信じないかに、すべてが掛かっているわけです。それに対して、「私たちは知っている」というのは事実を告げている言い方です。事実ですから、私たちが信じようが信じまいが、事実は動かない。神様の御計画は私たちが信じる信じないに掛かっていることではなく、事実なのだとパウロは言うのです。ですからパウロが言う「知っている」というのは千金の重みがあるのです。そして、ここから次の2節、3節の言葉が導き出されます。

「私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。それを着たなら、裸でないことになります。」

ここに「呻いている」という言葉が出て来ます。これは「苦しみ悶える」という意味です。地上の幕屋の生活というのは、苦しみ悶えるようなものだという意味かと思いますが、ただそれだけではなくて、天から与えられる住まいを上に着たいと切に望んでいる。そういう希望がある。これは、その希望の故の苦しみ、いわば産みの苦しみなのです。

そこで次の2節に発展していくのですが、ここに来て、私たちは違和感を感じます。どういう違和感かと言いますと、1節では「地上の幕屋」とか「天の住まい」とかいう具合に「家」の譬えが語られていたわけです。ところが、2節になると、どうでしょう。「天から与えられる住みかを上に着たい」と言われているように、これは「衣服」の譬えに変わっています。しかも、パウロはここでただ「着る」と言うのではなく、「上に着る」という言い方をしています。この「上に着る」というのは「重ね着をする」ということです。「地上の幕屋」という古い服を脱いで「天の住まい」という新しい服に着替えるのではなく、「地上の幕屋」の上に「天の住まい」を重ねて着るのだとパウロは言うのです。これ、どういうことなのでしょうか。

初めに申し上げたように、この「地上の幕屋」というのは、私たちの体だけではなくて、体を元にして生きている私たちの生活や生き方、人生そのものを指していますから、その生活や生き方を振り返りますと、まあ上辺はともかくとして、まあ恥ずかしいこと、みっともないことがいっぱいあります。

真面目な人は、そういうものを嫌って、修行を積んで脱ぎ捨てようと努力します。福音書に出て来るファリサイ派の律法学者たちが、その代表です。しかし、いくら律法を守って修行を積んでも、それは上辺だけです。そんな彼らを、イエス様は「白く塗った墓」だと言われました。外側は白くてきれいだけれど、内側は腐ったものが詰まっている。偽善者だと言われたのです。じゃあ、私たちは、どうすれば良いのか。4節のところに、こう書いてあります。

「この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎ捨てたいからではなく、死ぬべきものが命に飲み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。」

この「呻く」というのは、ただの苦しみではなく、産みの苦しみのことなのだと言いました。私たちは地上の幕屋、古い生き方や人生を恥ずべきものとして脱ぎ捨てないでも良い。上に着たらよい、着せてもらったら良いのです。「着せる」とか「まとわせる」というのは象徴行為として聖書に出て来ます。それはどういう意味かと言いますと、「資格の無い者に、資格を与える」という意味を持っている。その典型的なお話が、イエス様が語ってくださった「放蕩息子」の譬えです。

放蕩の限りを尽くして、ボロボロの身なりで帰って来た息子を喜んで迎えた父親がまずやったこと。それはいちばん良い衣を持って来させて、この息子に着せたことでした。「もう自分にはあなたの息子と呼ばれる資格が無い」と言う息子に、この父親は最良の衣をまとわせた。あれが象徴行為です。着せるというのは、言い換えますと「覆う」ということでもあります。詩編には「罪を覆っていただく」という言葉があるでしょう。「天の住まいを着る」とは、まさに罪を覆っていただいて、神の子の資格が与えられる。本来なら資格の無い私たちが、恵みによって神の子とされる。そういうことです。

では、私たちの地上の生活と生き方の上に着せていただく衣とは、いったい何なのか。私たちの破れだらけの人生を覆ってくれる「天の住まい」とは何なのか。それが問題になってきます。さあ、私たちが着せていただく最良の衣とは、何か。ヒントとなる御言葉が、パウロがガラテヤ教会の人々に送った手紙に出て来ます。ガラテヤ書の3章27節に、こう書いてあります。

「キリストにあずかるバプテスマを受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」

キリストを着るという言い方は、パウロが好んで使った言い方で、キリストによる贖いと救いを見事に言い表した言葉です。キリストを着るとは、言い換えますと、キリストに覆っていただくことです。キリストが私たちの破れだらけの人生を覆うのです。また衣を着るというのは、その衣の中に入り込むことでもあります。ですからキリストを着せていただくというのは、私たちがキリストの中に引き込まれることです。

私たちは地上の幕屋である自分の人生を恥じる必要はない。キリストに覆っていただいて、キリストに飲み込まれ、引き込まれて、キリストの再臨を待ちます。キリストを着るキリスト者として、地上の人生を歩みます。キリストと再び会う日を望みつつ、地上の人生を歩みます。その生き方を、パウロは次のように語っています。第一コリントの15章57節以下です。

「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」

私たちは弱い存在ですから、生活の労苦にくずおれることもあるでしょう。そんな時、どうしたら良いでしょうか。それは天におられるイエス・キリストを仰ぎ、私たちが上着のように着せてもらっているイエス・キリストを確認する。天にも地にもキリストがおられる。それが私たちの希望です。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月15日(日)のみことば

「あなたはいかに幸いなことか。いかに恵まれていることか。」(旧約聖書:詩編128編2節)

「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(新約聖書:第一コリント書1章30~31節)

私たちは義とされたわけですが、その義はどこにあるか。私たちの行いの中にあるでしょうか。そうではない。キリストが私の義です。私たちが生きている生活。これはもう、毎日が破れ放題、失敗ばかりですが、そんな私たちの義はキリストにある。キリストを見上げる。すると、そこに私たちの義がある。このことを私たちはいつも心に留めておくことが大事です。私たちは神様によってキリストと結ばれたのです。私たちが一生懸命、知恵と力を振り絞ってキリストにしがみ付いているのではないのです。

「神によってあなたがたはキリストと結ばれ」と書いてあります。神様がそうしてくださった。私という人間がキリストに結ばれているという奇跡。私がどんなに惨めで、破れだらけであっても、神様から「お前は駄目だ」とは言われない。神様はキリストを通して私を見ておられる。私の前にキリストが立っておられて、私という人間は、いわばキリストの陰に隠れていて、守られている。神様は私の欠点や破れは見ておられない。キリストを見ておられるのです。