聖書:イザヤ書53章11~12節・ルカによる福音書23章32~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。』人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。『他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた罪状書きも掲げてあった。」(ルカによる福音書23章32~38節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。

「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、」

今日はこの言葉に続く「十字架につけられ」という言葉を、ルカ福音書の御言葉によって味わってみたいと思います。どうしてルカ福音書を選んだかと言いますと、次の言葉があるからです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

これは十字架の上でささげられた執り成しの祈りです。神様に向かって「我が神、我が神、なにゆえ、私をお見捨てになるのですか」と絶望の叫びを上げておられるのではない。むしろ、そういうところを突き抜けて、父なる神の御心のままに、十字架についておられる。その父なる神の御心は、すでにゲツセマネの園で主イエスに示されていたのです。その御心を完全に成就させるために、今、主イエスは執り成しの祈りをささげておられる。父なる神の御心。それは罪のない御子イエスが人々の罪を一身に背負って十字架につかれるというものでした。

さて、以上のようなことを踏まえて、改めて主イエスの裁判を振り返ってみると、どうでしょうか。その真相は、ピラトの尋問を受ける場面で、すでに現れていたように思います。主イエスを裁いた総督ピラトは「十字架につけろ」と狂ったように叫ぶ群衆に向かって、「私はこの人に何の罪も見いだせない」と、三度に渡って宣言しました。

ところが、その罪の無い主イエスが十字架を背負われる。これは冤罪で死刑になるというのではない。無実の罪を着せられて無理やり死刑になるのでもない。もっと意思的と言いますか、ハッキリとした意思を持って、主イエスは十字架を背負っておられる。罪の無い方が、誰かの身代わりとなって罪を背負っておられる。それは、いったい、誰の罪なのか。イエスというお方は、誰の罪を背負って十字架につかれるのか? その一点が受難物語の眼目になってきます。

ここでルカは二人の犯罪人を登場させます。主イエスは彼らと一緒に「ゴルゴタ・されこうべ」と呼ばれる小高い丘まで歩んでいかれる。そして人々は主イエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。つまり、主イエスの十字架を真ん中にして、三つの十字架が立ったわけです。そのとき、主イエスは言われた。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

この執り成しの祈りの声にかぶせるようにして、ルカは十字架のもとに集まった様々な人々の様子をつぶさに伝えています。十字架の下で、くじを引いて主イエスの服を分け合っている人たちがいます。十字架を見つめている人たちがいる。主イエスを訴えた議員たちがあざ笑って言います。

「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ローマの兵士たちが十字架に近寄って来て、酸いぶどう酒を突きつけながら、侮辱して言う。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

これらの人々の姿にオーバーラップさせるようにして、主イエスの執り成しの祈りが響いてくる。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

さあ、彼らとは誰のことなのでしょう? 主イエスが身代わりになって背負った罪とは、いったい、誰の罪であったか? そこのところがお話の焦点になってくるのですが、その前に、主イエスを嘲る人々の言い分に、今少し、耳を傾けてみたいと思います。ここには議員たち、すなわちユダヤの最高法院の議員たちの声と、ローマの兵士たちの声が記されていますけれども、この人々の嘲りは、一つ共通した内容を持っています。それは「自分を救ってみろ」というものです。お前はメシアではないか、神の子ではないか、お前はユダヤ人の王ではないか。それなのに、自分を救うことが出来ない。他人を救ったのに、自分を救えない。そんな救い主があるか。彼らの言い分には、一定の説得力があります。そういう救い主なんて有り得ないではないかと彼らは言うのです。

これはまことにそのとおりであると言わざるを得ません。そういう救い主は、いないのです。しかし、主イエスはまさにその道を行かれる。誰も知らなかった神の僕としての道を行かれる。

十字架の周りにいた人々が、主イエスを嘲りました。お前はメシアではないか、神の子ではないか、お前はユダヤ人の王ではないか。それなのに、自分を救うことすら出来ないで、黙って殺されようとしている。他人を救ったのに、自分を救えない。そんな救い主があるか。

確かに、人々が言うとおりでした。自ら命を投げ打つような救い主など、いなかった。誰もそんなことは思いもよらなかった。しかし、まさに、そこに神の御心はあったし、その御心は主イエスという神の僕によって成し遂げられたのです。先ほど読みましたイザヤ書の神の僕の歌は、その後ずっと展開していって、次第に僕の姿を鮮明に現して、第53章の最後になって、こういう言葉でしめくくられる。

「私の正しき僕は多くの人を義とし、彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え、彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し、背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い、背く者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

この人が執り成しをした。神に背いた者たちのために、執り成しをしたのだとイザヤ書は語る。十字架の上で、執り成しの祈りをささげてくださったのは、いったい、何のためであったか? 思い起こしてみてください。主イエスはこう祈ってくださったのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです。」

