聖書:詩編88編2~13節・マタイによる福音書27章57~66節
説教:佐藤 誠司 牧師
「主よ、私はあなたを日ごとに呼び求め、あなたに向かって両手を広げます。あなたは死者のために奇しき業をなさるでしょうか。死者の霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたの慈しみが墓の中で、あなたのまことが滅びの国で語られるでしょうか。奇しき業が闇の中で、あなたの義が忘却の地で知られるでしょうか。
しかし、主よ、私はあなたを叫び求め、朝には、私の祈りはあなたに向かいます。主よ、なぜあなたは私の魂を拒み、御顔を私に隠すのですか。」(詩編88編10~15節)
「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(マタイ福音書16章24節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。
「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、」
前回は「十字架につけられ」という言葉についてお話をしましたが、今日はその続き、「死にて葬られ」という言葉を取り上げます。「死にて葬られ」というのは格調高い文語ですが、これを私たちの日常の話し言葉にしますと「死んで葬られ」というふうになります。つまり、使徒信条はイエス・キリストが死んで葬られたのだと告白している。イエス様が死んで葬られたということを、信仰の中身として告白しているのです。
でも、どうでしょう。死んで葬られることは、何もイエス様だけのことではない。これまで使徒信条は、イエス・キリストへの信仰を、イエス様でなければ出来ないことによって告白してきました。「聖霊によって宿る」ことも「処女から生まれる」ことも、イエス様ならではの特別な出来事でした。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受ける」ことも、「十字架につけられる」ことも、まあ十字架刑に処せられた犯罪人はほかにもいたでしょうが、贖いの死という意味ではイエス様だけに起こった特別なことだと理解をしても差支えが無いでしょう。
ところが、「死んで葬られる」というのは、どうでしょうか。先週の日曜日、4月27日に春の墓前礼拝が足羽山の聖徒之墓で行われて、私どもの教会からお二方の納骨式が行われました。まさに「死にて葬られ」という使徒信条の言葉のとおりに行ったのです。その意味で「死んで葬られる」というのは、主イエスだけに起こった特別の出来事ではない。むしろ、私たち普通の人間が、そこから誰一人として逃れられない運命として歩んで来た道に、主イエスが入って来てくださった。入って来て、私たちと歩みを共にしてくださったのだと。そのように言うことも出来ると思います。ここだけは、私たちと同じなのです。
でも、それならなぜ、私たちと同じ歩み、変りばえのしない主イエスの歩みを、使徒信条はわざわざ信仰の告白としなければならなかったのか。そこが疑問として残ります。さあ、使徒信条はなぜ、「死んで葬られ」という言葉を、信仰の告白としたのでしょうか。
今日はマタイ福音書27章の御言葉を読みました。主イエスが死んで葬られた後の出来事を記した箇所です。読んでいて信仰が養われるような箇所ではないのですが、当時、実際に起こった事を彷彿とさせる、信ぴょう性の高い文書であると思います。登場するのは、祭司長たちとファリサイ派の人々。この人たちは主イエスに敵対して、十字架につけるよう要求した人たちですから、主イエスが死んで葬られたことは、まさに我が意を得たりであって、ようやく枕を高くして眠ることが出来そうなものですが、意外にも彼らの心は不安に駆られています。どうしてでしょうか。イエスは本当に死んだのかという疑いが彼らの心を捕らえたからです。そう言えば、あのイエスは「三日目に復活する」とか言っていたなあと、信じてもいない復活が不安をあおる。繰り返しますが、彼らは決して主イエスの復活を信じたわけではないのです。復活なんて、あるわけない。イエスは死んで葬られたのだ。