さあ、執り成しって、どういうことですか? どうかこの人を赦してやってくださいと口添えをすることでしょうか? 確かに、それも執り成しとは言えるでしょう。

しかし、イザヤがいう「執り成し」には、もっと深い意味合いがある。それはどういう意味かと言いますと「身代わりになる」ということなのです。神に背いた者たちの、負い切れない罪の重荷を、身代わりになって背負う。そういう僕が、やがてこの地上に現れるのだとイザヤ書は預言したのです。執り成しとは、身代わりになることです。そして、執り成しとは、和解をさせることです。

「父よ、彼らをお赦しください」と、主イエスは祈ってくださいました。この「赦す」というのは「解き放つ」ことを意味します。罪の鎖を解き放つのです。罪の重荷を全部取り払って、自由にするということです。どういう罪から解き放ってくださるのか? 主イエスを十字架につける罪からです。確かに人々が言うように、自ら命を投げ打つような救い主などいなかったのです。しかし、主イエスはまさにその道を行かれる。誰も知らなかった神の僕としての道を行かれる。人々は一斉に「そんな救い主は要らない」と言う。神の子なんか要らない。キリストなんか要らない。すでにクリスマスの物語が語っていたように「客間には彼らのいる余地は無かった」のです。人々の心にはキリストを迎え入れる余地が無かったということです。こうして、人々から排斥され、町の城門から追い出されて、とうとう十字架の上まで追いやられて、すべての人が主イエスを排斥した、そのときに、主イエスは祈られた。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

さあ、彼らとは、いったい誰のことなのでしょうか? 2千年前の最高法院の議員たちでしょうか? それともローマの兵士たちでしょうか? ユダヤの人々のことでしょうか? もし、そうであるなら、十字架の物語は、単なる昔語りになってしまいます。そうではないでしょう。ルカの先生であるパウロは、この主イエスの執り成しの祈りの中に自分を発見した人です。彼らをお赦しくださいと祈られたその「彼ら」の中に、ああ、この私もいたのだと青天の霹靂のように示されたとき、パウロはこう言いました。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

パウロはキリスト者を迫害していた熱心なファリサイ派の律法学者でした。神様のために、神様を信じてキリスト者を逮捕、迫害していた。しかし、それは、つまるところ、自分の熱心さであって、神様と敵対していたに過ぎなかった。そんな神の敵であったときに、主イエスが十字架についてくださって、この私の罪を身代わりになって全部解き放ってくださった。そればかりか、神様との和解をもたらしてくださった。

執り成しとは、身代わりになること、そして、和解をさせることです。そこまで分かったときに、パウロは、それまで神様を知っている、信じていると言いながら、少しも神様を知らなかったこと、信じていなかったことが白日のもとにさらされた。そのときに、彼は初めて信仰が与えられたのです。不思議なことです。

なぜ、そんなことが起こり得たか? 信じていないことが明らかになったときに、どうして信仰が与えられるのか? それはほかの誰のことでもない、信仰の無い私のために主イエスが祈ってくださったから。主イエスが祈っておられるのは、この私のことなのだと悟ったからです。私のための十字架。それが心底分かったときに、キリストを信じる信仰は恵みとして与えられるのです。

今日は午後2時から春季墓前礼拝が足羽山の聖徒之墓で行われます。墓前礼拝に引き続いて、お二人の兄弟の納骨式を行います。納骨式のたびに、思うことがあります。今日のお二人も、そうですが、お骨が納められる方々は、ほとんどが私たちの信仰の先達です。この人たちは、天を故郷とし、地上を仮住まいとして歩みました。しかし、天の故郷に帰る道は、いったい、どなたによって、何によって開かれたのでしょうか。

もう皆さん、お解かりのことと思います。イエス・キリストの執り成しの御業によって開かれたのです。執り成しとは、身代わりになること。そして和解を成し遂げることです。この神との和解によって、私たちは天への道が開かれて、天を故郷とする生き方が開かれた。これも十字架の御業。今日、私たちはそのことを心に刻みたいと思います。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月27日(日)のみことば

「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。」(旧約聖書:サムエル記上17章47節)

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(新約聖書:使徒言行録1章8節)

今日の新約の御言葉は、2千年の間すべての伝道者を捉え、生かしてきた御言葉です。多くの伝道者、宣教師が「地の果て」という言葉を使います。北陸にやって来た宣教師トマス・ウィンも「ここは地の果てではなかろうか」と妻に語ったと言われます。それがしばしば誤解を生みまして、この宣教師はこの土地を僻地のように思っておるのかと、そのように反発する人々も現れたといいます。

しかし、宣教師たちが「地の果て」という言葉を使ったことの背後にあるのは、この使徒言行録が伝える主イエスの言葉があったからです。主イエスが言われた「地の果て」とは、決して僻地のことではなく、福音が初めて語られる所という意味なのです。そういう御言葉を信じた宣教師たちが福音の光を携えて、この日本まで、北陸の地までやって来てくれた。これは凄いことだと思うのです。