しかし、あの男の弟子たちが、墓からイエスの死体を盗み出して、主は復活されたと言いふらすかもしれない。そうなると、民衆はまたもや惑わされるに違いない。警戒したほうが良いですよと、彼らはピラトに進言した。ピラトはこの進言を受け入れて、墓に番兵を立て、さらに墓に封印をして、弟子たちが遺体を盗み出せないようにしたという、ただそれだけの話です。ここには信仰の香りというものが一切無い。こういうエピソードが聖書に収められたこと自体が珍しいと言える。しかし、それだけに、これは信ぴょう性が高い。実際、このようなことはあったのではないかと思われるのです。ピラトも、祭司長たちも、ファリサイ派の人々も、主イエスの復活を信じていたわけではないのです。しかし、その一方で、彼らは主イエスの復活を恐れている。そういうことは、あるものです。
ところが、意味は全く異なりますが、これに通じる出来事がキリスト教の歴史の中で起こったのです。主イエスは本当に死なれたのかという疑念を持つ人々が現れたのです。もちろん、これは異端ですが、異端に走る人々というのは、概して真面目でひたむきな信仰の人たちが多いのです。主イエスの死に疑念を抱く人々もそうでありまして、彼らは主イエスは神の御子なので、人間と同じように死ぬなんて、信じられない。十字架の上で死なれたのは、言うなれば「仮の死」であった。あれは主イエスの人間の部分が死んだのであって、神の御子として死なれたわけではないと主張したのです。これは、主イエスを神の御子として心から崇めようとするあまり、聖書のメッセージからそれて、犯してしまった誤りです。
新約聖書には四つの福音書が収められていますが、マタイとマルコ、ルカ、ヨハネが口を揃えて主イエスが息を引き取る瞬間を語っている。しかも、福音書は主イエスの死で終わらずに、主イエスの体から目をそらすことなく、葬りまでを、つぶさに語っている。日本の古典文学などでは死をぼやかして、婉曲表現することが見られますが、聖書はそうはしない。福音書だけではありません。旧約と新約を貫く聖書全巻が死から目を背けていない。むしろ、しっかりと死を見届けている。アブラハムの死を語り、イサクやヤコブの死を語って、さらに葬りも語っている。モーセの死と葬りを語っています。使徒信条が主イエスの死から目を背けることなく、「死にて葬られ」と語るのは、聖書のこの伝統に則っているからにほかなりません。
しかし、それだけだろうかという思いを拭いきれません。使徒信条が「死にて葬られ」と語るのは、聖書が死と葬りを語っているからという、それだけが理由なのでしょうか。もちろん、聖書以外の理由があるということではないのです。しかし、こう考えてみては、どうでしょうか。使徒信条を告白するのは、どのような人たちか。そう、イエス様を信じ、イエス様の御跡をたどる人たちです。イエス様の同時代の人ではない。後の時代の人たち、イエス様の跡を追っていく人たちです。このことを心に留めて頂いて、今日読んだ旧約の詩編88編の言葉を味わってみたいと思います。
「主よ、わが救いの神よ。私は昼も夜も、御前で叫びました。私の祈りが御前に届きますように。私の叫びに耳を傾けてください。この魂は災いを知り尽くし、この命は陰府に届きそうです。私は穴に下る者のうちに数えられ、助けのない人のようになりました。死人の中に捨てられ、刺し貫かれ、墓に横たわる者のようになりました。もはやあなたはそのような者に心を留められません。御手から切り離されたのです。あなたは私を地の底の穴、闇の中、深い淵に置きました。あなたの憤りが私に迫り、あなたの荒波がことごとく私を苦しめます。あなたは親しい人を私から遠ざけ、彼らにとって忌まわしい者としました。私は閉じ込められて、逃れることが出来ません。目は苦しみのあまり衰えました。
主よ、私はあなたを日ごとに呼び求め、あなたに向かって両手を広げます。あなたは死者のために奇しき業をなさるでしょうか。死者の霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたの慈しみが墓の中で、あなたのまことが滅びの国で語られるでしょうか。奇しき業が闇の中で、あなたの義が忘却の地で知られるでしょうか。
しかし、主よ、私はあなたを叫び求め、朝には、私の祈りはあなたに向かいます。主よ、なぜあなたは私の魂を拒み、御顔を私に隠すのですか。」
いかがでしょうか。これほど深い絶望を歌った詩が、聖書に収められていることに、驚きを禁じ得ません。しかし、ここが詩編の凄いところだと思うのですが、せん方尽きた絶望をも、詩編は祈りの内に入れるのです。神を求める祈りの心があるからこそ、絶望の闇を嘆くことも出来る。神の光を求めるからこそ、自分が今置かれている闇の深さを嘆くのです。闇を嘆く心は、そのまま神の光を求める心なのです。
しかし、私たちは、この詩編の限界をも指摘しておかなければならないと思います。この詩編を書いた詩人はキリストを知らないのです。キリストは十字架の上で死んでくださいました。そして、十字架から降ろされて、葬られてくださった。使徒信条が「死にて葬られ」と告白するとおりの道、私たち人間が一人の例外もなく歩む道を、イエス・キリストは歩んでくださった。私たちより一歩先を行かれたのです。
先ほど、私は詩編の88編を紹介するその前に、次のように言いました。
「使徒信条を告白するのは、どのような人たちでしょうか。そう、イエス様を信じ、イエス様の御跡をたどる人たちです。イエス様の同時代人ではない。イエス様の跡を追っていく人たちです。」
イエス様の御跡をたどるとは、どういうことでしょうか。主イエスは、折ある毎に、弟子たちに向かって、こうおっしゃいました。
「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」
「私に従いなさい」と言われています。イエス様が言われた「従う」という言葉は、情緒的な曖昧な言葉ではなく、非常に具体的な意味を持っています。イエス様が歩む、すぐその後ろを、遅れることなく、離れることなく、ピタリと付いて行く。譬えて言いますと、小さい子供たちが大好きな遊びに電車ごっこというのがありますね。「運転手はキミだ、車掌はボクだ」という歌がありますが、小さい輪っかの中に二人の子供が入ります。前にいる子が運転手で、後ろの子が車掌です。私も経験があります。車掌役をしますと、すぐ前にいる運転手のお友達の体温や胸の鼓動までが伝わって来る。それほどに、すぐ後ろを付いて行く。イエス様が言われた「従う」というのは、あれなのです。
また、主イエスは弟子のペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言われたことがありました。あの「引き下がる」というのは、私のすぐ後ろに下がりなさいということです。あの時、ペトロはイエス様と横並びになって、イエス様をいさめ始めた。だから、主イエスはペトロに「私の後ろに下がりなさい」と言われたのです。主の御跡をたどるとは、そういうこと。イエス様のすぐ後ろを付いて行く。愚直に付いて行くのです。
先ほど読んだ詩編の88編は死んで葬られて陰府に降る闇の恐ろしさを語りました。もう、これだけは誰も避けることは出来ない。私たちは死に際して、愛する家族に囲まれて、看取ってもらうことは可能でしょう。しかし、その先は独りです。たとい愛する人が自分と一緒に死んでくれたとしても、死んで葬られ、陰府にまで降って行くその道のりは、独りぼっちです。
しかし、その道は主イエスがたどられた道です。ヨハネ福音書によりますと、主イエスは私たちを迎えに来てくださる。迎えに来て、あの時と同じように、声をかけてくださる。
「私に従いなさい。」
「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」
私たちは、この御声を陰府に向かう闇の途上でも聴く。招きの言葉として聴くことが許されているのです。これはまことに大きな恵みだと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
5月4日(日)のみことば
「あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。」(旧約聖書:申命記5章33節)
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」(新約聖書:ローマ書10章2~3節)
パウロが言う「彼ら」というのは、ファリサイ派の人々のことです。彼らは確かに熱心に神に仕えているのだけれど、それは正しい認識に基づくものではないのだとパウロは言うのです。彼らは本当の「神の義」を知らない。だから、自分の義を立てようと、一生懸命に務めている。ここが肝心なところです。世間一般では、信仰を持っている人のことをよく「敬虔な人」といいます。テレビの報道など見ますと、クリスチャンといえば「敬虔なクリスチャン」というふうに「敬虔な」という言葉が、まるで枕詞のように付いてきます。
でも「敬虔」って、どういうことなのだろうか? 確かに私たちは、信仰が深い人、信仰熱心な人のことを「あの人は敬虔な人だ」と言います。私たちの生活で言えば、よくお祈りするとか、毎日聖書を読むとか、礼拝を欠かさないとか、たくさんの献げ物をするとか。もちろん、それらは大事な尊いことですが、そういうことをずっと突き詰めていけば、救われた人間が出来上がるように考える。それが、じつは敬虔の道なんです。ファリサイ派の人々が歩んだ道がそうでした。パウロはそれを警戒しています。
